第二十六話 奇怪な出逢い
歩いていくと、古びた建物のある場所に着いた。アベルが熱心に話しかけてくるが、話の内容が全くといっていいほど解らない。見かねたノエルが、アベルの母国語を聞いて通訳し、言いたいことを要約してくれる。
「ここから先は君ひとりでいかなきゃならない。ウォルには隠し事が通用しない。博識な人物で、何もかも知っているんだって。ちなみにね、クライド。言いにくいけど、そのウルフガング=フローリーって人は…… 幽霊なんだ」
神妙な顔で、ノエルは言った。
最初は、その真面目な顔で冗談を言っているのだと思った。潮騒が耳障りに聞こえる。唖然とし、グレンとアンソニーが顔を見合わせる。ノエルは目を伏せて、横目でアベルを見る。彼は熱心に、ウォルは怖くないという旨の言葉を連ねていた。
「えっと、今から俺って、幽霊に会うの? すでに死んでる人? この人、幽霊と友達ってこと?」
怖いわけではないが、気味が悪い。人間ではないものと話さなければいけないのだ。しかも彼は死んでいるのだから、最早生物でもない。やはり、どうしても薄気味悪く思ってしまう。ウルフガングは、やけにグロテスクだったり身体の向こう側が透けて見えたりするのだろうか? 嫌な想像をしてしまう。
「そういうことになるね」
ため息混じりにノエルが言った。がっくりと肩を落とし、クライドは縋るようにアベルを見る。しかし、アベルは早く行けというような内容のことばかりをしゃべり続けている。
しばらく黙っていたアンソニーだが、アベルとクライドを交互に見てにっこりと笑った。
「大丈夫、大丈夫! 僕、オバケは怖いけどアベルの友達だったら怖くないし。ね、グレン!」
これは重大発言だ。お化け屋敷に行ったら数分で悲鳴を上げてリタイアするアンソニーが幽霊を怖くないといった。おまけに笑っている。
クライドは懐疑的な思いでアンソニーを見た。そしてどうやら親友がお化けを怖がらなくなったことが嘘ではないらしいことがわかって、クライドも笑うしかなくなった。そんなクライドを見て、にやりと笑ってグレンが言う。
「俺も見に行きたいけどな、幽霊。残念だ、土産話を楽しみにしてるぞ」
勇気あるね、といってアンソニーが笑った。もしかすると、グレンが幽霊を見に行きたいのは人間でないものを珍しがる気持ちからだろうか? そうだ、自分も人間ではない。結局のところ、共通点は探せばいくらでもあるわけだ。
何だか、そんなに気味悪がらなくてもいいような気がした。死んでしまったからもう人間ではなくなったウルフガングを気味悪がったら、生まれたときから人間ではない自分も気味悪く思えてきそうで嫌悪を覚えた。
結局のところ、自分も幽霊と同じなのかもしれない。
「じゃあ行ってくる。あんまり遅かったら先に帰って」
小さな建物を見ながら、クライドは言った。そのまま歩き出すクライドを、励ますような目でノエルが見送ってくれた。グレンやアベルは自分が行きたそうな顔をしていたし、アンソニーは嬉しそうな面持ちでクライドを見ている。戻りたい気持ちを抑えて、クライドは歩き続けた。そしてクライドは、古びた建物の扉を開ける。
建物の中は朽ちてこそいないが、あの埃まみれの廃墟とそう変わらないほど黴臭かった。案外狭いようで、部屋はひとつしかないように見える。二階があるようだが、そこに続くはしごや階段は見当たらなかった。多分、この部屋のどこかにあるのではないかと思う。
部屋の中には、家具などの生活必需品が綺麗に整頓されて置かれている。だが、ベッドは使われている形跡がなく、冷蔵庫も洗濯機もなかった。テレビやラジオなどの情報源も何もない。いくら見渡しても、新聞すらない。唯一最近使った形跡があるのは、本棚と机ぐらいだった。
最初はきちんと整頓してあると思ったが実は違うようで、よく見れば本棚の本は上下さかさまに入れてあったりするし、栞代わりの紐が飛び出ていたりした。
机には、まだインクが乾いていない手紙が放置されている。中身はディアダ語で書かれていないため、読めない。クライドは、この机の上に広げられた手紙が誰にあてられたものなのかが知りたくなった。
「何をしている?」
唐突に、後ろから澄んだバリトンボイスが聞こえた。いきなり声をかけられたため、クライドは飛び上がった。その拍子に、机の上に置いてあったインクの瓶をひっくりかえしてしまう。瓶は転がり、机の上から落下する。
