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第三十五話 英雄の末期

 二階は、先ほどいた一階よりもさらに埃っぽかった。多分、ウルフガングもあまり入らないところなのだろう。虫食いだらけのカーテンが引かれた窓は、埃で曇っていた。そのせいなのか、部屋はとても暗い。

 あたりを見回してみる。部屋の隅には埃がこんもりと溜まっていて、クライドが歩くたびにふわふわと舞い上がった。

 肝心のベッドは二台しかなかったが、アンソニーが押入れのようなものを見つけて開けてみると折りたたみ式の簡素なものが見つかった。五台ぐらいある。ここは昔、旅館か何かだったのだろうか? それにしては小さすぎるが。

 ともあれ、埃っぽい空間をどうにかしようとクライドは窓を開けた。外に向かって、埃が流れていくのが目に見えた。埃っぽい空気のかわりに、潮の匂いが流れ込んでくる。

「そういえば、ここって港町だったよね」

 窓際に歩み寄ってきながら、アンソニーは言った。確かに、クライドも埃のおかげでここが港町だということを忘れかけていた。

「ごめん、遅くなって! くっ、痛たた……」

 後ろからノエルの声がしたので、クライドとアンソニーは揃って振り返った。何やら格闘しているような口調だったため、少し心配になった。

 床に開いた穴の近くに、グレンが屈んでいた。はしごをよじ登ろうとしていると思われるノエルに手を差し伸べている。やがてノエルは、グレンの手を借りてはしごを上りきった。脚はなんともなさそうだが、腕がまだ力を失っているのが少し離れたところからでも確認できた。

 骨折しているというのに、彼は折れていない腕で分厚い本を小脇に抱えている。本当に本が好きな少年だ。

「ウォルに骨を治してもらったよ。僕自身の魔力をあてがう方式で直したから、腕は微妙にくっつききっていないみたい。魔力が回復したら骨に送り込むっていうのを、何週間か繰り返してやっと万全になる」

 微笑みながら、ノエルは言った。多分腕も足も、まだ痛むのだろう。だが、ノエルのポーカーフェイスが痛みの度合いを教えてくれることはない。とにかく、完治していない骨折が早く治ってくれることを祈るばかりだ。

「凄いな、そんな時にすら読書かよ」

 茶化すようなグレンは、重そうな古い本を魔法の手で拾ってノエルに渡す。どこかで見たような、箔押しの剥がれた重厚な装丁の本になんとなく嫌な予感がした。ノエルは真っ直ぐクライドたちに歩み寄ると、空いているベッドに腰掛けて表紙をこちらに向ける。

「残念だけど、これは君も読むものだ。クライド、君はこれを町役場で見たって言っていたね」

「まじかよ…… アンシェント・クロニクル」

 思わず素直な気持ちが口から出た。クライドのあからさまな拒否反応に、グレンとアンソニーが目を見合わせる。

「それ、帝王が出てくるっていう、あの魔法の記録だろ。俺らも見たいよなあ、トニー」

「そうだね。だってなんか、結局帝王って何なのか僕まだよく分かってないし」

 それもそうだ、伝聞だけであんなとんでもない存在のことを信じようとしても無理がある。そう思うのだが、クライド個人としては出来れば避けて通りたい。帝王の殺戮の場面は生理的に受け付けなかった。

 乗り気でないクライドを咎めるように見てから、ノエルはアーモンド形の理知的な目を本の表紙に向ける。

「鐘の創造主は、ぜひ最後まで見てくれって言っていたよ。僕も興味がある」

 ノエルは絶対に見たがるだろうと予想はしていたが、ほかの二人まで乗り気なのには驚いた。三人とも、当然のように一緒にこれを開ける気でいるようだ。夢に出るレベルでトラウマになる映像を、進んで見ようとは普通思わない。クライドは溜息をつく。

「ねえクライド、クライドらしくないよ。だっていつも自分が言いだしっぺのときは、責任とかなんとかいってリーダーやってくれるのに」

 頬を膨らますアンソニーに、とどめをさされた。

 責任。

 その言葉を出されてしまっては、三人を町から引き連れてきてしまった責任のある立場で一人だけ逃げるわけにはいかないだろう。クライドは腹をくくり、ベッドに腰掛けなおした。 

