表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/69

第三十八話 閉ざされた記憶の扉

 彼は左肩を押さえながら、憤怒の形相で影の男を睨みつけていた。だらりと下がった左手には、大振りのナイフが握られている。ナイフは、肩から腕を伝って流れてくる血で汚れていた。唖然とする一同の前で、一向に止まらないイノセントの血がナイフを伝って床にぽたぽたと垂れ続けた。

 彼の圧倒的な憤怒の感情を前にして、クライドは立ちすくんでいた。彼がここに来たということに、驚いているような余裕も無かった。

 イノセントは先ほどの比ではないぐらいに怒っていて、額に青筋が浮いている。敵はブリジットに危害を加えそうなのだ、それもそうだろう。

 本人には悪いが、クライドはイノセントが死んだか、良くて意識不明の重体だとかそういう状況なのだと思っていた。確かに影の男はイノセントを撃ったと言ったが、撃ち殺したとは言っていない。しかし、あの醜悪な笑みを見てすっかり騙されてしまった。肩の傷はひどそうだが、彼は気力を振り絞って立っている。ブリジットを護ろうとしている。

「イノセント=エクルストンのお出ましか。もっとちゃんと気の済むまで蜂の巣にしておくべきだった。そのムカつく顔、ミンチにしてなあ!」

 吐き捨てるように、影の男は言う。そのとたん、影の男の姿が一瞬にして変わった。昨夜見た、染料のような青い髪の男になったのだ。おそらく、これが影の男の本当の姿なのだろう。

 イノセントは、恐ろしい形相で影の男を睨みつけていた。そして、背中にブリジットをかばいながら影の男と相対する。戸惑い気味のブリジットは、恐る恐るといった様子でイノセントに声をかけた。

「イノセント、その怪我……」

 イノセントはぴくりと反応し、殺気を絶やさぬまま、しかし穏やかな声で応える。

「離れていろ。今はお前を護るのが先だ」

 その言葉にブリジットは頬を赤らめ、目を潤ませた。そして、イノセントの背中から離れて壁際に下がっていく。それを横目で確認し、イノセントは腰のベルトにつけていた小さくて細い投げナイフを手に取る。

「エルフの混血が血を流すと、魔力が暴走して敵味方関係なく壊滅するというからな」

 何気なく付け加えられたこの言葉に、ブリジットの表情が曇った。イノセントは、ブリジットが混血だから守ると言っているのだ。もし彼女が傷ついた場合、自分が危ない。彼は暗にそういっている。

 そういえば、影の男はブリジットがエルフの混血だと知っているのだろうか?

「クライド=カルヴァートのことか? 心配するな、イノセント=エクルストン。そいつはぶん殴って鼻血ぐらいは出すかもしれないが、撃ち殺すつもりはない。こっちで色々使うんでな」

 この発言で、ブリジットもエルフの血を引いているということに、影の男は気づいていないことがわかった。イノセントが、微かに口角を上げる。こういう目的で、今の言葉を付け加えたのかもしれない。この男は案外策士だ。今はかなり感情的だが、冷静さを失っていない。

 影の男は、相変わらず挑発的な笑みをイノセントに投げかけ続けていた。しかし、イノセントは動じなかった。

「出て行け。俺が目的なのだろう、こいつらは関係ない」

「ハッ、てめえを殺すからこそだ。ありとあらゆる苦痛を与えた上で殺してやる。目の前で弟を殺されて恋人を犯されて、何度でも絶望しな。てめえが這って戻ってくる頃には惨劇が出来上がっているはずだったが、案外しぶとかったな。クソ」

 おちょくるような口調で、影の男は言った。イノセントは静かに怒りの程度を上げており、手に持ったナイフをきつく握り締めている。そのせいだろうか、肩の傷口からの出血が先ほどよりも酷くなった。

 クライドの後ろあたりでは、グレンが二人を食い入るように見つめている。彼の喉仏がごくりと動く。

「口の減らないサルだ」

 閃光のように、イノセントが動いた。彼が持つナイフの切っ先が、恐ろしいほどの速さで影の男の肩を裂いた。切れた青い髪が、数本はらりと舞い落ちる。一瞬置いて、影の男の肩からじわじわと血が流れ出してきた。