「あっ!」
咄嗟に手を伸ばしたが無駄だった。鋭い音を立て、インクの瓶が割れる。飛び散ったインクが袖にかかり、床を中心に決して美しいとはいえない斑模様をつくる。
クライドはがっくりと肩を落としながら、割れた瓶に手を伸ばした。机や床がインクで真っ黒に汚れてしまった。しかし、奇跡的に書きかけの手紙は無事だったようだ。
「すみません」
インクまみれで黒くなって、最早ガラスには見えなくなった瓶の欠片を拾いながらクライドは謝った。ガラスの破片を拾い上げる手は真っ黒に汚れてしまったのだが、それは自業自得だ。後ろにいるのは、アベルの言う幽霊だろう。しかし、怖い感じは全くしない。
「いいよ別に。直せばいいだろう?」
後ろの幽霊は、軽く笑った。直せるだろうかと、クライドは自問する。魔法を使えば何とかなりそうだが、今は傷があるのでむやみに血を使いたくない。
「その瓶、ハーヴェイも割ったんだ。同じことしやがって面白いな」
後ろの幽霊は、一人でしゃべっていた。クライドが瓶の欠片を拾うのを見て、手伝おうとしてやめた。理由はわからないが、多分指を切りたくないのだろう。いや、幽霊が怪我をすることなんてあるのだろうか?
黙々と考えながら、クライドは瓶の欠片を集め終えて後ろを振り返る。紛れもなく人間に見える幽霊がそこにいた。
髪は灰色だ。長さは肩にかかる程度で、場所によってランダムに長さが違う。もしかすると、髪は自分で切っているのだろうか。そのせいなのか癖毛なのかはわからないが、毛先がいろいろな方向に跳ねている。なんとなく、ヤマアラシを連想させる髪型だ。
世間で語られる幽霊にありがちな血色の悪さは、彼にはない。血色のいい唇は柔らかそうで、目の輝きも死体のそれではない。本当に生きているようだった。向こう側は透けていないし、生々しい傷もない。
かなり筋肉質な漁師たちを見慣れていると華奢に見えるが、幽霊はクライドよりしっかりした体格をしている。見た目はそんなに老けていないが、雰囲気は大人びている。顔からすると、まだ三十歳まではいっていないだろうとクライドは思った。
瞳の色は澄んだ空色だ。そう表現するとアンソニーやグレンと同じような色に思えるが、二人の瞳よりも濃いトーンの水色である。ということは、彼はエルフではない。エルフなら、目の色が銀色になるはずだから。
「ええっと…… あなたがウルフガング=フローリーさん?」
話しかけるということをすっかり忘れていた。幽霊らしくない彼に見とれすぎていたようだ。クライドが話しかけると、ウルフガングはにっこり笑った。快活に笑う人である。幽霊なのに。
「そうだ。ウォルって呼んでくれ。で、お前は?」
やはりフルネームで答えるべきだろう。少し戸惑ってから、クライドは答えた。
「クライド=カルヴァート」
名乗った瞬間、ウルフガングは嬉しそうに笑う。本当に、よく笑う幽霊だ。
「やっぱりクライドか。本当に、見間違いようもないぐらいそっくりだな」
そういって、ウルフガングはクライドを眺め回す。そして近寄ってきて、クライドの髪をさらさらとなでる。
空疎な手だ。まるで空気の塊に撫でられているような気がするが、背筋がぞっとするようなことはない。少しくすぐったくなって、クライドは首を竦めた。そして、割れた瓶の欠片をそっと机の上に置く。直すのはあとにしよう。
過去の何かを懐かしむかのように、ウルフガングはクライドを眺め続けた。だが、左腕の袖口からのぞく包帯に気づいて表情を変える。ようやく本題を話すときが来たようだ。
「クライドもか。これを治してほしくて来たんだな?」
真剣な面持ちで、ウルフガングはクライドの袖をまくった。傷口が開いてしまったらしい。包帯には、再び血が滲み出していた。
「はい」
同じく真剣な面持ちで、クライドも答えた。痛みのない不気味な傷とウルフガングを交互に見て、これをどうしてくれるのかと目で訴える。
「お前はどうして旅に出た? 父さんを探しにきたのか」
先ほどまでインクの瓶が置いてあった机に備え付けられた粗末な椅子に腰掛けながら、ウルフガングが聞いた。
拍子抜けする。一刻も早く直したい怪我だ、そういう世間話よりも治療を優先してほしい。しかし、頼んでいるという立場上せかすわけにもいかない。
