第三十七話 客人
客が来たらしいので、入り口のほうを窺う。魔法の店に来る客なのだから、きっと魔法をいつも使っている魔道士に違いない。ブリジットは、クライドたちが来たときと同じようにいらっしゃいと言う。
ドアから入ってきたのは、金髪の男だった。肩までの真っ直ぐな金髪を揺らしながら、足音も荒くこちらに向かって歩いてくる。彼はそんなに髪の手入れに気を使っていないのだろうが、その髪を羨む人は多いと思う。背は高く、目は空を写し取ったかのような綺麗な青色だ。しかし、目つきのせいでそれは青空というより氷河といった方が正しいような気がする。言うまでもなく、彼はイノセントだった。
イノセントは、まずクライドの姿を見つけた。氷のような色合いの眼が、じろりとクライドを睨む。その眼はやはりグレンに良く似ていたが、雰囲気には全く共通点が無い。
何をされるのかと身構えたが、イノセントはクライドではなくブリジットを睨みつけた。
「どういうことだ?」
強烈な殺気が感じられる声だ。だが、ブリジットは怯むことなく微笑んだ。そして、つかつかとクライドに歩み寄る。
正面を警戒しつつもブリジットに視線をやると、背中から軽く抱き寄せられた。思わず目を見開いてしまう。女性に抱きしめられる感覚なんて、長い間忘れていた。ブリジットがつけている香水の香りが、クライドの鼻腔を満たす。柔らかで暖かい胸の感触が、服越しにクライドの背中に伝わった。
「紹介するわ、クライドよ。私のたった一人の従弟なの。可愛いでしょう」
彼女の言葉に、イノセントが怒りを露にした。よほどの常連だったのか、それとも何か契約でもしていたのか。どちらにせよ、ブリジットとイノセントの関係は深かったようだ。
「貴様……」
腕組をして壁に寄りかかっているグレンは、クライドとイノセントを交互に見て、それからブリジットを見て首をかしげている。いまいち状況が理解できていないようだ。何より、この空間でイノセントはグレンに目もくれないのだ。あんなに殺気をまとって殺害予告までしていたのが、嘘のようだ。
「ごめんなさい。クライドは渡せないわ」
店の常連客にしては、お互いに込み入った事情を知りすぎている。あの誰も信用しないイノセントが、ブリジットにクライド捕獲の協力を要請するなんてよっぽどだ。二人はきっと弱みを握り合っているに違いない。
「ガキのことを訊ねたとき、貴様は確かに知らないといったはずだ。嘘をついたのか。俺を裏切ったのか、ブリジット」
この発言に、クライドは少なからず驚いた。この男が人の名前を呼んだのを聞いたのは、たった数回だ。必ずクライドはガキとか貴様と呼ばれるし、ノエルやアンソニーなど最初から眼中に入っていないようである。グレンと、ブリジット。この二人だけが、この男に名を呼ばれた希少な人物だ。
ブリジットが、クライドを抱きしめる腕に少し力を入れた。こういうとき、どういう表情でいたらいいのか全くわからない。刺激してはいけないので、とにかくイノセントとはあまり目を合わせないようにしよう。暫くじっと下を向いていると、ブリジットの押し殺したような声が聞こえた。
「そうね、ごめんなさい。でも聞いて、両親が死んで独りになって、私の家族は誰もいなくなったわ。残ったたったひとりの血縁者がこの子なの。叔母さんの意向で会ったこともなかったけれど、私にとっては家族なのよ」
衝撃的だった。ブリジットの親、すなわち伯父と叔母にあたる二人は死んでしまっているのだ。
イノセントは冷たい目でブリジットを睨んでいる。そして、徐に腰に手をやる。そこには、ナイフが隠されていた。イノセントは片手でナイフを玩びながら、クライドとブリジットを順に睨む。その眼光を真っ直ぐに受けてなお、ブリジットは話し続けた。
「あなたはクライドをどこかに連れて行って、そして殺させるのよ? 嫌よ。だからイノセント、今回ばかりは、私に従ってもらうわ」
一同がしんとした。グレンは黙ってブリジットを見つめている。ブリジットの心音が早くなっていることを、クライドは背中で感じていた。強気で言い切った彼女は少し震えていた。『クライドを逃す秘策』は絶対に今繰り広げられているこの状況ではないと、クライドは悟る。