「あー、これな。だいぶ残酷だぞ。覚悟しておいたほうがいい」

 気は進まないが、この空気は最後まで見るしか無い。クライドが半眼で一同を見やると、ノエルが微笑みながら本を差し出した。仕方なく受け取る。

 古びた絵本を囲み、クライドが最初のページを開いた。あたりが光に包まれ、思わず目を閉じる。

 固く閉じた目を再び開けて見れば、そこは中世のアンシェントタウンだった。アンソニーが歓声を上げ、ノエルがしげしげとあたりを見回した。グレンはというと、書物のほうに目を落として文字を読んでいる。

「今から大体千年前、ってことか。この日、アンシェントでは祭りが行われていたらしい。古い言い回しで書かれているから詳しくはよくわからないけど」

「メインは豊作のための儀式だって。グレン、あっちを見てごらん。あそこに生贄を捧げるんだ」

 ノエルの指に釣られて見ると、見張り小屋の二階部分に何か装飾の施された台が見えた。

「うわあ、生贄? すごいや、原始的だね」

「そりゃそうだろ、千年前なんだから」

  アンソニーと笑い合う。このあたりはまだ笑っていられるパートだ。クライドは帝王がこの町を蹂躙するシーンを思い、今のうちから心臓が痛かった。

 古語を話す人々を、ノエルが興味津々な様子で目で追っている。本来なら知り得ない、千年前のリアルが目の前にあるのだ。知的好奇心がくすぐられるのも無理はないだろう。

「捲ればいいのか、これ」

「ああ。次のページで、帝王のお出ましだ」

 グレンがページを捲った。 すると、前に見たときのように鐘楼の上あたりから黒い雲が湧き出す。急激に暗くなった町で人々が不安げに顔を見合わせて、何やら祈るような仕草をする者も出始める。そろそろ来る、そう思ってクライドはアンソニーを肩越しに振り返った。

「耳を塞いでいろ、雷が落ちる」

クライドの言葉にアンソニーが素直に従い、しっかりと耳を塞いだ瞬間に見張り小屋へと雷が落ちた。耳を塞いでいてもアンソニーは飛び上がったし、グレンも声を上げた。

「突如として現れた暗雲の中から、それはやってきた」

 クロニクルに視線を落としたノエルだけが、冷静にそう言った。彼は古文をすらすらと現代語に直しながら読み上げてくれているらしい。禍々しい気配はすぐそこに迫っていた。

 崩落した小屋の上あたりに目を向けざるを得ない。もう何が起きるかわかっているというのに、ぞわりと体が拒否反応を示した。禍々しい黒いもやを纏った帝王は、やはり二度目に見ても顔はわからなかった。この本を記述した人が、あまり描きたくなかったのかもしれない。

「後の世で帝王と呼ばれたその男は、すべての負を寄せ集めたものである。彼は邪神を放ち、民を貪った。いたずらに弄ばれた民は、邪神に灼かれて帝王の魔力となった。焼け爛れた死体の一部が、そこかしこに転がっている。鳴き声と悲鳴が響いた」

 帝王の古語によって指示が伝わり、彼の立っている瓦礫の下からじわじわと光が漏れ出していく。

 赤い血のように広がった光は、やがて粘土のように形を成す。マグマの塊のようなフォルムは粗雑で、古代の土人形を思わせた。なかなかに原始的な格好だと思う。

 手足と口が歪についた三体の邪神はのそりのそりと危なっかしい足取りで歩き出した。一旦は瓦礫の下の死体を漁っていた三体だが、帝王の命令で生きた人間を襲い始める。

 邪神は手当たり次第、次々に人間をつまみ上げては口に入れた。クライドはここで前回同様、胃の底が捩れたようになって吐き気を堪えた。見るのをやめたいと思ったが耐え、人々の悲鳴と目の前で起きる惨劇をやり過ごす。

