第三十七話 乱される足並み
一瞬、クライドは何があったのかわからなかった。しかし、目の前では影の男が確実にクライドに変身しているし、仲間たちやウルフガングも唖然としている。目の前で起きたことは現実だと、認めざるを得ない。
問題は、この男がいつ変身したかということだ。影の男は、いつのまにかクライドになっていた。これは丁度、スリの感覚に似ている。瞬きをする一瞬の間に、自分の容姿が掏られているのだ。
クライドは、あの長身から見下ろされている感覚が同じ目線に立ったとき、全く違和感を感じなかった。黒髪が金に変わっても、彼の肌色が微妙に白く変わっても、全く変化を感じていなかった。
これは多分、あの不思議な眼で見つめられていたからだ。その瞳のほかに何も見えていなかったのにも等しいほど、クライドは彼の目に吸い寄せられていた。これも魔法なのかもしれない。
「お前の身体は覚えた。次はチビ、てめえの番だ」
影の男はそういうと、クライドの姿をしたままアンソニーに向かって微笑んだ。それはとても、醜悪な微笑だった。弱者を甚振って喜ぶような、人の不幸が楽しくて仕方ないタイプの人物がする見下した笑みだ。自分の顔でこんな表情が出来ることが、クライドにはショックだった。
アンソニーはクライドの顔をした影の男に、不快感を滲ませた目を向けている。
「トニー、逃げろ」
このままだとアンソニーが危ないと思って彼に近寄ったが、アンソニーは片手を上げてクライドを止める。そして、クライドに微妙な表情を向けた。安心してくれと言いたそうな顔に見えるが、不安そうにも見える。彼が頷いて見せるので、クライドは一瞬どうするか迷ったが一旦見守ることにした。アンソニーは、影の男の方を向き直って小さく深呼吸する。
「期待はずれだよ、影さん。全然似てないや!」
勇気を出して言ったであろう、アンソニーの上ずった宣戦布告から数秒して、影の男の背が伸びた。髪も、人工的な青色に変わりながら伸びていく。ショートカットのシルエットを残したまま、襟足だけが肘あたりまで伸びきって止まった。染料で染めたような派手な青い髪だが、生え際も青いということは信じ難いが地毛だろう。
ということは、やはり人間ではないのだろうか。とにかく、影の男はアンソニーになろうとしたくせに何故か全く別の人物になった。
気分が悪そうな顔をして、影の男は壁に寄りかかった。そして、しかめっ面でアンソニーがいた方をむく。だが、クライドにはその目の焦点はどこにも合っていないように見えた。
「失敗するとこうなるんだね」
勝ち誇ったように言って、アンソニーが無邪気に笑う。何が起こったのかわからないが、クライドは確信していた。アンソニーは、この男に視力の魔法をかけることができたのだろう。
「くそっ、データに無い魔法だ…… あ? クライド=カルヴァートの容姿が思い出せない! おいチビ、何をしやがった」
影の男はわめきながら、先ほどまでアンソニーがいた場所を睨んだ。どうやらアンソニーは彼の視力を奪って、さらにクライドの容姿を忘れさせたらしい。凄い魔法だ。
「僕、視覚で取り込まれた記憶だったらちょっとだけ操作できるみたいなんだ。凄いでしょ? 人の視力も操作できる。魔力も視られなくできる。ナメると痛い目にあうからね!」
天使のように純真な笑顔でアンソニーは言う。影の男は暫く黙っていたが、首筋に手を当ててぎょっとしたような顔をした。そして、恐る恐る蒼い髪を掴んで引っ張っている。抜けないことが解ると、舌打ちしながら顔を上げた。
「とっとと治しな、俺の目! 無差別に爆撃するぞ」
どうやらこの男は、まだアンソニーやクライドのことを視覚で確認できていないようだ。魔法の効果がまだ持続しているらしい。
「やめた方がいいと思うな、この辺建物が多いから自滅しちゃうよ。ねえ、影さんの本当の姿って髪の毛青いのかな?」
言った本人としては裏も含みもない言葉なのだろうが、これは影の男にとって大きな衝撃となったようだ。影の男は、がっくりとうなだれて蒼い髪を強く握り締めた。