「いえ、それは主な理由じゃありません。俺は鐘を取り戻すためにここにいるんです」
落ち着いた声で答えたクライドだが、ウルフガングは一瞬目を見開いた。明らかに驚いているようだ。そして、意外なことを言う。
「なに? 俺が全力をかけて造ったあの鐘が盗まれただと? あれを造ったせいで俺は魔力を使い果たして死んだというのに! あのクソ帝王、ついに行動にでやがったか……」
一瞬耳を疑った。あの鐘の創造者は、なんと目の前にいる幽霊だというのだ。信じられない。しかし、確かに彼は強そうな魔道士という感じがする。なんとなくだが、雰囲気に魔力めいたものを感じるのだ。
「も、もしかして、アデルバリティアの魔道士って」
「俺のことだ。アンシェントタウンに、俺の同志が遺した魔法の本がある」
「それ見ました、アンシェント・クロニクル」
「ああ…… 思ったより深刻だった」
よろめくようにベッドに座るウルフガングだが、その動作は重さを感じさせず、埃も舞い上げなかった。クライドは、この人がようやく本当に幽霊なのだと実感しだす。
「でも、全部は見てないんです。帝王が町を無茶苦茶にするところしか」
「あるぞ、アンシェント・クロニクルの複写。この小屋に」
「え? いや、別に、続きはいいです…… だって、貴方が殺されるところが描かれているだろうし」
正直な所見たくないと、はっきり言ってしまいたいぐらいには不快な思い出だ。帝王が楽しそうに殺戮を繰り広げるところも、クライドの先祖かもしれない人たちが絶望の中を逃げ惑うところも、見ないですむならそれが一番いい。ウルフガングはクライドの方を半眼で見やり、小さく溜息をつく。
「その後で俺の仲間たちが、帝王を退けて世界に光をもたらすところまでがこの本だ。まあいい」
ウルフガングはふわりと立ち上がる。やはり重力を感じさせないのは、ウルフガング本人の髪や服は揺れても、そのほかの家具や空気は一切動かないからだ。
「もう一度聞くが、クライド。魔幻の鐘が盗まれたんだな?」
念を押すように、ウルフガングが問う。クライドはうなずき、開いていた左手を握る。服の袖に血が染み込んでくるのが解った。傷は先ほどより開いているが、相変わらず痛みは無い。
「三人組の男らに盗られました。帝王の手下です」
「代わりに誰か結界を張っているんだろうな?」
これには即答できた。なぜならば、一緒に世界を守っている同志がやっていることなのだ。町長はクライドに鐘を託した。クライドは町長に結界を託した。二人いなければ、この状況を維持できない。
「はい。町長さんと役場の人たちが何とかしてくれています」
それを聞き、ウルフガングはとても綺麗な笑みを浮かべた。安心しきったような笑みだ。クライドは目の前にいる古代の魔道士のことを、やはり幽霊だとは思えなくなってきた。物理の法則を色々無視している存在ではあるが、よく笑うし感情だってある。見た感じはまるっきり生きている人間だ。
「そうか。なら良かった。腕を貸せ、治してやる」
クライドはおとなしく腕を出し、ウルフガングに見せた。少しうなった後、ウルフガングはクライドの腕に巻かれていた包帯を取っていく。何か呟いているようだ。呪文かもしれない。
傷口があらわになったころ、ウルフガングは優しげなまなざしで傷口を見ていた。そして、徐に右手を挙げた。
その手を宙で動かしながら、彼は呪文らしきものを呟いている。宙で動かされている手は、何かの記号か文字でも書いているようだった。落ち着き払ったウルフガングの姿は、何だか優雅に見える。まるで、オーケストラの指揮者のようだ。
術を使うウルフガングに見惚れていると、急に左手に激痛が走った。思わず顔をしかめ、声を出してしまう。
「よし、痛みは戻ったな。あともう少しだ」
優しい声で言い、ウルフガングは歌うように言葉をつむぎだした。シェリーが唱えたエルフの呪文に良く似ていたが、何かが違う。暫く考えて、やっと答えに行き当たった。エルフの言葉とは違い、言葉がわかる。これは人間流の呪文なのだ。やたら古い言い回しだが、神への祈りのような文言が聞き取れる。
なんだかうとうとしてきた。抗し難い眠気に襲われ、クライドは目を閉じる。どっと押し寄せてくる、疲れが目蓋を重くする。このままでは寝てしまう。