 やがて腹が満たされたのか、邪神の行動が少し変化する。燃え滾る赤いマグマのような光は、口からわずかに漏れ出すだけになった。真っ黒な体は大きな岩の塊のようになり、先ほどまでより緩慢な動作で殺戮を続けていた。動きの鈍くなった邪神たちは、大きな手で人を握り潰しては捨て、建物を踏みにじる。

 母親が潰されて泣きじゃくる子供を、邪神の足が無慈悲に踏み潰す。命乞いをする若者を拾い上げ、勢いよく投げ捨てる。

 だんだん声が静かになってきた。運良く隠れて生き延びた人々が、震えながら邪神が去るのを待っている。

「捲れノエル。次のページは、もう少しマシだろ」

 グレンが硬い声で言った。ノエルは頷いてページを捲った。帝王が邪神を連れて引き上げ、また黒い雲に飲まれてどこかへ消える。瓦礫の下から這い出した人々は、身を寄せあって崩れ残った家へと避難した。二十人程度いただろうか。そのうちの何人かが必死の形相で呪文を唱え、悲惨な町を申し訳程度に修復する。映像の早回しのように太陽が登っては沈むのを繰り返して何日か経過し、人々はそれぞれ自分の家を直したり畑を直したりした。生き残った人々は魔道士が多かったようだ。

 平穏が戻ったと思いきやそうではなく、邪神の気配はまだ去っていなかった。あの見張り小屋の下から時折赤いマグマのような光は漏れ出していて、人間と同じぐらいの大きさの小型の邪神となって数日に一回は町を荒らした。少ない生き残りがさらに少なくなっていく。

「地獄のような時間が過ぎた。生き残ったアンシェントの民は、北の果てに助けを求めた。そこに途方も無く強い魔道士がいることを、魔道士たちは知っていた。祈りは届き、魔道士はやってきた」

 読みながらノエルがページを捲った。山を越えてやってきたのは、ウルフガングだった。北国仕様の、暖かそうな毛織の伝統装束を着込んでいる。仲間を二、三十人引き連れてきたようで、先陣を切って歩くウルフガングはこの隊列のリーダーだというのが一目で分かった。日に焼けた顔には赤と紺色で何かの紋様がペイントされ、仰々しい羽根つきの装飾品が耳も首も手首もじゃらじゃらと飾っている。さながら、どこかの民族の(おさ)のようだ。というか、彼の実力を考えると本当に長かもしれない。

「すっげえ、本当にウォルだ」

 グレンがヒュウ、と口笛を吹いた。アンソニーも喜んでウルフガングに手を振る。記憶上の映像に過ぎないウルフガングが手を振り返してくれることはなかったが、クライドもつい手を振った。

 町の人々は涙を流してウルフガングを歓迎した。言葉は通じ合っているようなので、ウルフガングか町の人たちのどちらかが言葉をわかるようにする魔法をかけているのかもしれない。

「ウルフガング=フローリーは傷ついた家や畑を、ほんの一言の呪文ですっかり元に戻した。そして、森の中に墓地を作り、死んだ人々全てを弔った。アンシェントの民はウルフガングたちをもてなし、闇の力に対抗するための力を乞うた」

 ノエルの柔らかい声を聞きながら辺りを見る。彼が読んだとおりの光景が目の前で展開された。ウルフガングは壊れた建物を全て元に戻し、無残な死体を一つ一つ拾い集め、墓を作って埋葬する。仲間の魔道士たちもそれを手伝い、傷ついたアンシェントの人々を励ましていた。その様子にクライドもほっとする。ウルフガングの優しく正義感に満ちた人柄と、その人柄が成した人脈の温かさが胸に沁みる。

「アンシェントの儀式で大切にしてきた、『魔幻の目』の下にはまだ邪神の血が流れていた。人々は大切にしてきた儀式の場が、地獄の門になってしまったと嘆いた。北国の魔道士とその仲間たちは、この地獄の門を魔法で封印した」

