第二十三話 イノセント・キラー
走っていると、道端に包帯が捨ててあるのが見えた。白地に滲む赤は心をざわつかせる。その包帯から何か見知ったものの雰囲気を感じた。もしかすると、ジャスパーが巻いていたものだろうか? 彼の魔力の残滓がそこに残っているのかもしれない。同じ気配が、クライドたちの前方からもする。
包帯に気をとられていると、クライドは誰かとぶつかった。それは身体の質感からすると男性のようで、クライドは弾き飛ばされて地面に転んだ。肩を打ちつけて、鈍い痛みに襲われる。
起き上がると、冷たい目をした男が居た。一瞬、全ての動きを放棄してクライドは彼を凝視してしまう。この男のことは忘れもしない。クライドは、彼をあやうく焼き殺しそうになったことがあるからだ。
そう、この男は鐘楼塔に忍び込んだ若い金髪の泥棒だった。男はクライドの胸倉を掴み上げる。彼にだけは手がかりがない。魔力のようなものは感じられないのだ。だから居場所を思い描いても何も思いつかなかったのだろう。
クライドは男の手から逃れようと暴れたが、男は手を緩めない。諦めて魔法を使う覚悟をしたとき、男は不意にその手を離した。手を離しただけではなく、後ろに吹き飛ぶようにして倒れたのだ。
何が起こったのかわからなくて、クライドは一瞬呆然とした。振り返ると、ノエルやアンソニー、そしてグレンがいた。グレンが拳を正面に突き出して、男を睨んでいる。そうか、グレンが見えない手でこの男を殴ったのか。
こうやって敵を倒した後、いつもならグレンは笑ってくれるはずである。してやったりと笑みを浮かべるはずなのだ。しかし、今回は違った。無表情に、男を見つめている。
何があったのかはわからないが、グレンの様子は尋常ではなかった。この表情は、普段の楽天的なグレンが浮かべているそれではない。言うならば、全ての感情が死んだような表情だ。
「久しぶりだな、兄貴。やっとゆっくり話せるな」
感情を押し殺したような声で、グレンは言った。ぎり、と彼の奥歯が鳴る。怒りか、失望か、それとも殺意なのか、原因はわからないが興奮状態にあることは傍目にも明らかだ。クライドは唖然として見守るほか無かった。グレンの態度もそうだが、その発言に驚いたのだ。
――兄貴?
グレンに兄なんて居ないはずだ。彼はずっと一人っ子だといっていた。アンソニーは目を丸くしていたし、ノエルは軽く疑問の声を上げた。不審に思い、クライドはグレンを見る。何故だか、頭を殴られたように頭痛がした。長年付き合ってきたグレンの、初めての隠し事が露呈した瞬間だった。
「この間はお前を護るのに精一杯だったから、説明できなかったんだ」
ごめん、とグレンは呟いた。相変わらずの無表情だ。謝罪はいいから、詳細を聞きたいとクライドは思った。
男は冷たい目でグレンを見ていた。彼もグレンのことをちゃんと認識しているようだ。ただ無表情に、その場から起き上がる。
形の良い唇に血が滲んでいるのは、グレンに殴られたせいだろう。グレンが彼を見つめ返したときに、ほんの少しだけ男の目つきが変わった。今まで感情が消えていた男のその目に、強烈な負の感情が垣間見えたような気がする。男は、腰に下げていたホルダーから銀色のナイフを取り出して構える。
それを見て、グレンはもう一度かみ締めるように『兄貴』と呟いた。
「イノセント=エクルストン、って名前なんだ。六つ年上の、たった一人の兄貴だ。俺がまだ小さかった頃に、兄貴は人を殺した。親父が鍛えた短剣で、近所の子供を刺して。まだ持っているのかよそれ、捨てちまえよ親父の刃物なんか」
ひっ、とアンソニーが悲鳴を上げた。ノエルがグレンを見て、その後どうなったのかを話すよう目線で促している。
隠し事をしないで欲しい。ついさっきまでそう思っていたクライドは、複雑な気分だった。いくら親友でも、こんなに悲しい事実まで包み隠さず話すなんて辛いだろう。グレンに対して情報の開示を求めたことを、痛烈に後悔する。
