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第二十一話 漁師の暮らし

 知らぬ間に、朝日は朱色を失っていた。船上の拡声器から男の声で祭りの開始が告げられると、船から下りてきたエディの父が近寄ってきてクライドに右手を伸ばした。

「俺は漁師のスタンリー=リンドバーグ。エドウィンの父親だ。お前の名前は?」

 クライドは、伸ばされた右手を軽く握った。筋肉質な上腕に、碇を模った刺青が彫ってある。タイトな黒のタンクトップの張り具合と相まって何だか喧嘩に強そうな感じがするが、話し方や物腰からしてスタンリーは極めて理性的な人間のように思う。

「こちらこそよろしく、俺はクライドっていいます。あっちの二人、金髪のほうがアンソニー、茶髪の方がノエルです」

 名乗りながら握手を終えると、クライドはグレンを振り返った。グレンはクライドと場所を代わり、スタンリーと握手して名乗る。背後では漁船からの荷降ろしが進んでいて、かなり重そうな木箱が何個も手際よく重ねられていく。あれよあれよと言う間に三十箱くらいの木箱が船着場に所狭しと並んだ。最後に降ろした十個の箱だけが、あの派手な大漁旗で包まれている。

「スーさん、全部降りた」

 茶色い短髪の漁師がそう言って、大漁旗で巻かれた箱をぽんぽんと叩いた。スタンリーは彼に手振りで何か指示をし、彼はそれに応えてもう一度船に乗る。

「ハワード、アベルと一緒に右舷の漁具を降ろせ。ジャック! 終わったらスターターをやれ!」

 張りのある声で命じるスタンリーはきっと船長だ。ハワードと呼ばれたのは栗色の波打った髪を肩まで伸ばした軽そうな男で、アベルは背の高い北方系の外国人だった。さっきスタンリーの手振りによる指示で、船にあがっていった茶色の短髪がジャックだ。健康そうな長躯が頼もしい。

「スーさん、そろそろ始めましょうや」

 スタンリーよりもいくつか年上らしい漁師が、そう言ってスタンリーの肩をとんとんと叩いた。この『スーさん』というのは、スタンリーの愛称らしい。この船の漁師たちは皆、彼をスーさんと呼ぶ。何を始めるのか余り良くわかっていないクライドは、灰色の髪を刈り上げたその漁師に声をかける。

「あの、これもし落としたらどうなりますか」

「素潜りで回収だな」

 にやりと笑う漁師は、スタンリーの指示で船の方へ戻った。愛煙家らしく黄ばんだ歯のその漁師は、名前をルイスと呼ばれていた。足が悪いのか、右を少し引きずっている。

 思わず青くなるクライドだが、グレンが声を上げて笑いながら背中を叩いた。

「心配ない、クライド。だって俺の手は万能だろ」

「間違いないな。それじゃ、グレンちょっと前に出ろよ。俺が送ったのに勢いをつけてくれ」

「わかった」

 そんなやり取りをしていると、どうやら準備が整ったようだ。船の上で、拡声器を持ったジャックが楽しそうにマイクテストをしている。キィン、とハウリングの音が耳を刺す。グレンと目を見合わせて苦笑すると、ジャックが豊漁祭の開始を告げた。

「アンシェントからやってきた旅人たちと共に、この海の恵みを分かち合おう! ヤイラ!」

 ヤイラ! と野太い声で漁師たちが応じる。スタンリーに目配せをされたので、クライドは最初の木箱を押し出す。思いのほか進まなくてグレンに笑われて、彼の見えない手が勢いをつけて木箱を押しやった。

 漁師たちは漁具を手に、民謡のようなリズムの歌を歌っている。歌詞のところどころに先ほどのヤイラが出てきたが、歌詞の内容からすると古来の漁師が網を手繰るのに使った掛け声らしい。

 グレンはワンフレーズ聞いただけで一緒にその歌を歌いだし、クライドは仕方ないので掛け声だけ上げた。知らない歌を一発で歌えないし、たとえ覚えたとしても音痴なので人前で歌える自信はない。

 ただ、何となくこの掛け声を口にしていたら楽しくなってきた。先ほどよりも木箱を流すのが上手くなり、クライドはグレンの手を借りなくても木箱を港まで送れるようになっていた。最後の一つはクライドが流す。

 桟橋の向こうでは、ノエルとアンソニーが大漁旗を拡げて漁師たちと例の歌を歌っていた。ノエルが人前で歌うのは珍しいが、張りのある綺麗な声だ。アンソニーは音程をかなり外していたが、楽しそうなので気にならない。