「ノエル、魔幻の目ってなあに?」

 確かに、初めて聞くワードだ。クライドも気になってノエルの方を向く。ウルフガングと仲間達が忙しなく町を修復して回っているのが、彼の肩越しに見える。

「この見張りの塔のことだよ。古くはこの塔が、悪しき者たちを見張って戒めると考えていたんだって。脚注に書いてある」

「今じゃ魔幻の鐘がぶら下がってるけどな」

「そうだよグレン。きっとこの邪神の血を封印した場所だからこそ、魔幻の塔を建てたんだ」

「捲ってくれ、ノエル。次のページには、きっとまたあいつが出てくる」

 グレンの言葉に従って、ノエルの骨っぽい指が古びた本を捲る。空が薄暗くなり、ぞくりと気味の悪い予感が足元から立ち上ったような気がした。

「怒り狂った帝王が再来した」

 ノエルの言葉と同時ぐらいに、見張り塔である『魔幻の目』の上に暗雲が渦巻いた。けたたましい雷の音と共に、皇帝紫の髪が翻る。彼はもはや優雅な手つきで邪神をけしかけることはなく、唸るような声を上げながら自ら殺戮を始めた。目にも留まらない速さで屋根の上を飛び移り、帝王は黒い鋭い爪を人々に突き立てた。豹変した獣のような帝王に、クライドは身震いする。

 ウルフガングは人々を家に集め、そこに魔法で結界を創った。青白い柔らかい光が、広い家を包み込む。一人の女性が結界の外に立ち、ウルフガングに何事か囁いて両手を空に掲げた。彼女は結界を守るために、家の外で外敵に備えているようだ。

「アデルバリティアの勇士たちも、残ったアンシェントの民も、立派に戦った。散った者たちを帝王の血肉にされないように、ウルフガングは彼らの遺体を花びらに変えた。血なまぐさい戦場に色とりどりの花が舞う」

 ノエルが朗読を買って出てくれてよかった。クライドは、帝王とウルフガングたちから目をそらせない。

 帝王は細い身体で、文字通り宙を舞う。足場も無いのに、そこに見えない足場があるかのように空間を蹴りつけて高く宙へと躍り出るのだ。そして目標を決めたのか、彼は何の躊躇いもなく急降下して男を刺し殺した。事切れた男の首に帝王が唇を寄せようとしたとき、その遺体は風船がはじけるように菜の花の黄色い花びらになった。つむじ風に舞い上がる花びらの中で、帝王は怒り狂って手の中に残った花びらを握りつぶす。遠くて表情は分からないが、何か叫んだのは聞こえる。

 ウルフガングの仲間たちも、仲間の遺体を次々に花びらに変えていた。赤、青、白、紫…… 大きさも形もさまざまな花びらがアンシェントの空を染める。美しく悲しい景色に、クライドは喉の奥が詰まったようになった。

「帝王はアデルバリティアの勇士たちから攻撃を受けたが、罪のない沢山の人々を使って強めた魔力は強大だった。ウルフガングは、攻撃を受ける度に帝王の魔力を体内に取り入れて戦った。アンシェントの民はそれをサポートし、アデルバリティアの勇士は帝王を徹底的に追い詰めた。戦いは三日三晩続いた」

 花吹雪の中で、帝王とウルフガングが魔力をぶつけ合う。地面を一蹴りしただけでおよそ人間には不可能な高さまで飛び上がる帝王を、当たり前のようにウルフガングも追いかけた。重力を感じさせない動きで帝王と同じ高さに追いつくと、ウルフガングは青い炎のような魔力を纏わせた腕で帝王の顔を強かに殴りつける。

 翻った帝王の髪が表情を隠す。次の瞬間、ウルフガングの頬を帝王の黒い爪が切り裂いた。だが、ウルフガングの傷はすぐに治った。すぐに反撃に出て、ウルフガングは何か呪文を唱えて帝王の着地点を火炎で埋めた。