「最悪だ、クソ」
自嘲気味につぶやいて、影の男はその場に座り込む。クライドに対した自信あふれる声とは打って変わった、消極的な声だ。
ウルフガングは、意味ありげにアンソニーを見ていた。見られていることに気づいたアンソニーは、ウルフガングに微笑み返した。そして、肩にもたれかかるノエルを見てもういちど笑っている。アンソニーとウルフガングの間に、何かあったのだろうか。
相手がこんな状態なら、もう襲ってくる心配はないだろう。アンソニーもそう判断したのか、ノエルをそっと壁にもたれ掛からせてやっていた。
「すげえ。トニーの奴、敵をやりこめやがった」
興奮した声で、グレンがクライドに耳打ちした。全く同感だ、凄い。ちなみに、あの視力の魔法の効果はいつまで続くのだろう? 訊ねてみると、アンソニーはしばらく宙を見上げて考え込む。やがて答えがでたのか、苦笑気味に言った。
「わかんないけど、多分そろそろ限界だよ。はやいとこ逃げないと、下に置いてきたおじさんも出てきちゃうかも」
アンソニーに向かって軽く頷き、荷物を肩に掛けると、クライドはノエルを見た。また肩を貸してやろうと思ったのだ。
手を差し伸べてやると、ノエルはそっと顔を上げてクライドを見た。そしてすぐに、目を伏せた。嫌な予感がする。サラをちらりと見たノエルは、再び目を伏せてクライドのほうを見ずに言った。
「僕は歩けない。先に行って、彼女をお願い」
予感は的中した。彼は、みんなの足を引っ張りたくないという理由で一人だけここに残ろうといっているのだ。それは絶対にやめてほしい。あの男が視力を取り戻したら、何をされるかわからない。
アンソニーが唖然とし、サラが不可解そうな表情をし、グレンがいきり立った。
「何言ってんだお前馬鹿か! こんな敵前で、置いて行けるかよ」
グレンの言葉を聞きながら、クライドも強くそう思った。何があろうと、ノエルは大切な親友だ。見捨てて逃げるなんて、友達としてできることではない。
クライドはそう思う反面、ノエルの気持ちもよくわかった。きっと彼も自分のせいで皆が足止めを食らうなんて、許せないのだろう。もしも同じような場面に遭遇したら、クライドも間違いなく今のノエルと同じことを言うと思う。そして、一人で必死に逃げただろう。
サラはノエルに何度も話しかけているが、ことごとく無視されている。そのうち泣きそうな表情を浮かべ出すサラだが、ノエルは目もくれない。無視は彼の行動指針としてありえないと思うが、どうしてしまったのだろう。
「僕は皆の足手まといになりたくないんだ。早く行って」
哀願するように、ノエルは言った。そして、ズボンの上から折れた足をさする。確かにノエルの気持ちもわかる。けれども、ノエルを捨てるなんて絶対にいやだ。
「ノエル、お前らしくない。冷静に考えてくれ、お前を置いていったらどうなるか。もっと他にやり方あるだろ」
言葉を選びながらクライドはノエルの説得を試みる。だが、ノエルは頑として意見を変えない。影の男が喉の奥で笑う声がする。グレンがそちらに向って、うるさいと怒鳴った。
「人に甘えたり迷惑を掛けたりする自分なんて有り得ない。お荷物になるぐらいなら一人で戦うよ」
強い自虐の言葉を吐き、俯くノエル。彼の言いたいことは解っている。長い付き合いだ、彼がこういうときどう思うかぐらい察せられるつもりでいる。だからといって、頑固にもここに居座ったところで待っているのは悲惨な結末だ。どうみても手ごわい変な敵がいるのだ、上手に逃げるほかに無い。
こうなったら無理矢理にでも連れて行こうかと思ったとき、そっとウルフガングがクライドの肩に手を置いた。振り返らなくても、空疎な感覚でそれがウルフガングだということが解った。ウルフガングは、クライドを少しノエルから遠ざけた。そして、ノエルの隣に音も無く腰を下ろす。
「俺が治してやろう、ノエル。それなら良いな?」
そういって、微笑むウルフガング。その笑顔を見て、クライドは何故か泣きたくなった。十年以上前に見た、父の微笑みを唐突に思い出したのだ。たった数回だが、近所の子供と喧嘩したときに、父はそんな風にクライドを宥めてくれた。
