第二十九話 忍び寄る狂気
割り当てられた部屋に行くと、グレンがベッドに座って壁に寄りかかっていた。ノエルはまだ来ていないようだ。アンソニーもいない。
「トニーは隣の部屋だ。エディと寝るって」
そういいながら、グレンは壁から離れる。そして、用意されたベッドをちらりと見た。クライドも彼の視線を追ってベッドを見る。ベッドは古ぼけたダブルが一台と、簡易式のマットレスが一枚だ。グレンは広いほうのダブルベッドにあぐらをかいていた。
「ノエルが一人用で寝たがりそうだよな」
にやりと笑うグレンに、クライドも同じように口角を上げてみせた。ノエルは神経質そうというか、個室があるのなら率先してそちらへ行きたがるようなイメージだ。逆にアンソニーは絶対に一人で別の部屋には行かないと思う。シェリーの家でノエルがアンソニーと寝ていたのは絶対にイレギュラーだ。
「わかる。けど寝相でいうならグレンを隔離しといたほうが安全じゃないのか」
「そりゃクライドだってそんなに変わらないだろ」
笑い合っているとノエルが入ってくる。
「二人とも楽しそうだね、どうしたんだい」
「ノエル、どこで寝る?」
「じゃあ、僕はそれで」
「ほらやっぱり!」
ノエルはクライドとグレンを一瞥し、眼鏡の奥で緑色の目を楽しげに細める。こういう目をするノエルは何かとんでもない爆弾を投下してくるので、クライドは期待を込めてノエルの言葉を待った。
「君ね、思ってる以上に寝相が悪いんだよグレン。黙っておいてあげようと思ったんだけど、今がカミングアウトのタイミングかもしれないね」
「えっ、何やらかしたんだよグレン?」
「おいノエル、何の話だ」
焦ったように顔を上げ、グレンは立ち上がる。ダブルベッドのスプリングが揺れてグレンはよろけた。
「あの平原でテント生活をしていた頃の話だけど…… 僕、どうやら女の子と間違われたみたいで」
「は? え、何だよそれ、全く記憶にない」
「つまりシェリーと間違われたのか?」
ノエルはただ、黙って微笑むばかりだ。グレンの顔がじわじわ赤くなる。
「なあノエル、俺に何の恨みがあるんだ。言ってみろ。何かしらで手を打つ」
「やだなあグレン。こんなの僕だけの秘密にしておいたらどうなるかなんて、想像がつくんじゃないのかい。ことあるごとに『カミングアウトしようかなあ』って言われるのと、今全てをラクにするのとどっちか選んで良いよ」
「お前本当にいい性格していやがる」
ノエルから目をそらして吐き捨てたグレンは、いまや耳まで真っ赤だった。クライドはくすくす笑いながらグレンを見やる。
「睡眠中の無意識だからしょうがないとはいえ…… あんな抱きしめ方したら、シェリーは痛いと思うけど」
「あーもう、何だよ、シェリーと間違えたとは限らないだろ」
「名前を呼んでいたから間違いないと思うよ」
叫び声に後半はかき消されたが、クライドは腹が痛くなるぐらいに笑った。グレンは大声で叫びながらマットレスに飛び乗り、背後に回ってノエルの肩を掴んで揺らす。耳まで真っ赤になっているグレンにいつもの迫力はないし、揺らされているノエルも眼鏡を押さえながら笑っている。
「本っ当にやめろよそれ、忘れろ、今すぐ忘れろ」
「真夜中に突然圧死させられかけた僕の身にもなって。意外とアンソニーのほうが寝相はマシだったよ、彼に起こされたのは一回だけだから」
グレンの動きが止まる。クライドは笑いが止まらなくて、痛む腹を押さえてひいひい言いながら涙を拭う。あの恋愛に関心のなかったグレンが、すっかりシェリーへの気持ちを募らせているのが何だか初々しくて良い。
「ねえグレン、きつく抱きしめたら女の子が喜ぶっていう思考は毒だと思うんだ。最近流行りの歌の影響かい?」
「思ってねえよ、そんな怖いことできるかよ」
「無意識にやっていたじゃないか、相手が僕でよかったね」
「最悪だ。文字通り最もこれ以上なく悪い」
「そうかい? 実際寝ぼけてシェリーに同じことをした時のことを考えたら、どっちのほうが悪夢かなんて明白だよグレン」
「シェリーのほうがいいに決まってんだろ、少なくとも間違えてハグしてるんじゃないんだから」
流れるようなやり取りはそこで止まった。クライドはノエルに目配せする。ノエルは穏やかに微笑みながら、クライドに視線を返してくれた。
二人でにやにやしていると、グレンは長い指で金髪をかき乱しながら大げさに溜息をついてみせる。真っ赤な顔なので迫力はなく、ただただ面白い。
「お前らもっと、俺の遠距離恋愛を応援しようっていう気はないのかよ」
「もちろんめちゃめちゃ応援しているけど、シェリーが…… なあ? 大変だろうなあ、絶対」
「近距離で付き合いだしたら、シェリーはきっとグレンへの最初のバースデープレゼントを身代わり用の抱き枕にするね」