舌打ちをひとつすると、イノセントがゆっくり歩み寄ってきた。ブリジットがクライドを抱きしめる力が、また少し強くなる。視界の端に映る、マニキュアの塗られた指先が力を込めすぎて白くなっていた。
ぎい、と床が軋んだ。イノセントがゆっくり近寄ってきた。彼が玩んでいたナイフは、いまや攻撃態勢に入っている。その切っ先は、まっすぐにブリジットを狙っていた。
「お願い。この子を連れて行かないで」
力強い声で、ブリジットは言った。イノセントの表情に、一瞬暗いものがまじった。
「裏切るだけに留まらず、反抗するつもりなのか。死にたいらしいな」
とうとう、イノセントはクライドとブリジットの真正面に立った。張り詰めた殺気に、押し殺されそうだとクライドは思った。
刃物を構えたイノセントは、大きな殺気の塊としてそこに存在した。今度こそ逃げられないだろうし、逃げることを許されるような雰囲気ではない。たとえ逃げたとしても、後ろからナイフが飛んでくるだろう。若しくは、イノセント本人が走って追ってくるかもしれない。あの男から逃げ切れる自信なんてない。不用意に誰かが怪我をする想像をしそうになるので、想像の力もすぐには使えない。落ち着け、落ち着け、と心の中で呪文のように繰り返す。
何を考えたらいいだろう? イノセントが寄ってこないようにする想像だろうか。どう想像すれば寄ってこないのだろう。寄ってこないとしてもナイフを投げることは出来る。そこまで封じる魔法を使えるだろうか。床に穴を開けようか? いや、駄目だ。この古びた店内でそんなことをしたら、ブリジットやグレンを巻き込む。
「ねえ、待って…… 私ならクライドの身代わりになれるんじゃないかしら? イノセント」
ぴくりとイノセントの眉が動く。その反応を確認したようなタイミングで、クライドの胸で交差されていたブリジットの腕が離れた。そのまま、そっと後ろに追いやられる。
「私きっと、クライドと同じぐらいの価値があるわよ。それで見逃してくれないかしら」
「やめろ、ブリジット!」
よろめきながら、低く唸るような声で叫んだ。そしてブリジットを庇うために前に出ようとするが、彼女の白い腕がそれを止めた。何故かその動作だけでクライドの足は動かなくなり、その場から微動だにできなくなる。
「ブリジットっ、何したんだよ!」
「大丈夫よ、私が死んだら動けるようになるから」
ブリジットが腕を下ろすところを、ただ見ているしかなかった。彼女もエルフのハーフだ。魔法を使える人だというのを、今まで意識していなかった。
「お願い、イノセント。クライドには叔母さんもおばあちゃんもいるの、待ってる人がいるのよ。私はそうじゃない。いなくなっても、問題ない」
「そんなわけないだろブリジッ、」
彼女の名前を最後まで呼べないまま、喉が詰まったようになって声が発せられなくなる。
背中を嫌な汗が伝うのを感じる。動けないのに腰が抜けそうだ。一体、どうなってしまうのだろう。ブリジットはイノセントに一歩だけ歩み寄る。かつん、と鳴るハイヒールが静寂を切裂いた。
「それとも、貴方だけは困ってくれるかしら。どう? 悪くない話でしょう」
イノセントは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。馬鹿馬鹿しいと言いたげに、ナイフを握る手に力を籠める彼は止まりそうにない。
ブリジットは真っ直ぐイノセントを見つめていた。イノセントも彼女を見つめ、苦々しい表情で絞り出すように声を発する。
「裏切りが俺にとってどういう意味を持つのか、貴様が理解していないとは言わせない。貴様はここで俺が殺す」
動け、動けと念じるが足はやはり動かない。目を閉じて、イノセントのナイフが真っ赤なバラの花に変わっているところを想像する。しかし、目を開けても何も起きていなかった。ブリジットの魔法はクライドの想像まで封じてしまったらしい。
