第四十話 ブリジットのレッスン
それからクライドはブリジットに薬の作り方を習ったり、ほかの言語の書物を読んだりした。エルフ語だけでなく、他のどんな国の言語もエルフの血さえあれば読めるというのは本当だった。シェリーが何ヶ国語もの書物を読んでいたように、クライドも一時間あればコツをつかんでいた。
ブリジットの弟は交通事故で亡くなっているが、彼はこの血を生かして翻訳者として仕事をしていたのだという。だからブリジットの家には、ありとあらゆる国の言葉で書かれた書物が少しずつ点在していた。顔も見たことの無い従兄だが、ブリジットが彼のことを語る顔を見ていたら、真面目で姉思いだったのは伝わってきた。クライドも会ってみたかった。
弟の死後しばらくして、今度は両親も亡くしたというブリジットは完全に独りだった。心配したクライドの母にアンシェントに引っ越してくるよう誘われたが、家族との思い出が詰まったこの店を畳む気持ちになれずここの店主に落ち着いたのだという。この店はブリジットの母が、人間界に出てきたての独身の頃からあるらしい。
「お母さんがお父さんと出会った店よ。ブライアンと私もここで生まれてここで育った。だから、置いていくなんてできなかったわ」
エルフの血を引いている女性は、頑張りすぎてしまう傾向でもあるのだろうか? シェリーもそうだったが、もっと甘えて人の力を借りていいのに、彼女たちは何でも自分ひとりで解決しようとしてしまう。
「俺に手伝えることがあったら何でも言ってくれよ。折角会えた家族なんだ」
「そうね、助け合いましょう」
美しい笑顔に偽りはないとクライドは思うが、それでもブリジットにはあまり頼ってもらえない気はした。この人は年下で弟のようなクライドより、きっと傍にいて苦楽を共にしたイノセントの方を真っ先に頼るだろう。
店の小物の品出しをするブリジットを見て、グレンがしばらく悩んでから口を開く。
「こんなこと聞いたの兄貴にばれたら殺されそうだけど、どうしても気になるんだ。ブリジット、なんで兄貴と付き合ってるんだ?」
クライドにとってもその問題は、気にならないわけがなかった。タイミングを計っていたところだったから、グレンに感謝する。聞かれたブリジットはくすくす笑い、こちらをちらりと一瞥する。
「何年か前にね、イノセントが血まみれでナイフ構えて転がり込んできたの。真夜中だったわ」
クライドは思わず眉根を寄せた。まるでホラー映画だ、どこにも恋愛の要素が無い。グレンも全く同じことを思ったようで、彼も不思議そうに首をひねる。
「おい、兄貴怖すぎるだろ。それ絶対付き合うきっかけになんてならないって」
「それでも放っておいたら死んじゃうじゃない。だから弟の着替えを貸してあげて、魔法で傷の応急処置をして、しばらく匿ってあげたの」
「よくそんな真夜中に、どうみてもヤバイ奴を家に上げる勇気があったな。俺なら黙って救急車だけ呼んで逃げる」
思わずクライドが言うと、グレンが吹き出した。
「俺だったら救急車も呼ばねえよ、関わっちゃダメなやつだろ」
「貴方たち、正常だと思うわ。当時の私はかなり人生の方向性について迷っていて、ちょっと自棄になっていたの」
それは本当に自棄だったのだろうとクライドは思った。今は活気のある漁師町の商店街で自立してしっかり女店主をしているとはいえ、数年前なんて言ったらブリジットは未成年だった可能性すらある。多感な時期に家族を亡くし、心が弱っていた彼女にとって、イノセントは辛い毎日を断ち切ってくれる死神のように見えたのかもしれない。
それがこんな風に、無二の相手として信頼しあうまでになったのだから、人生は何が起こるかわからない。
「でもよかった。兄貴にも、本当の兄貴を理解してくれて、全力で信じてくれる人ができたんだってわかったから」
「貴方にもそういう人が現れるといいわね」