不味いとは思いながらも、クライドは目を開けることができなかった。けれど、眠りに落ちる寸前に、ウルフガングが苦笑する声と『世話の焼ける親子だ』という優しげな呟きが聞こえた気がした。
聞き返そうと思ったが声の代わりに出たのはあくびで、それきりクライドはすっかり眠りに落ちてしまった。
埃っぽい空気が喉を痛めていた。クライドは咳き込みながら目を覚ました。見慣れない天井に、見慣れない家具。そして、この埃っぽい空気。ここは一体どこだっただろう。
そう思ったとき、左腕に痛みを感じた。痛みが全てを思い出させてくれる。そうだ、ここはウルフガングの部屋だ。古代のとんでもない魔導士が、どうしてかこの街にいる。
慌てて飛び起きると、熱心に何かを書き綴っているウルフガングがいた。机の上には、大量に重ねられた便箋がある。軽く十枚は越える量だ。そんなに書くことがあるのだろうか。その前に、これは封筒に入りきるのだろうか。とにかく声をかけよう。
「あの、ウォル?」
ベッドに座ったまま控えめな声で話しかけたのに、ウルフガングは一発で振り向いた。そして、にっこり笑う。手紙を書くのは中断したようだ。彼は手に持っていた羽ペンを置いて、インクの瓶にはふたをした。
クライドは少し申し訳ない気分になった。先ほど自分が壊したインクの瓶が、元に戻っていたからだ。あれは後で責任をもって直そうと思っていたのに。良く見れば、自分の服の袖や手も綺麗になっていた。これも彼の魔法だろう。
「よく眠れたか? 術後に眠るなんて、疲れが溜まっている証拠だぞ。腕はもう大丈夫だ、少しの間痛むかもしれないが傷は残らない」
「一体、何だったんですかこれは」
「古い呪いだ。反対呪文はややこしいが、覚えておいてよかった。こうやって千年後の世界で、お前らを救う役に立ったからな」
明るく笑いながら、ウルフガングは椅子の上から立ち上った。そして、本棚に入れてあった古書を引っ張り出してきて読み始める。
革張りの表紙は色褪せていて、題名すらよめない。相当な古さだ。
クライドはベッドから抜け出て、まくれた服を引っ張って直した。腕は確かに痛んでいるが、白い肌には傷ひとつない。少しの安堵を感じる。
「色々聞きたいこともあるだろう。何でも教えてやる、また時間を作ってこい」
クライドの隣に歩み寄って、ウルフガングは言った。にっこりと笑って、彼はまるで自分の息子を愛でるようにクライドの頭を撫でる。空疎な手に触られたときの感触は、グレンの魔法の手に触られた感触に似ているかもしれない。
口を開こうとしたが、考え直してクライドは黙った。何だか、何も言ってはいけないような気分になったのだ。ウルフガングの蒼い目に、翳りが見えた。
「俺には妻がいたんだ。死ぬ半年前に結婚したばかりだった。幸せだったよ」
無念そうに言って、ウルフガングはクライドの髪を撫で続ける。彼の目に、明確な哀しみの色が見て取れた。本当は歳がそこまで離れていなさそうな男性に頭を撫でられるのなんて嫌だったが、クライドは黙って立ち尽くしている。
「妻の腹には子供がいた。俺はわが子に会えるのを凄く楽しみにしていた」
切なそうな表情で、ウルフガングはクライドを見つめる。その目は確かにクライドの方を向いているが、彼の意識はクライドではなく別のものに向けられているようだった。
まるで、クライドを通して別の人物でも見ているようである。もしかすると、千年前の思い出に浸っているのだろうか。
「一度だけ、幽霊になってから息子を見に行ったことがあるんだ。俺にそっくりの顔だったけど、髪は綺麗な金色をしてた。妻が美しい金髪だったからな。だから、金髪の子供を見るとどうしても自分の子のように思えてしまうんだ。頑張ったな。良くここまで来たな。アンシェントは遠い、子供たちからしてみれば特に。難儀だったろう」
悲しそうな微笑を浮かべながら、ウルフガングは言う。クライドは、何も言わなかった。何を言っていいか解らなかった。黙って彼に成されるがまま、空気の塊のような温度のない手で頭を撫でられたままでいる。
暫くして、ウルフガングはクライドを撫でるのをやめた。そして苦笑いしながら、ごめんなと謝ってくる。
「死んだ俺は、本当はここにいてはいけないものだ。魔幻の鐘と同一化せずに幽霊の形を選んだのは、帝王を倒せなかったことに強い未練があったからだ。俺は家族が、町の人たちが、いいや、人間が好きなんだ。幸せそうな人々を護るためになら、死ねた男だからな」