 影の男の顔が苦痛にゆがんだのは、ほんの一瞬だけだった。しかし、傷は深い。血はすぐに影の男の派手なTシャツの袖を赤く染め、腕を伝い始めた。

「犬猿の仲って奴か。知能指数はサルのほうが高いがなぁ? ワン公」

 皮肉っぽい口調で言いながら、影の男が引き金を引く。

 ダンッ! 銃声が響いた。直後、標的となったイノセントの後方にある棚のガラスが粉々に割れて床に散った。ブリジットが小さく悲鳴を上げる。

 だが、イノセントは表情一つ変えずに影の男を見据えていた。彼は銃弾をかわしたのだ。左肩以外に、どこにも傷などついていない。もしかすると、影の男の腕が悪かったのだろうか。負傷した肩が痛んでうまく力を出せなかったのかもしれないし、イノセントの後ろのブリジットが無意識に魔法で逸らしたのかもしれない。

「胴を狙うべきだったんだ、クソッ」

 小さく毒づいて、影の男が銃に弾を込めようとした。しかしその瞬間、銃がいきなり吹っ飛んだ。弾の入っていない銃が、床にぶつかって大きな音を立てた。そしてそのまま、見えなくなる。ちょうど、影になっている部分に落ちたのだ。もしかすると、銃はそのまま床をすべり、棚かどこかの下に入ってしまったかもしれない。

 よく見ると、イノセントもナイフを持っていなかった。持っていたはずのナイフは、近くの陳列棚の下に見える。クライドの位置からだと、刃にわずかな光が当たって跳ね返るのが見えた。

 おそらくイノセントは、あのナイフを使って影の男の手から武器を奪ったのだろう。投げつけて弾き飛ばしたに違いない。速すぎて見えなかったが、思い返せば微かに金属同士のぶつかり合う嫌な音が聞こえた気がした。

「どこを狙っても同じだ」

 冷たい声で言うと、イノセントは影の男に突進した。避ける間もなく、影の男はイノセントに組み敷かれた。硬い床に、二人の男が同時に倒れこむ。古びた店内に、体重を感じさせる音が響いた。

 イノセントが服の下に手を入れて折りたたみ式のナイフを取り出した。予備のものを持っていたようだ。影の男は馬鹿にしたような笑みをうかべると、姿を変えた。今度は、ブリジットの姿だ。一瞬、イノセントは怒ったように目を見開いた。しかしまた、平静を取り戻した。

「ねえ、私を殺したりしないわよね? あなた私のこと、愛してるって言ってくれたもの」

 縋るような表情で、影の男は言った。中性的な声で、イノセントに媚を売るように。話し方の抑揚は完璧だった。演技はうまいようだ。

 だが、本来の姿を知っているクライドにとってこれは不自然でしかなかった。ブリジットの顔をした男が、イノセントに媚を売っている。あの嫌な男が、ブリジットの口調を真似ている。気分が悪かった。

「見苦しい光景になるぞ、ブリジット。目を伏せていろ」

 冷静にそういい、イノセントはナイフを振り上げた。完全にこの場で刺すつもりだ。影の男はもう観念したのか、ブリジットの姿のままイノセントを見上げ続けていた。いつのまにか、口元から嫌な笑みが消えている。

 イノセントは全く躊躇せずに、ブリジットの姿をした男の胸の真ん中辺りにナイフを振り下ろした。クライドは思わず目を瞑り、顔を背ける。

「なっ!?」

 驚いたようなイノセントの声に、目を開ける。すると、イノセントの下に組み敷かれていた偽者のブリジットがいない。勿論、影の男が本来の姿に戻ったわけでもない。

「チッ。思いのほかあっさり刺そうとしやがった。こいつは殺人鬼だ、よかったなあブリジット=スタイナー? 生きたまま腹を裂かれて、切り取られた手足を詰め込んで貰えるぞ。そういう趣味だろ?」

 皮肉っぽい口調でブリジットの方へそう言いながら、影の男は短い指で前髪をかき上げた。彼は茶髪の少年に変化したのだ。小さな少年は、楽々とイノセントの長躯から逃れることが出来たようで、イノセントから一定の距離を置いて立っている。未だに影の男を組み敷いた姿勢のままだったイノセントがようやく立ち上がると、影の男はまた一歩距離をあけた。