ハーブティーを淹れながらブリジットは笑った。この人が笑顔でい続けられるよう、イノセントはさっさと帝王の下から退いて真っ当な人生を歩んで欲しい。グレンは穏やかな表情で、首にかけていたシェリーのお守りに触れていた。きっと無意識だ。クライドは笑みを押さえられない。
「エクルストン兄弟ってエルフに惹かれる血筋なのかな。グレンもエルフの女の子と両想いでさ」
「おい馬鹿、言うなよそれ」
動揺して頬が赤くなるグレンはレアだ。今までからかわれてもどこ吹く風だったのが、シェリーのこととなると簡単に照れているのが顔に出る。グレンにもこんなにうぶなところがあったのかと思うと面白いし、シェリーがグレンをこんな風にさせるという事実が嬉しい。
「思うんだけど、クライドみたいな男の子がエルフの女の子と結婚したらどうなるのかしら? エルフ寄りの魔法を使う、ちょっとだけ人間の血の入った魔道士が生まれるじゃない」
うまく話をそらしたブリジットに釣られて、話題が血筋の問題になった。混血同士で結婚した場合が一番強そうだという気がするが、魔法には個体差も大きいので何ともいえない気がする。ブリジットはクライドのように想像で何もかもを出来るわけではないが、傷を癒したり植物の成長を早めたりするような、動植物のエネルギーの循環をサポートする魔法が得意だという。想像ではなく触れるという行為が必要にはなるが、壁をぶち抜いたり物体に熱気や冷気を加えたりするような派手なこともできるというので驚いた。血まみれのイノセントと真夜中に二人きりになったときも、この魔法があったから彼女は家に入れたのかもしれない。
「それにしても、兄弟なのにグレンは魔法が使えてイノセントは使えないんだな。完全な遺伝ってわけじゃないのか」
「親父の血が濃すぎたんじゃねえの? あのおっさんが魔法使えるなんて思えないし、魔力の血筋があるとしたらお袋の方だと思う」
「そっか。俺、イノセントのことおじさんに似てると思ったんだ。どっかの誰かに似てるんだよなってずっと思ってたんだ」
イノセントを見て最初に感じた面影は、グレンではなくグレンの父の面影だったのだ。だからすぐに、グレンとイノセントが似ていると結びつかなかった。グレンも彼の父と似ていると思うが、グレンは父親と不仲なのでクライドは彼を母親似だと思うことにしている。実際、グレンはどちらのいい所も混ぜ合わせた顔だ。
ブリジットはクライドとグレンを交互に見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「それ、イノセントに言ったら絶対不機嫌になるわ」
「間違いない」
グレンとブリジットが笑い合うのを見て、なんだか絵になると思った。セクシーな大人の女性の魅力を纏ったブリジットと、見た目の麗しいグレンはよく調和している。
「ねえクライド、せっかくエルフの力を使えるようになったんだから、もっと面白いことしましょうよ」
ブリジットはそう言うと、棚から何やら外国の言葉で書かれた本を持ってきた。先程まで読んでいたものとは別だが、クライドはもうこれを読める。
「鉱石の種類について?」
タイトルを見て言うと、グレンが頓狂な声を上げる。
「そんなふうに書いてあるのか」
飾り文字が美しい、ハードカバーの洒落た本だ。学者向けではなく若い女性向けのデザインだと思う。文字を目でなぞれば意味を捉えて理解できるが、実際に見えている文字はクライドの勉強したことがない外国語のままだ。見えているものがディアダ語に変換されているわけではない。それなのに、別の言語で文字を書きたいと思うと知らないはずの文字を当たり前のようにアウトプットできる。この、認識と行動のズレが気持ち悪くて困る。血を使っているので実際に貧血で気持ち悪いのかもしれないが、とにかく長い時間別の言語に触れるのは難しそうだ。
「音読してみて、クライド」
「声に出したらディアダ語にならないか?」
文字はまだしも、母国語でない言語の発音はさすがにできないだろう。巻き舌や特定の子音の特殊な発音は、アンシェントタウンで外国語の授業があったときに散々片言だと指摘された箇所だ。