「俺の一家は散々非難を浴びた。でも、あるときを境にして世間の風当たりは全く通常通りになった。何も無かったかのように。家族以外誰も兄貴のことを覚えてなかった。殺された相手のことも。今にして思えば、誰かの魔法かもな。とにかく俺は、兄貴がいるってことを誰にも言わずに生きることになった」
そして今に至るのだ、とグレンは言う。そこで初めて兄の方が口を開いた。
「貴様は他人だ。馴れ馴れしく兄貴などと呼ぶな」
そう言って、兄はグレンを見つめた。深い怒りが滲む視線だ。その目を見て、ノエルが微かに悲しそうな顔をした。考えている事は、きっとクライドと同じだろう。こんなに憎しみ合う兄弟を、クライドは知らない。
「血染めの俺にかけた貴様の第一声は一生忘れない。貴様を殺したとしても」
その一言を聞いて、わずかにグレンが怯んだのが見て取れた。アンソニーが唇をかみ締め、グレンを見上げる。アンソニーのその目が何を語ろうとしているのか、結局クライドにはわからなかった。しかし、アンソニーのあんなに苦しそうな表情は見たことがなかった。
グレンの兄が、淡々と続けた。よくみれば、その端正な顔立ちはグレンとよく似ていた。あまりにも二人の雰囲気や表情が違いすぎるため、すぐに気づけなかったのかもしれない。
グレンの兄は、今にも殺しそうな目でグレンを見つめたまま微動だにしない。少しでも動けば持っているナイフが飛んできそうで、クライドも動くことが出来ない。
「あの日、あいつが何をして俺を怒らせたか、誰も知ろうとはしなかった。貴様とてそうだ。俺を人殺しと罵ってくれたな、泣きながら」
吐き捨てた彼のこめかみの辺りには、青筋が浮いている。口調こそ冷静で無感情だが、心の中は煮えたぎっているに違いない。グレンはただ呆然と兄の話を聞いていた。そして、何度も首を横に振る。何かを否定するように、何度も。
「違う、兄貴」
「帝王は俺に復讐の刃を与えてくれた。やっとこの日が来た」
「は、待てよ。復讐って、俺に?」
愕然と呟くグレンに、イノセントは冷たい目を向ける。
「貴様を殺す。グレン=エクルストン」
ノエルが冷静に辺りを見回し、この砂利道の上で対峙する二人をどうやって安全に遠ざけるか思案している様子が見える。だだっ広い道の上には砂以外何もなく、想像で何か障害物を増やしてイノセントを妨害するほかないとクライドは思った。クライドはそっとグレンを見やる。グレンは束の間、苦悩に満ちた顔をしていた。
「兄貴……」
俯いたグレンの声は弱弱しかった。
グレンに向かってイノセントが一歩踏み出し、短剣を突き出した。迷いの無い一撃だ。咄嗟に庇いに入ろうとしたとき、
「駄目えっ!」
アンソニーが金切り声を上げた。その甲高い大声に驚き、イノセントの動きに一瞬だけ隙が出来た。どうやらイノセントは、アンソニーやクライドたちを視野に入れていなかったらしい。
イノセントが一瞬だけ動きを止めたその隙に、グレンは魔法を使っていた。見えない手を使ってイノセントの手からナイフをもぎ取り、その身体を突き飛ばしたのだ。倒れた彼は、すぐには起き上がらない。腰を強く打ったのか、そのまま見えない手で押さえつけられているのか、仰向けのまま呻いている。そんなイノセントを悲しげに見て、グレンはクライドを振り返った。グレンの魔法の気配を感じるので、グレンは見えない手で倒れた兄を押さえつけているのかもしれない。
「トニー。助かった。クライド、頼みたいんだけどいいか?」
グレンは、兄に魔法を掛けるようクライドに頼んだ。そして、奪い取ったナイフを握り締める。数秒何か考えたようだったが、グレンは無言でそれをノエルに渡した。ノエルは彼の意図を汲んだようで、黙って頷いてナイフを分解して粉にする。それが見えたのか、イノセントの青い目が見開かれる。