 燃え盛る炎の中から、服だけが少し焦げた帝王が悠々と歩いてくる。ウルフガングにはまだ、それをみてにやりと笑う余裕があった。

 おもむろに民族衣装の頭飾りから猛禽の羽を一本抜き出すと、ウルフガングは優雅な仕草でそっと息を吹きかける。途端に、茶色と黒の縞模様の羽は赤い目をした鷹に姿を変えた。魔法の鷹を口笛で使役して、ウルフガングは帝王の自由を奪う。

 二人は古語の、しかもおそらくアデルバリティアの古い言葉と思われる言語で挑発しあっている様子だ。聞き取れないが、ウルフガングが帝王と互角に戦っていることはよくわかった。

 二人の戦いの最中、魔道士たちは集まって呪文を唱えてウルフガングをサポートしているようだ。邪神を呼び出す隙も与えないウルフガングのおかげで、周りはとりあえず落ち着いていた。何人かがリーダーシップを執り、手分けして怪我をした仲間を介抱し、子供や逃げ遅れた人たちをあの結界の家まで送っている。

 ノエルがページを捲る。戦闘が早回しで繰り広げられ、新しいページで二人は疲れきっていた。

「帝王の悪しき魔力を使い続けるウルフガングにも、限界が近づいていた。帝王はウルフガングに魔力を吸われ、もう邪神を呼び出す力も残っていない。魔幻の目をより強大にするために、ウルフガングは塔を造った。塔のてっぺんで二人は死闘を繰り広げた」

 地面を触って呪文を唱えたウルフガングの足元から、地響きを伴って塔が突き出してくる。突き出すというか生えて来たと言っていいぐらいに、生命感のある動きだった。塔の周りを取り囲み、仲間達が両手をかざして魔力を送り込んでいる。視点はウルフガングと共に上がっていき、ついに塔はアンシェントタウンに鎮座するあの姿になった。仲間たちは更に魔力を送り込み、外壁に半透明のガラスのように固めた魔力で階段を作って登り始める。

 ふらつく帝王を見れば、長い爪が何本か折れている。ウルフガングも右目の上を負傷し、左手首がどうやら折れていそうな動きをしていた。息も絶え絶えに、それでもウルフガングは呪文を紡ぐ。帝王はこちらに背を向けているが、何か呟いているのでこちらも魔法を使おうとしているのかもしれない。

 もつれた髪を振り乱し、帝王はウルフガングに掴みかかる。弱ったウルフガングはどうにか壁で体を支えたが、鐘楼から落ちそうな位置で必死に攻防している。

 帝王は古語でウルフガングに何か言った。ウルフガングは不敵に笑って、帝王の皇帝紫の髪を鷲掴みにする。

 次の瞬間、帝王の細い肘がそれなりの速度で引かれた。思わず目を閉じる。

 恐々と二人の方を見れば、帝王の鋭利な爪がウルフガングの腹を貫通していた。帝王の肩越しに、ウルフガングの青い目が見開かれるのを真っ直ぐ見てしまった。心臓がぎゅっとつかまれたようになり、クライドの喉からは悲鳴とも吐息ともつかない声が漏れる。

「ウォル!」

 両手を握り締めたグレンも目を潤ませたアンソニーも、悲痛な顔でそれを見ていた。ノエルは目を伏せ、眉根を寄せている。過去に実際に起こったことで、変えられない出来事だ。そう思おうとしても、ウルフガングの見開かれた青い目が脳裏から離れない。

 ウルフガングが帝王の肩に置いた手に、力を込める。ほとんど吐息と変わらない声で、ウルフガングは何か言おうとしている。彼はまだ戦うつもりだ。致命傷を負った箇所を治す力も残っていないのに、敵を離さない。

 帝王は帝王で、ウルフガングの腹を刺し貫いた手を引き抜く力も残っていないらしい。弱々しく、肩に置かれたウルフガングの手を払おうとして爪を立てる。その時だった。

 敷石の隙間から、力強いイバラの蔓が這い出した。蔓は正確に帝王の脚を狙って絡めとり、細い身体を床へと縫い付ける。その動きで帝王の腕がウルフガングの腹から抜け、ウルフガングは吹き出す血とともに形容しがたい悲痛な断末魔を上げて床に転がった。押さえた手の下からじんわりと赤い血が広がり、朦朧とした目でウルフガングは帝王を捉える。まだ生きていやがる、と言いたげな顔でウルフガングは目を伏せた。ウルフガングは床に倒れ込んだ姿勢のまま、震える右手を上げた。そして、クライドに術をかけた時と同じく、ゆっくりと指揮のように魔力を紡ぐ。