「裏切ったつもりはないわ、ちゃんと対価を差し出しているじゃない。殺すぐらいなら、早く、あなたが私を裏切って。最期まで道具として使い潰してよ」
「貴様に語るべきことは無い」
イノセントの冷たい声が、死刑宣告のように響いた。そして彼の持つナイフが、光を反射してきらりと光った。こんな状況だが、ブリジットは冷静さを取り戻したようだ。真面目な顔で、イノセントを見つめる。
「私を殺すメリットって、一体何かしら。クライドと一緒に連れて行ったっていいじゃない」
ブリジットは、また一歩前に出た。この状況でイノセントに近づくという選択肢を選んでしまったブリジットはどうかしている。クライドは必死に足を動かそうとするが、腰から下が石になったように動かない。上体を捻ってグレンを見れば、グレンも二人を睨みながら口だけ動かしていた。彼にも同じ魔法がかかっていることは、それを見れば明白だった。
「俺の気が晴れる」
イノセントが、冷たく光るナイフを舐めるように見つめ、指でそっと撫ぜながらブリジットの方を見ずに言った。ブリジットは長い黒髪をかきあげて、震えるような溜息をつく。
「気晴らしで人殺しね。貴方にそんなことできっこないわ」
「半分ヒトではないのだから、人殺しというのは違うな」
淡々と、イノセントが言う。どうやら彼は、ブリジットがエルフと人間の混血だと知っているようだ。
「半分はヒトよ。いいわ。貴方の仲間のところに自分から飛び込んでやる」
「そうさせないために殺す」
「あら。それ、私が死ぬより酷い思いをするのを阻止してくれようとしているってことかしら」
半ば自虐の混じった口調で、ブリジットは言った。イノセントは表情を変えず、ブリジットを鼻で笑っただけだった。クライドはどうすることもできず、動ける上半身を必死に動かして無意味にブリジットに手を伸ばす。
「最期の言葉に何を選ぶのか、聞いてやってもいい」
イノセントはナイフを片手に、ブリジットに歩み寄る。二人の距離はいまや数センチにまで縮まっていた。ブリジットの頬を、一筋の涙が伝うのを見た。ブリジットは涙を拭おうともせず、その場で静かに微笑んだ。
「愛しているわ。最期にその手で終わらせてくれるのは優しさね。私を忘れないで」
クライドの思考は停止した。イノセントが恋人としてブリジットを信頼していたなんて、一番ありえない可能性だと思っていた。
愛しているといわれたイノセントは、少しの間意外そうにブリジットを見ていたが、やがてまた睨みつけた。恥らう様子も、動揺する様子も無い。ただ黙って、ブリジットを睨んでいるだけだ。やがて、イノセントが言葉を発した。通常通りの、冷徹な声だ。
「ほだされると思ったか」
愛の言葉に応える優しい心の持ち主だったら、そもそも恋人にナイフは向けない。わかっていても、イノセントの冷たい言葉に胸が痛くなる。このままブリジットが刺されるのを見ているしかないのだろうか。
魔法を使えればどうにかなるのにと思い、クライドはふと思いついた。エルフの血を暴走させればとりあえず標的をそらすぐらいは出来るかもしれない。すぐ手の甲に爪を立ててみるが、簡単に血が出るはずもなかった。
「これで私、永遠に貴方のものになれるわ」
クライドが爪で手の甲を傷つけようとしている傍ら、ブリジットは静かにそう言った。わずかにミミズ腫れから血が滲む。クライドは無我夢中でその傷をさらに引っかく。爪が短くてあまり効果がない。力も入らない。
「俺にこんな屈辱を与えた女は貴様だけだ。望み通り一生忘れないだろうな」
噛み千切ればいい、そう思ってミミズ腫れに歯を立てたときにはもう遅かった。ブリジットは、軽く目を閉じていた。彼女の目の前に立ったイノセントが、持っていたナイフを勢いよく振りかざす。
何もかもが終わりだと感じた。クライドは無意識のうちに、二人の間に手を伸ばそうとしていた。届くわけがない。止められるわけがない。しかし。
「本気らしいな」
イノセントは、ブリジットの首すれすれのところで刃物を止めていた。ブリジットはまだ生きている。
「ええ。私の愛は重いの」