震えるようにため息をつき、グレンは倒れたイノセントを振り返って言った。
「なあ兄貴。兄貴も俺のこと、何もわかってない。俺はずっと、謝りたかったんだ。一緒にいたかった。いなかったことになんか、できるかよ」
グレンを睨みつけて起き上がろうとしているイノセントの動きが一瞬止まった。グレンは哀しげにイノセントを見下ろし、目を伏せてクライドの方を振り返った。そして、軽く頷いた。その合図を見て、クライドは目を閉じる。次の瞬間、イノセントはぱったり動かなくなった。眠らせたのだ。
大きくため息をついてグレンは眠った兄を見下ろし、その腕を肩に回して支えながら道の端の方へ連れて行った。そこでなら、眠っていても通行人の邪魔にはならないだろう。
「悪いな、皆」
「謝る必要なんかないだろ」
「俺、事件直後の兄貴にひどい事言っちまって。それで」
「いいよ無理に話さなくて。解ってるよ。お前が家族を追い込むようなこと、言う奴じゃないって知ってるよ」
数年とはいえ生まれた時から一緒にいて、一緒に遊んでくれた人だ。グレンがそれを拒絶したり裏切ったりするようなことなんて絶対するわけがない。クライドはそう思っている。確かにグレンには短気で軽率なところもあるが、ちゃんと筋の通った情に厚い人間なのだ。
「ほら、エディがまだでしょグレン! エディはきっと、この先に居るんだから。おじさんたちがいる感じ、見える気がする」
アンソニーがグレンの袖を引っ張る。決して気遣いの足りない声ではない。グレンの性格を解っていて、その扱いをよく解っているからこその言葉だった。ノエルが心配そうにグレンを見上げた。その視線に気づいて、グレンはどこか吹っ切れたような笑みを浮かべる。
「大丈夫」
乾いた声には安心できなかったが、兄弟間の根深い問題に他人のクライドがとやかく口を出すわけにはいかない。彼の背中をぽんと叩き、クライドは歩き出す。
「エディ、絶対この中だよ!」
外壁が半分ぐらいなくなっているような廃墟を指差し、アンソニーが叫ぶ。クライドは頷き、廃墟を見据えた。そして、用心深く踏み入ってみる。
崩れかけた廃墟は、もとは屋敷だったものらしい。だからかなり広い。しかし、大部分が損傷しているため、隠れ場所にできるような部屋は少ない。
「二手に分かれよう。とりあえず……」
そう言いながら、クライドは目の前に足を踏み出した。しかし、中央の通路は朽ちていた。全く無意識のうちに足を踏み出したら、床は大きな音を立てて崩れる。土やほこりが舞い上がり、まずいと思ったときにはもう遅かった。
危うく落ちそうになって、クライドは思わずアンソニーの右腕をつかんだ。それにいち早く気づいたグレンが、アンソニーとクライドの左腕をそれぞれ見えない手で引っ張る。そして、二人とも無事に引き上げてくれた。朽ちた床を良く見て、なるべく丈夫そうな箇所を探し出してそこに身を落ち着ける。危ないところだった。
「ありがとうグレン、ごめん、トニー」
舞い上がる埃に咽ながら、クライドは言った。隣でアンソニーも何か言おうとしているが、ひどく咽ているためうまく言葉になっていない。
ノエルは自分の腕にした時計を見ている。あの人ごみから抜け出てきたときから既に二十分が経過していると、彼は言った。
「気にするな。それとノエル、まだエディは大丈夫だろう。そのうち、ジャスパーとかいうメタボな泥棒が動き出すかもしれないけど」
二人を見て、苦笑いしながら答えるグレン。そしてグレンは、クライドに手を伸ばした。彼の手を握り、クライドは立ち上がった。先ほどの言葉の続きを言おうとすると、ノエルがクライドを止めた。
「クライドとグレンは離れた方がいいね。僕とアンソニーはきっと戦力にならないから」
そう言って、ノエルはアンソニーを見た。アンソニーは彼に言われた事を自覚しているようで、悲しげに頷いた。確かに、二人は体力的にあまり戦力になってはくれないだろう。