「お前、は……」

 かすれるような声で、イノセントがつぶやいた。先ほどまで冷静だったイノセントは、まるで怖いものでも見たかのように目を大きく見開いて、呼吸を荒くしている。妙だったのは、グレンも同じように目を見開いてその場にへたり込んでいたことだ。短く呼吸しながら、グレンは瞬きも忘れて少年を見つめている。

 影の男は、蔑むような表情を顔に浮かべた。

「てめえのせいだ。何もかも。てめえが苦しんで死ねば、全て報われる。俺が終わらせる。てめえの全てを、壊してやる。せいぜいかりそめの幸せを味わいな」

 この口調は、普段の影の男そのものだった。影の男は、この少年とどういう関係だったのだろう。明らかに偶然イノセントの弱みを握った風ではなかった。

 待てと声をかけるまもなく、影の男は去った。憎悪を込めた目で、イノセントを睨みつけてから。

 その場にいた全員が、何もいえなかった。ブリジットが座り込んで震えているのは、理解できた。影の男が消えたドアをただ呆然と見つめているグレンの気持ちも、よく解った。クライドだって、呆然と影の男を眺めることしか出来なかったのだから。

 だが、イノセントが戦意を消失して立ち尽くしているのだけは妙だった。あの男が、こんな風に戦闘を放棄することもあるのだ。

 グレンの言葉がフラッシュバックする。幼い頃、イノセントは子供を刺して町を出て行ったとグレンは言った。イノセントが殺してしまった少年が、あの茶髪の少年に違いない。グレンはきっと、それを思い出してしまったのだ。

「うっ」

 軽く呻き、イノセントが倒れ込んだ。手にしたナイフが床に落ち、大きな金属音を立てた。ブリジットがすぐさま立ち上がり、彼のそばに駆け寄る。

 イノセントの左肩の傷が、再び大量に血を流していた。傷口を押さえる彼の指に、いく筋もの禍々しい赤が絡みつく。彼の黒い服には、一段濃いトーンの黒がにじんでいった。ぽたぽたと滴り落ちた血のしずくは、床に血だまりをつくっている。血だまりは徐々に広がりつつあった。このままでは失血死しかねないと本気で思ってしまうほど、酷い傷だ。

 イノセントは息を荒げ、傷口を押さえる手に力を込めていた。圧迫止血でもしたいのだろうが、それは返って逆効果に思える。もしかすると、イノセントは痛みを我慢するために指先に力を込めているのかもしれない。あるいはその痛みで現実に戻ってきたいのかもしれないと思うほどに、目にまだ憔悴の色が見える。

 ブリジットはそんなイノセントの脇に屈み、彼の服を脱がせている。クライドも手伝おうとカウンターの裏を見て、応急処置が出来るように救急箱を探し当てた。当たり前のように助けなければいけないと思った。敵対勢力の人間だとはいえ、従姉の恋人で親友の兄なのだ。何もせず見殺しになんてできるわけがなかった。

 クライドは、探し当てた救急箱をブリジットに手渡した。ブリジットは、クライドから救急箱を受け取ると、礼を言いながら中を探り始めた。包帯は長さが足りず、止血はイノセントのシャツを破って結ぶというワイルドな方法で行うことになった。傷口を縛られたイノセントは呻き声をあげ、ブリジットも辛そうに目を背ける。手際よく傷の処置をするブリジットを見て、慣れた感じがするとクライドは思った。きっと何度も、こうして傷だらけになったイノセントを助けてきたのだろう。

「多少、楽になった」

「まだ血は止まっていないわ」

 ブリジットは、タオルでイノセントの血を拭きながらそう言った。イノセントは頷き、立ち上がる。まさかこのまま店を出るつもりだろうか。

「奥で休んでいる」

 ふらつく身体を壁に寄りかからせながら、イノセントは言った。ブリジットはうなずいて、すぐさま立ち上がって彼を支えようとする。

「ベッドを使って。すぐ処置するわ」

「お前の今夜の寝床がなくなる」

「そんなもの気にしないで、魔法で片付けるもの」

 ブリジットはこちらを振り返り、『お店を閉めて』と指示を出すとイノセントを支えて奥の部屋に向かった。ブリジットが住居スペースにしているところだろう。

 クライドは言われるがまま、ドアの札を『Close』にして内側から鍵をかけた。ついでにカーテンも閉めた。

 奥についていっても出来ることはないと思うので、彼女が戻るまでに割れたガラスや血痕を処理することにした。掃除道具入れのロッカーがカウンターの裏にあったので、そこからモップや箒を出してくる。まだ呆然とした様子を引きずっているグレンにモップを渡せば、彼は機械的に受け取った。そして少し俯き、言葉を選ぶように黙ってから声を上げる。

