第四十五話 シモン・エクルストンの剣
海岸沿いを歩き、サンゴの欠片を拾って海へと投げながらクライドは大きく伸びをする。久しぶりに一人になった。
砂浜に座ってみれば、海面の反射をもろにうけることになった。傾き始めた陽は眩しく波間に反射し、直視できないくらいの強さでクライドの目に届く。黙って過ごしていても船の揺れがないのはそれだけで快適だった。しかし、目を閉じるとまだ揺れているような気がする。
一人でいると、考えるのは父のことだった。日記帳は常にポケットに入れて持ち歩いている。封印の呪文はクライドの名前をエルフ語の発音にしたものだったとわかったし、唱えようと思えば今ここでだってやれる。あとすこしで手の届くところに父はいるのだ。
それでも、クライドはこの呪文をまだ唱えるわけにはいかなかった。牢獄のようなところで衰弱した彼を連れて、船旅で帝王を追いかけるなんて無謀だ。全てが終わって鐘を取り戻してからの方がいい。魔法が使える本物のエルフである父が、出てこられないほど強い護りの効いた牢獄だ。逆に言えば外でだいたい何があっても大丈夫で、だからこそ父は十年以上そこで生きているのだ。父を危険な目に会わせたくないからこそ、今は呼ばない方がいい。
「って、わかってるけどな。やっぱり会いたいよ」
ため息とともに本音がこぼれ出た。遠くに鮮やかな民族衣装を着た親子が見えて、思わず目をそらす。どうしてクライドの父はいないのだろう。家族のことを想っていながら、なぜ帰ってきてくれないのだろう。父には出てこられない事情があるのだと理性的に納得したはずなのに、時々こうして子供じみた感情が胸を満たす。
風に煽られた金髪を鬱陶しく思いながらかきあげて、クライドは砂浜をあとにした。背後で子供が楽しそうに父親に甘える声がして、目を伏せる。今のクライドでは、あの子供に笑いかけてやることがどうしても出来なさそうな気がした。
逃げるように浜から遠ざかり、人通りのまばらな路地裏に入り込む。座り込んでいる薄汚れた作業服の男の、暗い目がクライドを捉えた。すぐ目をそらして足早にその前を通り過ぎる。少し落ち着かなければ。
裏通りを抜けて、適当に目に付いた路地にまた入って抜けるのを繰り返しているうちに、いつしかクライドは寂れた商店街にたどり着いていた。空き店舗はずいぶん長い間放置されているようで、どこもガラスは汚れて曇り、内部の家具は倒れてホコリが積もっている。
何件目かの店では、荒廃した店内に着せ替え人形が落ちていた。レストランかカフェだったようで、いくつかあるテーブルには片付けていない食器も見える。商品陳列棚に商品がいくつか置きっぱなしの店もあった。樽に何本か入った杖のようなものが、薄汚れてインクも褪せて読めなくなった値札とともに放置されている。
この退廃的に閉鎖した商店街は、うかつに入ってはいけないような雰囲気だ。なぜここが閉鎖しているのか、他の商店街の人たちとの関係はどうなのか、考えれば考えるほど居心地が悪くなった。営業していた形跡を残したまま立ち退かなければならなかったのだから、ろくな理由ではないだろう。
はやく抜けてしまおうと思っていると、一件だけ営業している様子の店が目に止まる。棒状の品物は樽に入れて立てかけておくのがこの辺りのスタンダードなのか、この店も模造刀のようなものを数本無造作に立てた樽を店先に出している。商品も備品も埃をかぶっていて、経営状態が思わしくないことは就業経験のない子供の目から見ても明らかだ。
店主は色あせた黄色の民族衣装の老人だ。肌は浅黒いというかやや黄疸気味で、骨っぽい痩せた身体が薄い生地の下に透けている。白髪混じりの髪は短く刈り込んでいるが、ところどころ薄くなっている。年齢は七十前後に見えた。彼は店の軒下で、寂びたパイプ椅子に腰掛けてパイプをふかしていた。
目が合う。
感情のない青い目は、クライドを見るとすっと焦点を結んだ。どきりとする。