しかし、頭脳戦でいくならノエルが必要だし、観察力でいったら視力の魔法を使えるアンソニーの右に出るものは居ない。ここは、彼らの希望で決めよう。
「体力だけで見たらそうかもしれないけど、魔道士はみんな平等だろ。トニーとノエルはどうしたい?」
クライドがそう言うと、ノエルは徐にポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中からは、一枚の硬貨がでてきた。
ノエルはそれを指先で弾き飛ばした。コインは回転しながら垂直に宙にあがり、すぐに落ちてきた。
ノエルは左手の甲にコインを受け止めると、骨っぽい右手を同時にかぶせてこちらに目配せする。
「手っ取り早くいこう。表が出たら君と、裏が出たらグレンと行動するよ。何か、異議はあるかい?」
皆は首を横に振った。それを見て、ノエルは手の甲にかぶせていた右手をどける。彼の手の上に乗ったコインは、裏だった。そっとグレンに目配せし、ノエルはクライドに手を振った。彼らは、正面から見て右側の通路を行くようだ。
クライドはアンソニーを促すと、左の通路を行く。この道の先にどんなことが待っているかなんて、今のクライドには全く見当もつかなかった。しかし、行くしかない。待っているのはハプニングや悲劇ではなく、エディなのだ。
朽ちた床を踏み抜かないように注意しながら、クライドは歩いた。後ろからアンソニーも追ってくるが、まるで酔っ払いのような千鳥足だ。苦笑し、また前を向く。
足を踏み出すたびに木の軋む音が響いた。ここにはもう誰もいないのか、そう思ったときに声がした。
静かに振り返ると、クライドは唇に人差し指を当てる。アンソニーに向かって、『少し黙っていてくれ』と念じた。この言葉が届いたかどうかは解らない。クライドは、そっと折れかけた柱の陰に隠れて様子を窺う。
「……ったく、うるせえガキだなあ。ジェイク、殺しちまってもいいか」
苛々したような声が聞こえた。殺す、という単語に寒気を覚えた。耳を澄ますと、唸る声も聞こえる。きっとエディの声だ。
口を塞がれているのだろうか? くぐもった微かな唸り声のほかには、エディのものと思しき声は聞こえない。アンソニーが息を呑む気配がした。クライドは振り返ると、再び唇に人差し指を当ててみせる。
「愛称で呼ぶなと言っている。そいつは人質だぞ、殺すのは待て。それより、イノセントはどこにいきやがったんだ? ジャスパー」
相変わらず冷酷そうな声が聞こえた。彼らが歩き回っている音がする。木が軋んでいるのだ。
ジャスパーが歩いていたら、きっといつ床が抜けてもおかしくない。思わずクライドは、ジャスパーが床を踏み抜いて地下に落ちるところを想像してしまう。
途端に、物凄い音がした。重量を感じさせる、鈍い音だ。ジェイコブが埃で咽ているのが聞こえる。どうやら魔法が働いてしまったらしい。うかつだった。
「やべっ」
思わず囁くと、アンソニーがくすりと笑った。しかし、ジェイコブとジャスパーは物音をかなり立てているので、クライドたちの声はかき消されて二人には届いていないようだった。
ぎしぎしと木が軋む音がし、それがみしりと折れる音もする。上から埃が降ってきているのか、ジェイコブがしきりに咽る声がした。
「げほっ…… おいっ、ジャスパー! だから痩せろと言っている!」
きっとジェイコブは、床にあいた穴を覗き込んでいるのだろう。その下で呻くジャスパーは、腰を痛めて動けないはずだ。
よし、どうせやるならとことんやってやろう。ジェイコブも落としてしまえ。想像する。ジェイコブが足元をふらつかせ、穴に落ちるところを。
「うわあ!」
情けない声が聞こえた。後ろに居たアンソニーと一緒に、思わず笑ってしまう。よし、突入だ。
アンソニーに向かってひとつ頷くと、クライドは柱の陰から軽やかに躍り出た。