「クライド。あなたの想像力は自分自身にも蓋をしているんだわ。わかるわけないって思うから、わからないのよ」
「どういうことだよ」
「私のいとこなら、あなたも話せるし聴けるわ。お父さんの血を信じて、クライド」
ブリジットはクライドの背中を優しく撫でて、ぽんと軽く叩いた。本に目を落とす。金剛石とも呼ばれるダイヤモンドは、炭素でできている。その文章を目でなぞり、声に出そうとするがためらう。さっきだって、本のタイトルはディアダ語でグレンに話しかけてしまったではないか。
「読めたかしら?」
「読めるけど、声に出しては……」
そう言うと、隣のグレンが愕然とした。
「今の何語だよクライド?」
「えっ、俺今喋ってた?」
「ペラッペラだった」
クライドはディアダ語しか話せないと思いながら、ブリジットに返答したつもりだ。それならブリジットに伝わるディアダ語で喋っていないとおかしい。クライドの背後から一緒に本を覗き込んでいるブリジットを、肩越しに振り返ってクライドは尋ねた。
「ブリジット、これ、どうなってるんだ」
「私はこの本の言葉で貴方に声をかけたの。貴方は貴方に向かって私が話した言葉を、無意識に聞き取ってちゃんと伝わる言葉で返してくれたのよ」
「なるほど…… それじゃ、慣れれば特別難しいことじゃないのか」
「ええ、そういうこと」
何て楽しい力なのだろう。そう思うと自分でも抑えられないぐらい、体をめぐる血が活性化するのを感じる。指先から胸の奥へ、両足を伝って戻る血の流れを誇らしく思った。この血は特別な力だ。他の誰にも奪われない、クライドだけのものだ。
高揚するクライドを見て、グレンは長い指で前髪をかき上げながらいつものように軽い調子で笑った。
「便利だな、エルフの力。この手に不満はないけど、やっぱ憧れるよな」
「あら、忘れたのグレン? 貴方も魔道士よ。魔法を使えるじゃない。呪文を勉強すれば何でもできるようになるわ」
「そっか、俺はそういう方式で魔法を使えるのか」
そこからしばらく、クライドはグレンと一緒にブリジットの持っていた呪文集を開いて簡単な魔法を習得することを始めた。小さな火を出したり、コップ半分ほどの水を出したりしていたグレンは、最終的にテーブルの木材から新たな枝を芽吹かせることに成功した。クライドはつい想像して成功させてしまうので、グレンに何度かズルをするなと怒られた。ブリジットは発音のコツや魔力の扱い方を分かりやすく教えてくれて、先生に向いていそうだとクライドは思う。
やがて学校の最後の授業が終わる時間になったので、クライドはグレンと共にブリジットの店を出た。学校に乗り込んだりスタンリーの家で待ったりする案もあったが、最終的には校門で待ち伏せをした。乗り込んでもクラスがわからないのと、スタンリーの家で待っていたらノエルとサラがデートを始めて帰宅が遅くなる可能性があるという考えだ。
下校する生徒たちに混じってノエルはサラと一緒に歩いていたが、校門前で怪しく身を潜めるフリをするクライドたちに気づいて吹き出す。
「何をしているんだい、二人とも」
「ラジオの景品、もう決めちまったか」
「ああ、それかい。漁船をもらうことにした」
ハイタッチでノエルに感謝を伝える。目論見どおりノエルはクライドたちに一番必要なものを選んでくれた。
「そろそろ港にあるはずだよ。でも、船舶を操縦する免許をもっていないから、使えないって」
ノエルがそういって、校門に身を寄りかからせた。グレンが驚いたように声を上げる。クライドも驚いた。まさか免許の話が出てくるとは。そうだ、確かに免許がないと操縦できない。なのに、如何してこんなに初歩的なことを最初に考慮できなかったのだろう。
「大丈夫だよ、とっさにウォルのことを出しておいたから。二十五歳で、船舶の運転資格を持っている人がいますって」