少しずつ思い出す。あのときの父の優しさや、暖かさを。注意だって説教だって、すんなり受け入れることが出来た。もう一度会いたいと、切に願った。
そっとノエルを見る。ウルフガングの言葉を、彼は受け入れたのだろうか? 座り込んだノエルの反応は、父に宥められたの自分の反応とはあからさまに違っていた。
「……っ」
ノエルの表情には、ひどい自己嫌悪と自虐の色が見える。固く握り締めた右手や歯を食いしばる音から、すさまじい怒りが伝わってくる。きっとこれは、自分に対しての怒りだ。でなければ、ノエルがこんなに感情を露にすることは無い。
おそらく、ノエルはウルフガングの言葉が正しいと分かっている。だが、それを認められるほど心に余裕がないのだ。声も掛けられないまま、時間が過ぎた。今まで見たこともないぐらいに混乱し、怒っているノエルを目の前にして、誰も何もいえなかった。
「とりあえず、言いたいことは分かった。お前も男だ、プライドもあるだろう。特にサラの前だしな」
沈黙を破ったのはグレンだ。ノエルがグレンを睨みつけて、何か言おうとするのを当のグレンが押しとどめる。
「俺はお前を無理矢理ここから引き剥がす。いいか、無理矢理ってところが重要だ。お前の意思は関係ない。俺が勝手にやるだけだ。ほら行くぞ」
グレンはノエルの怪我をしていない右腕を、本当に無理矢理掴んだ。苛立ちが半分、そして気遣いが半分の心境が彼の挙動から見て取れる。動けないので人に甘えるというのがノエルの自尊心を傷つけるなら、怪我をして動けないところを無理やり運ばれるならいいだろうとグレンは考えたのかもしれない。
引っ張られたノエルは左腕にダメージが来たのか強く目を瞑って痛みに耐えるような顔をしたあと、グレンを不快感たっぷりに睨み上げた。こんなに強い敵意を人に向けているノエルは見たことが無い。
「君は本当に粗暴だね。自分以外は全てモノ扱いなのかい」
「ああ何とでも言え」
「その判断力のなさのおかげで、僕らは全滅するというわけだ」
「怪我治ったらぶっ飛ばすぞてめえ。黙ってろ」
険悪どころではない二人のやりとりに、クライドは思わずウルフガングを見上げた。ウルフガングはというと、壁際に座り込んだ影の男をじっと見ているのでクライドには気づいていない。
グレンは相当頭にきているようだが一応怪我に気を使っているのか、ノエルの腕を捻らないように胴体を掴んで無理やり背中に載せる。彼の折れた手足に傍目にもわかるような衝撃が加わり、ノエルはついに押し殺した呻き声を上げた。
「っ、痛いんだけど」
「黙れって言ったの、理解出来なかったのか」
「離して。僕がそう望んでいるんだ」
背中から降りようと身を捻るノエルを見て、クライドは慌てて駆け寄って支える。グレンはクライドに目線で礼を言い、ノエルに聞こえるようにわざとらしいため息をついた。
「あのさ。お前マゾなわけ? それとも自殺願望あるのか?」
「その言葉、そのまま君にお返しするよ」
グレンの額に浮いた青筋に、気づいていながら煽るようなノエルは明らかにおかしい。だが、背後に感じる魔力の波が落ち着いてきているのにクライドは気づいていた。影の男は、隙だらけのクライドたちにまた攻撃を仕掛けるタイミングを見計らっているだろう。
アンソニーもそれに気づいているようだった。彼はノエルとグレンに歩み寄り、泣きそうなサラを一瞥して悲しげに首を横に振る。
「ねえ、もうどっちでもいいよそんなの! 早く行こう、僕もう限界」
「こっちだ、グレン」
ウルフガングの声が耳元でして、滑るように先導する彼をグレンが反射的に追う。ノエルがこの期に及んで降りようとするので、クライドは咄嗟に彼を押さえつけながらグレンに合わせて走る。
「そのまま押さえてろ、クライド」
「サラ、こっちだよ!」
アンソニーがサラの手を取り、振り返って影の男を心配そうに見てからついてくる。月だけが明るい夜に、足音が響く。