「思い出しちまったなあ、アレ」

 グレンがぽつりと呟いた言葉を、クライドは慎重に拾う。

「ウォルの小屋で言ってた、見覚えのある青い目のことか」

「そう。俺、間近で見たんだよ。兄貴が刺すところ。見ていたはずなのに思い出せなくて、刺したっていう記憶だけ残っていた」

 あの不自然な青さの目に見覚えがあったのなら、少年の姿はきっとイノセントが刺したときのそのままの姿だっただろう。きっと少年の身内だろうと思われる影の男は、それが良いか悪いかは置いておいて、イノセントを恨む理由としては納得のいく過去を持っていた。帝王の手下たちとの関係性はよくわからないが、影の男はイノセントと和解することは永遠に無いに違いなかった。

「思い出さないほうがよかったな」

「全くだ。けどちゃんと思い出せたから、兄貴が一人で抱え込んでいた問題を、俺が一番近くで一緒に考えることが出来る」

 そうなるといいなと、クライドも思った。完全にグレンを殺す気でいたイノセントが、ちゃんとグレンを家族とみなしてくれるかは正直なところ分からないが、ブリジットがイノセントを軟化させてくれれば見込みはある。

 グレンはすっかり暗い気持ちを振り切ったのか、にやりと笑う。

「そういや影の男って名前があったんだな。思いのほか普通の名前だった」

 長い髪を首の後ろで結びなおし、グレンはモップを雑にかけはじめた。血痕が伸びているのでもう少し板目に沿ってやったほうがいい。クライドは、グレンが広げてしまう前にガラスの欠片を手早く箒で集めた。

「悪趣味なやつだよな。たぶん友達いない」

「だろうな。女の口説き方も下手だったし」

「女の子、口説いたことないグレンに言われるなんて相当だよな」

 笑い合う。空気もほぐれてきたので、グレンが伸ばした血痕をモップがけする。グレンはそれに気づいて苦笑いすると、モップを洗うバケツにどこからか水を汲んできた。

「ありがと」

「思ったんだけどさ、ブリジットと兄貴が結婚したら俺ら親戚だな」

「そうだな! よろしくな、従兄弟! いや、あれ? 俺らって従兄弟になるのか?」

 親族がほぼいないクライドにとっては、親戚の区分は謎に包まれている。血族はなんとか常識の範囲内ぐらいでわかるが、婚姻が絡んでくるとややこしくて分からない。グレンもそれは同じようで、形のいい眉を片方上げて考え込んでいる。

 そのうちブリジットが戻ってきた。長い髪を束ねていたシュシュを外しながら、彼女は知的な目を交互にクライドとグレンに向けて笑う。

「ありがとう。片付けてくれたのね」

「イノセントは?」

「上手く処置できたわ。すぐに元通りとはいかないけれど、魔法で」

 そう言うとブリジットは、店に陳列してあった蒼い薬をグレンに渡した。

「グレン。あなたが持って行ってあげて」

 だが、グレンは首を横に振ってそれをブリジットに返そうとした。当然だろう。あの男はかなり特異な兄だ。弟を殺すことを念頭に置き、いつでも狙っていた男なのだから。クライドや影の男が登場したおかげでイノセントの視線がそちらに誘導されていたが、二人きりになったら危ないと思う。

「俺が行ったら、また殺すだの刺すだの始まるぞ。ちょっと時間を空けたい」

 うんざりとしたような顔で、グレンは言った。クライドも頷く。

「そういうこと言える状況じゃないのは本人が一番分かっているはずよ。むしろ武器もなくて動けない今が会話のチャンスだわ」

 そうだ。確かに、ナイフは持っていないはずだ。グレンは少し考えて、苦笑いしながらブリジットの薬を受け取った。

「わかった。かなり気まずいけど」

 グレンは部屋を出て行った。あとに残されたクライドとブリジットは、手分けして店の掃除の続きをした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