ウルフガングが船舶の免許なんて、絶対に持っていないだろうとクライドは思った。千年前にそんな資格があるわけがない。それでも、ウルフガングなら千年もこの世界を見ていたのだ。船ぐらい扱えるのかもしれない。
早速漁船を見に行きたかったが、ノエルはまだサラに付き合って部活に参加するらしい。サラは吹奏楽部のアルトサックス奏者で、こんどの地区大会でソロも任されるというから練習もしっかりすべきだと思う。ノエルはノエルでピアノがすらすら弾ける位には音楽センスを持ち合わせているので、通訳兼アドバイザーとしてきっと必要だ。
「頑張れよ、サラ。こんど地区大会のDVD送ってくれ」
思わず普通に話しかけてしまってから、彼女がディアダ語を話せないことを思い出す。謝ろうとすると、サラはハシバミ色の澄んだ目を瞬かせて唖然としていた。そうだ、今のクライドはうっかり彼女に伝わる言語で話しかけてしまった。
「どうしてウィフト語が話せるの、クライド」
「この短時間に練習したのかい? それとも、もしかして」
「そのもしかしてだな」
にやりとすると、ノエルは眉をあげて神妙そうに黙る。サラはノエルを見上げ、クライドのことも交互に見つめて困ったようにノエルの袖にすがる。
「俺さ、エルフの混血なんだ」
「ちょっと、突然意味がわからないよクライド」
怒ったように言われるが、それもそうだと思う。サラは魔法の使えない普通の女の子だ。頭がおかしいと思われても仕方ない言動だし、ずっとウィフト語が喋れるのを隠していたと思われている可能性だってある。クライドが説明をしようとしたところに、短いチャイムが鳴った。部活時間の予鈴らしい。
「サラ、遅れるわけにはいかないから僕が話す」
釈然としない顔でサラは頷き、楽譜を抱えて先に歩き出した。ノエルはそんな彼女について数歩歩いてから、大きな溜息をついて振り返る。翠の目は不機嫌に細められ、表情には困惑の色が濃い。
「クライド…… 僕、自分のことだってまだサラに話してないんだ。ずっと黙っているつもりだった」
「え? 昨日ドアを粉にしたろ」
「見せないように角度に気を遣っていたんだ、アンソニーの後ろに隠れるようにしたのはわざとだよ」
墓穴だった。秘密にしたかったことをうっかり暴露してしまうなんて、友達としてやってはいけない。時間が無いのでノエルはもうこちらに背をむけていたが、クライドは歩こうとしている彼の背中に声をかける。
「ノエルごめん、カミングアウトのタイミングを勝手に決めちまって…… 港で待ってる」
肩越しに振り返って口元だけで苦笑を返したノエルは、小走りでサラに追いついて肩を叩いて注意を引いた。サラの不安げな横顔が気がかりだったが、クライドは黙って聞いていたグレンの方を振り返る。
「すげーな。俺今、つかのまジュノアにいたぞ」
三人の会話をグレンは楽しんで聞いていたようだ。彼を仲間に入れてやることができなかったが、いずれノエルがきっとウィフト語を教えてくれるだろう。
「サラにエルフの混血だよって言ってみたら信じてもらえなかった」
「そりゃそうだ。そんで、ノエルに説明してもらうって魂胆か?」
「部活の時間が迫ってたみたいだからな。さて、二人が帰ってくるまでどうしようか」
少し余った時間で、特にやりたいこともない。本来なら船を確認したいが、持ち主が学校なのだから仕方ない。ウルフガングの小屋にいってもいいし、町をぶらついてもいいだろう。アンソニーとエディを探してもいい。グレンに判断を任せてみよう。
「折角だからちょっと町を歩いてみたい。クライドに似合いそうな靴を売ってる店があってさ」
「へえ。グレンの見立てなら信用できるな」
アンシェントでは服屋や靴屋が少ないので、こうして友達と服飾品を買いに行くこともあまりなかった。そもそもクライドはあまり裕福ではないので、古着を買うことの方が多い。靴はもっぱらネットショッピングだが、しばしばサイズが合わなくて大変な思いをしていた。
部活が終わるまでの二時間の間、クライドはグレンと若者らしい遊び方でしばらく旅のことを忘れた。