「最後に魔法を俺に向けるのかと思ったが、そうしなかったのは何故だ」
「あなたへの気持ちに偽りがないからよ。本当に、貴方が殺してくれるならそれでいいと思った」
「お前……」
ブリジットは、泣きそうな笑みを浮かべていた。きっと信頼していたのだ、イノセントのことを。それにしても、なんて危ない賭けに出たのだろう。
気が遠くなる。もしも、という言葉が頭から離れない。後からもしもなんて考えても遅いことはわかっているが、どうしても考えずにはいられなかった。数秒前にイノセントの手元が狂っていたら、どうだろう。ここには、立ち尽くすクライドと横たわるブリジットが残されていたに違いなかった。
「気が変わった。こいつは一旦置いて行く。見なかったことにしよう」
「そう。分かったわ、イノセント」
ブリジットが答えると、イノセントは目を伏せて彼女の首筋に触れた。たった今ナイフで傷をつけそうになったところだ。ブリジットは気遣わしげにイノセントを見上げ、綺麗にネイルが施された指でイノセントの手に触れる。まるっきり、どこからどうみても恋人同士の距離感だった。
「寸止めしたつもりだが、掠った感触があった」
「平気よ」
「魔法を使って治癒したのだろう」
「……だとしたら?」
真っすぐにそう問われたイノセントは、少し迷うように黙った。それから、絞り出すような声でぽそりと呟く。
「すまなかった」
クライドは思わず息を止める。ここにいる二人の邪魔をしてはいけないと強く思い、グレンを振り返るのもやめて気配を殺した。
「傷つけたことも傷ついたことも、魔法ならちゃんとなかったことになるのよ。素直に甘えたら?」
それには答えず、イノセントは黙って自分が傷つけたところを撫でていた。その横顔は険しく、自分がしでかしたことへの後悔が滲んでいるように思える。
「イノセント。……ねえ、また来てくれるわよね」
黙ったイノセントは答えずに出ていこうとしたが、ブリジットは彼の服の裾を引いて止める。振り払って出ていくことができないわけではないだろうに、イノセントは足を止める。
「たまには言葉にしてくれなきゃ、分からないわ」
「そうか」
それきり、少し沈黙が流れた。いつのまにか動けるようになっていたが、物音を立てることすら憚られてクライドは固まったままのふりをしていた。
「お前との関係は今後も変わることはないだろう」
「そう。つまり?」
「お前の利用価値が高いのは理解しているが、そのために危険に晒すことはこれからもない…… これでいいだろうか?」
「一旦は満足してあげるわ」
ブリジットが微笑みかけると、イノセントはひと呼吸置いて表情を緩ませた。目を疑う光景だった。
初めて見た、彼の綺麗な微笑だ。ほんの少しだけだが、その表情がグレンに似ているとクライドは思った。
「手厳しい。いずれ弁明の機会をくれ」
微笑を浮かべたままそういい残して、イノセントは去っていった。クライドやグレンのことなど、もう見ようともしていなかった。
暫く、誰も何も言わなかった。だが、あの殺気に満ちた緊迫感はない。グレンは目を見開いて、イノセントが出て行ったドアを見つめていた。一連の騒動は確かに色々な意味で衝撃的だった。
まだ驚いているクライドたちをよそに、ブリジットはその場にへたり込んだ。さすがに彼を信頼しているとはいえ、殺されかけたのだから緊張もするだろう。
身体はいつのまにか動くようになっていたから、クライドはブリジットを立ち上がらせるために歩み寄る。手を貸してソファまで連れて行ってやれば、気を利かせたグレンが壁際に歩み寄って窓を開けた。涼しい空気が流れ込んでくる。そのおかげもあってか、ブリジットは短期間で落ち着きを取り戻した。
「ブリジット、ひとついいか?」
控えめに声を掛けてみる。すると、ブリジットはそっと顔を上げた。
「イノセントは、これからどうするんだ」
クライドが問いかける傍ら、グレンもブリジットの答えをじっと待っていた。再会した生き別れの兄が残虐非道な敵対勢力に所属していて、しかも親友の従姉と恋仲なのだから彼の胸中もきっと複雑だろう。クライドだって複雑な思いだ。色々なことが一気に起こりすぎた。