「ウルフガングの命と引き換えに、青銅製の鐘が生み出された。ウルフガングはそれを打ち鳴らすことなく果てたが、その死体を辱められる前にアデルバリティアの仲間たちが彼の体を鮮やかな青い花びらに変えた。そして、帝王が鐘に触れる前に、その鐘を鳴らした」

 ウルフガングの指揮に従って、血まみれの床に少しずつ鐘が姿を現す。淡く輝く青銅が、粘土細工のようにゆっくりと形を変えながら広がって行った。クライドはそれを、固唾を呑んで見守っていた。帝王は茨に絡みつかれて弱弱しく暴れていたが、完全に床に縫いとめられてこちらを見る気力は無さそうだった。

 ボロボロになるまで戦ったウルフガングは、やがて鐘をしっかりと作りきった。そのとき仲間達が到着し、ウルフガングは安堵したような表情で腕を下ろす。そしてそのまま、目を閉じて二度と動かなかった。背後でアンソニーが鼻をすする音が聞こえる。

 グレンになんとなく顔が似ている男が、泣きながらウルフガングのそばに跪く。そして、何度もつっかえながら呪文を唱えてウルフガングの身体を青い花びらに変えた。風に乗って塔の上から花が舞い、仲間たちは涙を拭いもせずに、四人がかりで帝王を取り囲む。ウルフガングが絶命したことで、イバラが緩んできていたのだ。

 人々は力を合わせて帝王を押さえつける魔法を使い、例のグレン似の男を含む三人が鐘を鐘楼に下げた。そうして、三人は渾身の力でそれを打ち鳴らした。

 響く音色に涙が零れた。クライドは、まだ青い花びらの舞う空を鐘楼から眺めた。壊滅した町の上を漂う花びらは、ただ美しかった。これがあの勇敢なウルフガングの最後の姿なのだと思うと、切なさが胸を満たす。彼はついに、妻にも息子にも会えなかった。遺体すら残らなかった。そうまでして、最後の一滴まで魔力を捧げて、帝王を退けたのだ。

 古びた鐘の音が世界を揺らしたその時、帝王はにわかに苦しみ出した。もつれた長い髪のあいだから見えた目は金色で、手負いの野生動物を思わせる眼光に背筋がぞくりとする。 

 鐘が光を帯び、やがて閃光が視界を潰したとき、クライドは帝王がいなくなっていることに気づいた。

「鐘の護りで帝王は吹き飛ばされ、世に平穏がもたらされた。アデルバリティアの勇士は半分がここに残り、アンシェントの民と共に結界を築いた」

 ページの切り替わりとともに、クライドたちは鐘楼の下の広場にいた。グレンに似たウルフガングの仲間は、アンシェントの生き残りらしい。アデルバリティアの毛織物を着た魔道士たちに、彼は建物の再建を指示している。町外れの墓地には色とりどりの花が飾られていて、その中に一際目立つウルフガングの墓もあった。

 人々は塔の下で、毎朝何かを祈っていた。次第に年月が経ち、争いや祭りの様子を何度か繰り返しているうちに、墓はすっかり朽ちていた。百年ぐらいの歳月が経ったように思う。その頃には朝に祈る人たちが減り、鐘楼塔だけが作られたときとそれほど変わらない姿でそこに建っていた。いつのまにか男性はズボンを着用するようになっていたし、女性は染物のスカーフを被るようになっている。きっとアデルバリティアの移民たちが伝えた染色の技術が、山奥のアンシェントにやっと根付いたのだ。

「帝王は絶海の孤島に身を潜め、死ぬ寸前でまだ生きていた。やがて彼を信奉する者達は、組織を作って帝王を護る盾となった。以降は、私の知らない世界だ。この記録を読んでいる勇士により、帝王が滅ぶことを祈る」