クライドがゲラゲラ笑う傍ら、グレンはノエルにヘッドロックをかましている。ノエルは慌てて眼鏡を外して隣のベッドに投げると、非力な両腕でささやかな抵抗を試みている。
「はあ、はあ、ノエル、もうそれぐらいにしてやれ、俺の腹筋が死ぬ」
つりそうな腹を抱えながらそう言うと、ノエルはグレンの腕から逃れて笑いながら息を整えた。いつになく少年らしいノエルが新鮮だったし、からかわれたグレンの対応も初めて見たような気がする。
三人で、それぞれ少しむせながら楽な体勢で息を整えた。そうしていると、クライドの視界の外でグレンがぽつりと声を漏らす。
「真面目な話、また会える保証はないだろ。だから今度あいつに会ったら、言いたいこと全部言葉にして、やりたいこと全部行動にして、悔いなんか残さないようにしたい。だからきっと、俺とあいつに必要な時間は、一生全部使ったって足りないくらいだ」
ぐっと心を突き動かす言葉だった。
グレンがこんな男だからシェリーは彼を選んだのだと、心から思う。虐げられ続ける環境を自ら選び、強くなりたいと望んだシェリーの安らげる場所にグレンなら間違いなくなれる。自由で真っ直ぐなグレンは、頑張りすぎるシェリーの肩の力を抜かせ、抜群の行動力できっとどこへでも連れていくだろう。そんな未来が来ることを、クライドは強く望んでいる。
「そうだね。きっとシェリーもそう望んでいるよ。君たちはきっと上手くいく」
「なんか、ノエルに言われると本当に上手くいく気がしてくるな」
グレンとノエルが笑い合っているのを聞いて和んでいると、二人が背を向けている壁の向こうで明らかに音がした。ノエルが眼鏡に手を伸ばし、グレンは半身を起こして壁の方をむく。何かが割れる音がした。
「なあ、なんか隣、大丈夫か?」
「様子を見に行くか」
頷きあって、ノエルを待たせて部屋を出ようとしたその時、部屋のドアが勢いよく開いた。入ってきたのは青ざめた顔をしたアンソニーだったが、彼は入ってくるなり渾身の力でドアを抑え始めた。
「おいトニー、何してんだ」
「グレンも押さえて! お願い!」
きょとんとするグレンをちらりとも振り返らず、アンソニーは力いっぱいドアを押さえている。明らかにドアの向こうで、何かがぶつかってくる音がしていた。
「エディ、様子が変なんだ、とにかくまずいよ!」
とりあえずクライドも、アンソニーの必死さに押されてドアを押さえるのを手伝った。ドアの向こうからは、ドアノブを乱暴に回す音と体当たりの振動が伝わってくる。グレンは見えない手を使ってドアの外の体当たりを止めようとしていたようだが、舌打ちしてドアを押さえる方に回った。
「体の大きさからしてエディだろうけど、馬鹿力すぎて無理だ。実物を見ながらじゃなきゃ押さえられない」
グレンが毒づくのを聞きながら、クライドは必死にドアを押さえた。凄い力でぶつかってきているようだが、エディ本人は大丈夫なのだろうか? こんなに闇雲にぶつかっていたら、痣だらけになるに違いない。
「おい! エディ、何やってんだ!」
「エディ、突然どうしたのさ?」
ドアにへばりつきながら、グレンとアンソニーがそれぞれエディに声をかける。しかし返答はなく、体当たりの音が激しくなるだけだった。
ノエルは冷静に対処法を考えているらしかったが、やがてドアノブに軽く手を添えて目を閉じた。彼の魔力が活性化するのがわかり、クライドはドアを抑えながら行く末を見守る。どうやらノエルは、魔法でドアの目張りをしたらしい。壁とドアが完全に密着し、ドアノブは回らなくなっている。
「クライド、グレン、窓から出て。君たちの運動能力なら命綱がなくても行ける。僕とアンソニーはその間にロープを作る」
「そんなもん俺に頼め、ノエル!」
ほとんど無意識に想像し、ナイロン製のロープを作り出したクライドはそれをノエルに投げ渡し、グレンとともにベランダから飛び降りた。一階の庇を足がかりにしたことで、足を痛めずに庭に着地できる。
グレンはすぐさま後ろを振り返り、アンソニーとノエルがロープを伝って降りるのを見えない手で手伝った。クライドは庭の錆びた物干し台やカーテンの閉まった一階の様子を気にしながら、降りてきたノエルに手を貸す。四人揃ってとりあえず玄関の方向へと足を向けたその時、アンソニーがひっと悲鳴を飲み込むような声を上げた。
「だめ! みんなそっちは……」
服の裾を引かれたが手遅れだった。
玄関から通りを見れば、刃物を振りかざして迫ってくる何十もの刺客が目に入る。その刺客たちは、尋常だとは思えないほどらんらんと輝いた目をしていた。刺客たちを観察して、クライドはうめいた。こんなことがあっていいのか、とつぶやく。
刃物を持って狂ったように笑っている刺客たちは、善良だと思っていた町の人々だったのだ。