「そうねえ。きっといつもみたいに真夜中に無言で帰ってきて、今後の方針を話してくれると思うけど」
「俺のこと諦めてくれてるといいんだけど」
「しばらくは心配ないわ。だって今、イノセントの仲間はすぐに会える距離にいないって言っていたもの」
椅子に腰掛けながら、ブリジットは言った。クライドは、隣にいるグレンを意識しながらもうひとつ訊ねてみることにした。グレンのことだ。イノセントは、グレンのことには何も触れていなかった。それに、もとから眼中に無いようでもあった。ブリジットに聞けば、正確な答えが返ってくる気がする。
「グレンのことは?」
尋ねると、ブリジットはくすくす笑った。笑みの似合う女性だ。少しだけ見惚れていると、彼女は人差し指で自分の首筋を指差して見せた。綺麗に塗られた黒のマニキュアが、光を反射してつやつやと光っている。
「殺すなんて口先だけよ。私だって殺されなかったもの」
安堵するクライドだったが、隣でグレンは不機嫌そうにしていた。
「兄貴さあ、何で大事な女にナイフなんか向けるんだよ。実際ちょっと切ったし、魔法が使えなくて自力で治せなかったら傷が残ったかもしれないだろ。普段からDVなんか受けてないよな? 流石にちょっと幻滅したぞ馬鹿兄貴」
「あはは、心配ありがとうグレン。大丈夫よ、普段のイノセントは私を壊れ物のように優しく扱うわ。こんなに大事にしてくれる人、初めてなのよ」
会話が和んできたのでクライドも口を開きかけると、店のドアが開いた。そちらを注視する。入ってきたのはイノセントだ。ずいぶん早い帰宅に驚いたし、先ほどとは服装も違う。ダメージジーンズに派手な柄のTシャツという、普段の彼がしなさそうなファッションだ。ジャスパーの趣味だろうか。
イノセントは、帽子を目深にかぶってポケットに両手を突っ込んでいた。口元には、笑みを浮かべている。見覚えのある笑みだった。はっとする。
「兄貴じゃない」
押し殺した声で、グレンがつぶやいたのが聞こえた。声に怒りがにじみ出ている。
クライドも気づいていた。この男の正体は、影の男だ。あの、染料のように鮮やかな青い髪をした、嫌な男である。この醜悪な笑みは、忘れようが無いほど印象的だった。
「また来たのね、マーティン!」
ブリジットはソファから立ち上がり、怒ったように影の男を見た。イノセントの姿をしていた影の男は、あっという間に違う人物に姿を変えた。見たことの無い黒髪の男だが、顔もスタイルも抜群にいい。目の色と嫌な笑みはそのままだったが、それ以外なら男の目から見てもほぼ満点だといえる。
だが、ブリジットは不快感を露にしていた。相当影の男のことを嫌っているらしい。そういえばブリジットは、いまこの男を名前で呼んだ。本名だろうか?
「マーティン?」
小さな声でつぶやいて、グレンが小首を傾げるのが見えた。クライドも、その名が気になっている。グレンの小さな声が聞こえてしまったのか、影の男はグレンをぎろりと睨んだ。
「おいおい。なんだ、グレン=エクルストンがいるじゃねえか。アタリだな。ちょうど良い、死にな」
影の男は、上着の内側から拳銃を取り出した。すると、すかさずブリジットも拳銃を取り出した。店のカウンターにあったようだが、ひょっとしてイノセントのものだろうか。
目を瞠るクライドの隣で、ブリジットは真剣な面持ちで影の男を睨んでいる。普段の優しい雰囲気とは一変した、ぴんと張り詰めた殺気が彼女を包んでいた。
「撃ったらあなたも死ぬのよ」
氷のように冷たく、刃物のように鋭い声。相手の嫌味な笑みにも全く動じないブリジットは、真剣に影の男を睨みつけている。両手で構えた拳銃はブレずに真っ直ぐ影の男を射程に収めていた。この人は本当に撃つ気だと、クライドは思う。
「チッ。はいはい、降参降参。これでいいな?」
嫌味に笑いながら影の男は銃を下ろした。グレンは拳を握りこみ、いつ飛び掛るか分からない緊迫感を纏いながら影の男と対峙していた。