 本を閉じれば、辺りはすうっと暗くなった。古びた部屋の中で、四人はそれぞれを視線で確認しあって息を整える。しばらく誰も何も言わなかった。あんなに近しい頼れる仲間の、死ぬ瞬間を見てしまったのだ。千年前の幽霊という実感が、今更本物になる。

「僕たち、あんなのの手下に目をつけられたの?」

 掠れた声でアンソニーは言った。泣き腫らした目をしていたのは、ウルフガングの闘いでたくさん泣いたからだろう。

「思った以上に捨て身だな。ははっ、今更震えていやがる」

 グレンの言葉に同感だ。クライドも膝が笑っている。とりあえず近くのベッドに腰掛け、息を深く吸った。ノエルは眼鏡をそっと押し上げて、緑の澄んだ目を憂わしげに伏せた。

「あのウォルですら命と引き換えだったんだ。無傷で帰れるなんて、思わない方がいいね」

 頷いて、両手を見下ろす。できる限り、鐘が帝王の手元に渡る前に片付けるしかない。大人を探すよう言われたが、鐘はすでに泥棒の手中なので思ったよりも時間がない。追いかけて取り返せるのは、クライドたちしかいないのだ。

「俺らがやらなかったら、邪神がアンシェントの家族から順番に殺していくんだぞ。耐えられない。俺は、鐘を取り返す」

 緩んでしまいそうな決意を改めて口に出せば、グレンがにやりと笑った。アンソニーは唇を引き結んでこちらを真っ直ぐに見据え、ノエルは目を伏せたまま静かに頷く。

「俺らしかいないんだ」

 かみ締めるように、言い聞かせるように、クライドは呟いた。町長の信頼もウルフガングの期待も、クライドには重い。それでもやるしかない。

「はは。笑っちまうな、あれに殺されるとか死んでもごめんだ。さて、死なねえ方法考えるぞ」

 グレンはそう言うと、ベッドに身を横たえて頬杖を突く。クライドは、胸に垂れ込めた重い気持ちを消化できないままグレンを見た。空の色をした目は楽しげに細められ、形のいい唇は笑みを崩さない。どんなときでも大抵楽天思考にもっていけるのが彼のいいところだが、無理して笑っていないだろうか。

「帰るなら今だぞ。知らなかったことにして町に戻れば、とりあえずあいつと戦う可能性は消える」

「馬鹿いうなよ。俺らが逃げ帰ったら、あいつと戦ったとき誰がお前の身体を花びらにするんだよ。俺はお前を帝王にくれてやるくらいなら、死ぬほど魔力を使って花にする。きっと、青いネモフィラだ」

「お前は真っ赤なゼラニウムにでもするよ。ありがとう」

 何だかほっとした。グレンは本気でクライドの最期の瞬間まで一緒にいてくれようとしている。軽口に軽口で応じたように見えて、案外二人とも本気でお互いを花にする展開を考えているのだ。ウルフガングのように青い花になる最期を、クライドは見据えなければならない。最悪の場合、あのとんでもない相手に喧嘩を売りにいくのだ。

「ノエル、トニー。お前らも、帰っても誰も責めないぞ。帰って役場を手伝うのだって、立派な使命だ」

「戦力が一人でも多いほうがいいことは明白だよ、クライド。君を花にしないですむ方法を、僕は死力を尽くして考える。任せておいて」

 そういって微笑むノエルは、覚悟を決めたような顔だった。クライドは頷いて、アンソニーを見る。アンソニーは血が滲むぐらい噛み締めていた唇を解いて、震える顔をこちらに向ける。

「すごく怖いよ。本当に、あんなのと戦うなんて嫌だ。でも、帰っていつ来るか分からない帝王に怯えるのはもっと嫌だ…… 僕も連れて行って、クライド」

「心強いよ」

 グレンがアンソニーの肩をぽんと叩き、ノエルは彼の柔らかい金髪をぐしゃぐしゃ撫でた。安心したのかアンソニーはまたしくしく泣き出してしまったが、そのうち泣きつかれて寝てしまう。クライドも、起きている二人に挨拶をして埃っぽい布団に包まった。怖い夢をみるだろうと思ったが、朝まで意識は途切れたままだった。