「あ、あの、こんにちは。旅のものです。何屋ですか」
目が合ったからには会話をしなければならないと思って、クライドは上ずった声で無理やり会話を始めた。老人はパイプを脇のテーブルに無造作に置いて、重そうな動作で腰を上げる。まだ火がついていたが良いのだろうか。煙が立ち上っているのでどうみても絶対良くないと思うが、力のある青い目がクライドを捉えて離さないので声をかけるのも憚られた。
老人はよろよろと一歩ずつ歩いてきて、クライドの前に来て止まった。背は低い。腰がかなり曲がっているからだが、真っ直ぐにしたとしてもクライドより低いだろう。
「お前、アンシェントからだね」
「えっ? あ、はい、そうです」
「匂いでわかる。こっちへ来い」
老人はクライドの手首を掴むと、店の方へ歩き出す。掴まれた手首がぞわりと反応したことで、この人も魔法を使うのだとクライドはようやく気づいた。今この場には、淡い魔力を発生させるものがあまりにありすぎたのだ。薄い異臭がだんだん強まっても最初のうちは気づかないように、クライドは微量の魔力が点在しているこの空間で魔力に慣れてしまっていた。
この店の埃をかぶった刀剣類は魔法の道具らしく、それぞれから魔力の気配を感じる。無造作に放られたパイプからも魔力を感じたし、そこから昇る煙にも少しそんな気配があった。中でも最も強い魔力の気配は、行く先に感じた。
店舗兼自宅という様子の、木造家屋に連れ込まれる。老人は一歩ずつ、よろけながらクライドを引っ張っていた。窓からは遠くに海が見える。庭には錆びたハンモックがひとつ雨ざらしになっていた。部屋の内装も荒れ放題で人が住んでいるようにはどうしても見えないが、老人はずんずん進んでいった。クライドは足元の壁や柱の欠片につまづきながらも、荒削りの一枚板のテーブルがあるリビングを抜け、家の奥の小さな部屋に入る。
クライドは思わず声を上げた。そこだけちゃんと、整理された普通の部屋だった。民族衣装にも使われる織物が敷かれた板張りの床、荒い土壁、所々に本を抜き取られた形跡のある本棚。埃やシミはあったが、生活感がある汚れ方だ。
問題の魔力は、部屋の一番奥に備えられた祭壇から伝わってきていた。鮮やかな赤、青、黄色の布の飾りがついた祭壇には、鏡と一緒に一振りの大きな剣が祀られている。鈍く輝く銀色の剣で、無造作に樽に突っ込まれていた他の剣よりも明らかに作りが精巧だった。素人目にもちゃんと斬れそうなのが分かるし、鞘も作って一緒に祀ってある。柄のところに飾り紐と鮮やかな色糸で作られた房がついていて、そこだけこの島の雰囲気をかもし出していた。
「ワシの曾祖父さんがアンシェントから持ち帰った剣だ。この剣を真似て三代ものあいだ、ここで鍛冶師をしている」
「そうなんですか」
「これは持つものの意のままに魔法を操れる、いわば魔法の杖のようなものだ」
魔力を直接攻撃に使えるということだろうか? だとすれば、呪文を使わずに強力な魔法で相手を圧倒できる。とても価値のあるものだから、こうして祀っているのだろう。
クライドが感心していると、老人は剣を無造作に手に取った。大ぶりの剣なので重そうで、案の定老人はそれを支えきれずに床に落とす。切っ先から斜めに落下した剣は数センチ床に刺さり、約六十度の角度を保って静止している。
驚きのあまり、老人をまじまじと見下ろした。とても価値のあるものだと今わかったのに、彼の剣の扱いがさっき放り捨てたパイプとそんなに変わらないのが衝撃的だった。
「ウルフガング=フローリーと一緒に地獄の門を封じた、シモン=エクルストンが鍛えたと言われている。ワシの曽祖父は、その子孫と親友だった」
「そんな、じゃあ千年前のお宝じゃないですか」