彼がそう言って軽く頷くと灰色の髪が揺れるが、うず高く積もった埃は少しもそよがない。彼の青い目はやはり、相変わらずどこか遠くを見ていた。
「幽霊にならないっていう選択もあったんですか」
「俺は魂がほとんど魔力みたいなもんだからな。その全てを魔幻の鐘に注ぎこんでいれば、毎年鳴らして結界を強めなくても誰も付け入る隙を与えなかっただろう。ただ、それではあいつが万一にも復活したときに止める者がいなくなる。幽霊になるともう二度と転生はできなくなるが、俺の魂はこうやって人々を護るために与えられたんだ。決断は迷わなかったよ。どんな苦しみも忘れずに共に連れて、千年ずっと世界を見守ってきた」
ウルフガングによれば、未練によってこの世に留まろうとする魂は、相当な魔力を持っていないと幽霊にはなれないという。転生を選べば自分の好きなものになれるが、前世の記憶は全て失ってしまう。そんな状態の後世の自分に、全てを託すのはリスキーだとウルフガングは判断した。
「アデルバリティアの仲間たちや、あの古のアンシェントタウンに住んでいた勇士たちがどんどん転生し、様々な姿に生まれ変わり、だんだん『彼ら』だった気質を失っていくのは寂しい気もしたが、それでいい」
懐かしむように目を閉じたウルフガングは、たった独りで一体何人の仲間の人生を背負ってきたのだろう。どんな苦しみも共に連れて、家族や友人の全てを見送って、誰も知っている人がいなくなった世界をそれでも彼は愛し慈しんでいる。強烈な人類愛を感じ、クライドは畏怖の感情に頭が下がる思いだった。こんな人だから、命を賭してまで世界を守ってくれたのだ。
「この魔力が尽きるまで監視していようと思ったが、まさかこんなに早いとはな」
そういって、ウルフガングはベッドのところに腰掛けた。クライドは首をひねり、ウルフガングを見下ろす。彼は少なくとも千年はこの世界を見守っている。それは決して、短い時間ではない。
「千年って早いんですか」
「俺にとっては。この文明が滅ぶまでは耐え切れると思ったが甘かったな」
途方もないスケールの話だ。文明が絶えたあとのことなんてクライドには想像もつかない。閉口すると、ウルフガングは悪戯っぽい無邪気な笑みを浮かべる。
「いやあ、それにしてもな。俺は自分で張った結界のせいで町に入れないんだ。ほんとに間抜けだよな」
肩を竦め、ウルフガングは天井を見上げた。町長が懸命に結界を維持しているおかげで、悪しき魔力を持ったものは結界に弾かれる運命にある。善良な魔力は内に留めるということになっているが、幽霊はすべてが魔力で出来ているようなものなので善良だろうがそうでなかろうが弾かれてしまう。すなわち、ウルフガングは力になりたくても町に入れないのだという。
苦笑いしながら、ウルフガングは決まり悪そうに頭をかく。カットの技術が未熟なためか、場所によってランダムに長さが違う灰色の髪が、手の動きにあわせてさらさらと揺れた。
「俺、絶対に鐘を取り戻して見せます!」
そう意気込んでみると、ウルフガングは今日見た中で一番いい笑顔を浮かべてくれた。そしてクライドの背中をたたいて、励ますようなしぐさをする。
だが、ふと手を止めて真剣そうに笑顔を消した。クライドは驚いて、ウルフガングを見上げた。ウルフガングは精悍な顔でクライドを見下ろす。
「お前はきっと、帝王と戦うことになるだろう。そうしたら俺を呼んでくれ。いつでもお前の力になる」
いきなりそんなことを言われて戸惑ったが、クライドはうなずいて立ち上がった。立ち上がると、机の上においてあるインクの瓶に目がいった。そういえば、まだ謝っていなかった。
「ウォル、ありがとう。それと、インクの瓶直せなくてごめんなさ」
最後まで言わないまま終わってしまった。ウルフガングはどこかに消えていったようだ。急に幽霊らしい消え方をされたので驚いたが、怖くはない。
ドアのそばまで歩いて、クライドは誰もいない部屋を振り返った。自然に笑みがこぼれる。なんだか、ウルフガングが手を振っていてくれそうだ。
そういえば、机の上にあった手紙が全部消えている。きっと手紙を届けにいったのだ。あの分厚い手紙は、封筒の中に入りきったのだろうか。
クライドはドアを開けると、今度は振り返らずに街に帰った。