 意識の遠くの方で誰かの呼び声を捕らえた気がしたが、眠りが浅かったので寝足りない。

「おきろ、クライド」

 誰かに揺すられ、クライドは目を覚ました。目を開けると、窓から差し込む光で部屋は明るくなっていた。朝一番に吸い込んだ空気は、やはり潮の匂いだ。

 クライドを揺すっていたのはグレンで、その隣にはアンソニーとノエルがいた。変わらない仲間の様子にほんのり安堵しながら、クライドは欠伸をして目を擦る。

「とりあえず、街に出てみないかい? あの男の人工の魔力が、一晩続くとは思えないよ」

 ノエルが言った。その言葉に大いに納得し、クライドはベッドから起き上がった。そして、揺れるハシゴを一段ずつ降りていく。最後はもどかしくなって三段分ぐらい飛び降りた。クライドが軽いのが幸いしたのか、古びた床はちゃんと持ちこたえてくれた。

 顔を上げると、ウルフガングが机に向かって何かしていた。多分、また手紙を書いているのだろう。クライドが挨拶すると、ウルフガングはにっこり笑いながら振り返った。

「おはよう、クライド。よく眠れたか?」

 この質問には、どう答えるべきか迷った。あまり寝覚めはよくないし、良く眠れてはいない。正直に答えてみると、ウルフガングは苦笑した。

「ま、そうなるよな」

「やっと最後まで見ました」

「そうか。俺も帝王もファッションがヤバかったと思うが、千年前だから気にしないでくれ」

 それを聞いてアンソニーとグレンが同時に吹き出した。クライドもにやりとする。確かに初対面の時にあのファッションで出てこられていたら、ウルフガングをより一層胡散臭いと思ったかもしれない。

「自分の死ぬところを見せるなんて悪趣味だと思ったが、帝王がどんな男か知るには、あれを見る他ない」

「ほんと悪趣味だよな。でも、不謹慎かもしれないけど、あの花が舞う景色は壮観だった。悲しいぐらいに綺麗だった」

 ニヒルに笑うグレンは、彼なりにあの記録を重く受け止めている。ウルフガングもそれを感じ取っているのか、穏やかに目を細めた。

「彼らは世界のため、次世代の子供たちのために命を散らした。お前ら子孫たちの平和な感想は、決して不謹慎なものじゃない。この時代を生きる者たちが、美しいものを愛で、優しい時間を不自由なく過ごせている証なのだから」

 クライドは彼の人類愛の深さを、尊敬するほかなかった。ここまで他人のために全てを投げ打てる人など、きっと今後も現れないだろう。彼は幽霊だというが、本当はもっと神や天使などと呼ぶ方が相応しいのではないか。

「ウォル、ほんとに凄かった…… すっごくかっこよかった。僕の町に、来てくれてありがとう」

「ほら、泣くんじゃない」

 両目から大粒の涙をこぼしてうなだれるアンソニーの頭をぐしゃぐしゃ撫でて、ウルフガングは嬉しそうにした。アンソニーほどの素直な感情表現は恥ずかしくて出来ないが、クライドも同じ気持ちだった。

「あの本にあった全盛期ほどではないが、あの男は常に危険だ。気を引き締めて向かえ」

「はい」

「これから役立つだろうから、魔道書をやる。外国語で書いてあるものもあるが、じきに読めるようになるだろう。ノエル、それまではお前が主に読んでやれ」

 ウルフガングは、本棚から分厚い本を五、六冊抜き出した。そして、それをクライドに渡し、ノエルには別の本を二冊渡す。受取った本のあまりの重さによろけるクライドだが、どうにか倒れずに済んだ。

 隣にいたグレンが、笑いながら半分持ってくれた。クライドは礼を言うと、ウルフガングに背を向けて歩き始める。後ろから、仲間たちがついてくる。

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