千年前の遺物を、老人は取り落として床に刺した。大丈夫なのだろうか。製作者の身内であるウルフガングがここにいたら笑って許してくれただろうが、普通だったら博物館行きの代物だろう。千年前のものにしては装飾の色が鮮やかで、昨日鍛え上げたばかりだといわれても信じられそうな剣だ。それだけで、どれほど強い魔力を使って加工したかが分かるとクライドは思った。
「お前、これを抜けるか」
「え? 触っていいんですか」
「さよう」
老人がどいたので、クライドは房のついた柄に右手をかける。少し力を込めて、床から剣の切っ先を抜いた。簡単に抜けたが、やはり金属製の剣なのでかなり重かった。これはそのまま祭壇に戻せばいいのだろうか。
尋ねようとして老人を肩越しに振り返ると、振り返った先に広がっていたのは廃れたあの商店街の風景だった。潮風が頬を撫でる。風の音だけが耳にしっかり届いた。
家屋も商品の樽も消え失せ、空き店舗のテナントとテナントのあいだの瓦礫だらけの空き地で、クライドは剣を抱えて呆然としていた。目に焼きついた部屋の内装は絶対に夢ではなかったと思うし、手の中の剣の重みは本物だった。ひしめいていた魔力は消えうせ、自分が握っている剣からのみ魔力を感じた。老人の魔力を辿ってみようと目を閉じたが、彼の気配はもうどこにもなかった。
祭壇のあった場所に向き直ると、粉々に割れた鏡と一緒に鞘が落ちていた。このまま剝き身で剣を持っていても怖いので、鞘を拾って剣を納める。そんなに長居したつもりはなかったのに、もう陽が傾いていた。この剣をどうするか迷ったが、この瓦礫の真ん中に放置して去るのも千年前の鍛冶師に失礼な気がして、クライドはそのまま持って歩き出した。
行くあてもなく歩いた結果ここまできてしまったので道はわからなかったが、潮風の匂いを頼って歩いていると建物の間に帆船の帆が見え出した。よかった、海に出られれば船まではもうすぐだ。
歩きながら剣を見る。鞘に彫られたシモン=エクルストンという名前を見て、クライドは古いアンシェントの英雄を想った。この人はきっと、ウルフガングの亡き後にアンシェント・クロニクルを書いた人ともきっと知り合いだっただろう。
「……ん? 鍛冶屋の、エクルストン? それって」
今頃バッティングセンターで気持ちよく汗を流しているだろう、グレンが頭をよぎる。グレンの家はずっと昔から鍛冶屋だった。あの狭いアンシェントタウンで、鍛冶屋をやっている人は他に知らない。もしかしたら、グレンはアンシェントを救った義勇軍たちの末裔なのかもしれない。というか、ウルフガングの傍にいたグレンに似た顔の男がもしかしたらそうなのではないだろうか。仮にそうではなかったとしても、現存する千年前の剣に遺された名前と偶然一致しているなんてロマンがある。
オレンジ色の夕陽に照らされた市場を抜けて、港へ向う。船に戻ってみるとまだ三人はいなかったので、船室で待った。やがてグレンとアンソニーが戻ってくる頃にはすっかり日も落ちていて、街の街灯が点灯していた。
「おかえり」
「あー楽しかった! グレン凄いんだよ、ストラックアウトで全抜きしたんだ!」
「賞品としてプロテインをもらった。チョコ味とベリー味と、バナナ味を一キロずつ」
再会した英雄の末裔は、両手にプロテインが入ったビニール袋を提げていた。シュールな絵面に思わず笑うと、アンソニーも中身を今知ったようでクライドと声を合わせて笑った。
「いや、真面目な話さ。この船旅でたんぱく質って結構不足しがちだと思うんだ」
「それは確かに」
「ノエルに飲ませなきゃね、細すぎだもん」
笑いあっていると、ノエルが帰ってきた。数冊の本を抱えている。
「おいおいノエル、借りてきたのか?」
「違うよグレン、古本バザーでもらってきたんだ」
「ノエルも揃ったし、俺のちょっと変な話を聞いてくれ」
クライドは船室の明かりをつけて、全員を呼び入れる。テーブルの上にあの剣を置いてあったので、アンソニーが興味津々といった様子で手にとって鞘を抜こうとした。グレンもその背後から剣を覗き込んでいる。ノエルはと言うと、懐疑的な視線をクライドに送った。突然こんな武器が部屋にあったら何事かと思うだろう。