暫く、沈黙が降りる。誰も何も言わない時間が続いたが、やがて口を開いたのはブリジットだった。
「何の用なの? さっさと帰ってくれないかしら」
沈黙を破ったのは、とても冷たい声だった。ブリジットは、影の男のことを心の底から嫌っているようである。それを自覚しているだろうと思われるのに、影の男は喉の奥で馬鹿にしたように笑った。
「そろそろ俺を受け入れな。ご希望とあらば、そこの可愛い可愛い弟に化けて抱いてやったっていい…… 子供サイズがお好みか?」
怒りでかっと身体が熱を帯びたのを、クライドは冷静に抑えようとしていた。
眉を片方だけ上げて、得意そうに笑う影の男。今にも殴りかかりそうな表情で、グレンがそれを見ている。殴りかからないのは、銃を持ったブリジットが近くにいるという冷静な判断がまだ働いているからだろう。しかし、その理性が働かなくなるまでそう長くはかからないはずだ。
ブリジットがこれ以上の侮辱を受けたら、自分も何をしでかすかわからない。自身の心の底にくすぶる怒りが徐々に広がりつつあるのが、クライドにもよく解っていた。
「それで誘っているつもりなのかしら? 女の子の口説き方、頭を下げてイノセントに教えてもらうのね」
明確な怒りを滲ませながら、影の男を睨みつけるブリジット。影の男は、暫くにやにやと笑いながらブリジットを眺めていたが、やがて彼女に近寄った。ブリジットは相変わらず影の男を睨んでいたが、影の男は気にしていない。どころか、笑っていた。そして影の男は、ブリジットの頬に触れながら言った。
「イノセント=エクルストンなあ。奇遇だねえ、つい今しがた会った。で、頭に来たから撃ってやった」
その一言で一気にクライドの思考が鈍化した。撃った。イノセントを。先程クライドを見逃して去ったグレンの兄が、この男に撃たれてしまった。事の重大さを理解するために数秒必要だった。ブリジットの表情が凍り付く。
「イノセント……! 何するのよ、このっ、人でなしっ……!」
先ほどまでの冷静さはどこへやら、ブリジットは急に取り乱した。拳銃を指が白くなるほど握りしめて詰め寄ったブリジットは、今にも泣きそうな顔で影の男の胸元に銃を突き付けて引き金を引く。
が、銃声はしない。影の男は涼しい顔で、ブリジットの手を掴んで捻り上げる。力の差は歴然としていた。息を荒げながら、ブリジットは殺意のこもった目で影の男を睨みつけている。
クライドは今すぐ飛び出していって、影の男を殴ってやりたくなった。グレンもいるし袋叩きにしてやれる。しかしそうしなかったのは、彼の腰に下げられた銃を見て怯んだからだ。その一瞬で隙を逃した。
この明らかに戦闘慣れした男は銃だけでなく魔法も使うから、慎重に対応すべきだ。闇雲に飛び出していったら、きっとブリジットに危害が加えられる。
「はっ。一般人が俺に銃を向けようなんざ、百年早いねぇ。ご愁傷さん」
嫌な笑顔を浮かべながら、ねっとりとした声で影の男はのたまう。ブリジットが、とうとう手の甲で涙をぬぐいだした。
「あのクズが死んでも俺の女になる気が起きないっていうんなら、てめえも死にな。すぐにあいつのところへ送ってやる」
影の男は、高笑いしながらブリジットに銃を向けた。
「どうだ? 愛する男に殺されるんなら本望だろ。よかったなあ?」
笑いながらイノセントに姿を変え、影の男は楽しげに銃に弾を込めた。グレンが理性のヒューズを飛ばし、クライドの隣を凄い勢いで駆け抜けて影の男に殴りかかる。クライドも加勢しようと、影の男に向って走る。
「チッ、嫌なガキどもだ」
影の男はグレンに向かって発砲した。クライドはグレンが倒れずに影の男に向かっていく想像をした。そのとおりになる。しかし影の男は、グレンの目の前でグレンの姿になった。一瞬怯んだグレンの鳩尾あたりを蹴りつけて、影の男はイノセントに戻ってブリジットに向き直る。そうして彼女がすでに壁際まで後退していることに気づいて怒りをあらわにした。
クライドは影の男を止めるためにブリジットのいる壁際に行こうとしたが、クライドよりも先に影の男の前に回りこんだ者がいた。イノセントだ。