「かっこいい! こんなのどうしたの?」
「それが、ゴーストタウンみたいな商店街に迷い込んで」
クライドは起きたことを順を追って仲間たちに話した。荒廃した町の様子をノエルが考察し、老人の破天荒ぶりにグレンが笑い、剣が登場したところではアンソニーが目を輝かせる。
「そのお爺さんが言うには、シモン=エクルストンっていう人が作った千年前の剣なんだって」
「えっグレン、これグレンのおじいちゃんが作ったの?」
即座に反応したアンソニーは剣を手放そうとしない。わかる。この位の歳の男子はこういうアイテムに弱い。この様子では素振りしたがっているが、それをやると危険なのは一応承知してくれているようだ。
「帰ったら家系図の上の方にシモンっていう爺さんがいないか探してみる」
「可能性は高いと思うよグレン。なんというか、この剣から感じる魔力…… 君に雰囲気が似ているから」
ノエルのその言葉に笑い、一同は改めて剣をじっくり見た。
「杖のように魔法を使う、か。やってみていいかクライド」
「いいぞ末裔、ぶちかませ」
グレンはにやりとして、剣を鞘から抜いた。船室の中では危ないので、四人で甲板に出る。グレンはわずかに夕陽の残照が残る海に向って、真っ直ぐに剣を振り上げた。そして、一気に叩きつけるように目の前の空間を切り裂いた。
ヒュン、と風を切る音。刹那、剣から放たれた衝撃波は海を切り裂いた。
浅瀬の海底が見えるほどの深い溝が生じ、数秒の間を置いて物理の法則を思い出した海が元に戻る。切り裂かれた海が一気に戻り、高い水の柱となって立ち上がった。
「やっべ! 伏せろ!」
グレンの声を聞くまでも無かった。甲板の手すりに掴まったとたん、激しい揺れで放り出されそうになる。アンソニーが叫ぶ声が聞こえ、背中から思い切り海水を被る。額の海水を拭いながら顔を上げると、ノエルが必死にしがみついているのが視界の端に映った。
大きく三往復ぐらい揺れたところでようやく少しずつ揺れがおさまって来た。顔を上げる。ノエルの鳶色の髪がぐっしょりと濡れていた。アンソニーがいないと思ったら、彼は完全に手すりにぶらさがっている。半泣きでもがいているアンソニーを、グレンが見えない魔法の手で救出していた。
「はあ、はあ、びっくりしたあ」
甲板でひっくり返るアンソニーに手を貸しながら、クライドは辺りを見回した。近くにあった他の船がいくつかひっくり返っていたし、船着場の桟橋や倉庫も浸水している。小規模だが津波でも起きたような有様だ。
「クライド、船を出そう。今の騒ぎで人が集まってきた」
ノエルの鋭い声に顔を上げる。確かに、薄暗い港に人々が集まり始めていた。目くらましの魔法をかけているとはいえ、ここにいたらまずい。
「トニー、目くらまし強化だ」
「うん、わかった」
立ち上がったアンソニーは船に向かって空色の澄んだ目を向ける。蜃気楼のように船が揺らめいて見えたと思ったら、すぐにまた元のように無機質な船体が見えた。アンソニーの魔法で問題なく船が隠れたようだ。グレンがすでに操舵室にいて、碇を上げていた。クライドはノエルを連れて船室に戻り、念のため窓から離れたところでじっとしていた。船が完全に沖に出たところで、アンソニーが大きく伸びをして視力の魔法を解除した。そのまま彼は、焦点を結ばない目をクライドから微妙に離れたところに向ける。
「あはは、使いすぎちゃった。真っ暗になってる」
アンソニーの視力は使いすぎると落ちる。酷い場合は失明だ。そう言ったのはシェリーだが、本当に失明に至ったのは初めてだ。心配になるが、その焦点の合わない目の奥の方に、青白く何かが光っているのが見える。たくさん使って活性化した、魔力が可視化されたものだろう。
「ありがとな、トニー。ちょっと寝とけ」
クライドがそう言うとノエルが手際よく布団を敷き、アンソニーは手探りでそこに寝転んだ。