「よし、じゃ向こうに合流だ。ご苦労さん、いい掛け声だった」

 スタンリーにぽんと肩を叩かれて、クライドは少し照れて笑った。グレンは伸びやかに歌いながらクライドの前を歩き、足取りも軽く桟橋を渡って行く。早速魚の分配は始まっていて、集まっていた人々はノエルとアンソニーの前に列を作っていた。クライドとグレンも二人の間に立って、魚の袋詰めを手伝う。跳ねた魚のうろこを浴びて、やや生臭くなったのが気になる。アンソニーは肩口で頬を擦りながら、恰幅の良い婦人に活きのいい大きな鯛を渡していた。

 隣のレーンで見物客の対応をしつつ、ノエルが外国語で会話をしているのを聞いてクライドは感心した。彼の話し相手は、さっきの外国人漁師のアベルだ。癖が強くてトーンの明るい茶髪が目立つ。北方出身らしい色白の肌と緑色の目なので、ノエルと同じジュノアの血を引いているのかもしれない。アベルはここにいる漁師の中で一番背が高かった。

 日焼けした顔に楽しそうな笑みを浮かべ、アベルはノエルの肩を抱き寄せる。身長差がありすぎてノエルが支えきれず、二人はもろともよろけていた。魚を手放しそうになったノエルを慌ててグレンが見えない手で掴み、何とか事なきを得る。

「凄いな、えっ? ノエルは大卒なんだろう? しかもこの国で最年少の」

 ジャックがクライドに話しかけてきた。スタンリーいわく、ジャックはあまり頭のいいほうではないが、潮目を読むのが得意で直感力に優れた漁師らしい。彼もアベルほどではないが背が高く、一人だけ赤いTシャツを着ている。袖から傷跡のようなものが覗いているので、それを気にしてTシャツを選んでいるのかもしれない。

「そうだよ。確か、五カ国語がわかるんだって。今も新しい言葉を勉強中だし」

 肩を竦めながら、クライドは言った。そうしながら並んでいる人が差し出した袋に魚をつめて渡す。額に汗が滲んだが生臭い手で拭うわけにはいかなくて、アンソニーと同じように肩口から二の腕のあたりで無理矢理拭う。

「俺たちには縁のない話だな」

 そういって苦笑するのは、長髪のハワードだ。派手な迷彩柄のタンクトップから覗く右腕に、まだ新しい傷跡が見えた。聞くところによると、彼は成績不良で単位が取れずに高校を中退し、家業の漁師を継いだのだという。腕の傷跡は、暴れる大魚を後先考えずに素手で押さえ込みに行ったときのものらしい。

「たちってなんだ、たちって。スーさんを俺たちと同類にしちゃあいけねえ」

 足を引きずりながら、ルイスが歩いてくる。転びそうで心配だが、その心配は杞憂に終わった。足を悪くしてから長いのか、もうこうやって足を引きずって歩くのにもなれているらしい。

 ハワードはふん、と鼻を鳴らした。いかにも不機嫌そうである。軽薄なハワードと真面目なルイスは犬猿の仲なのだと、ジャックにこそっと耳打ちされた。

「いいか、クライド。スーさんは若い頃、ちゃんと大学までいったんだぞ。だけどなあ、スーさんは『子供の頃から漁師になるのが夢だった』って言って折角舞い込んだ良い就職話だって蹴ったんだ。大学教授になれたのに」

「こいつの話なんて真面目に聞く必要ないぞ、クライド。ボケていやがるからな。こういう話はスーさんに直接聞いた方が早い。スーさんへのスカウトは大学教授じゃなくて、国立水産試験所の研究室だ」

「クライド、こいつは昔っから性格が捻じ曲がってるんだ。何が良くてスーさんがこいつを拾ったのかわからん」

「なんだと! この老いぼれが! お前こそ何でここに置いてもらえているのかわからねえよ、足もろくに動かないくせに」

 激しくなった口論にクライドが辟易していると、慣れた手つきでジャックがハワードを羽交い絞めにする。仲裁の役目はいつもジャックが担っているのだろう。下がっているよう言われたので、これ幸いとクライドは漁師たちの間から抜け出してグレンのところまで下がる。丁度魚も少なくなっていたし、あとは漁師にまかせよう。アンソニーの肩をとんと叩いて、その場から離れてノエルの方を手伝うよう言った。アンソニーは頷いて、こそっと列を離れてノエルのところに移動した。

「老いぼれだと?  能無しの若造ごときが何を言う! 網を傷める手繰り方しかできやしない! 学習能力が足らん!」

 ルイスが怒鳴った。それにより、ハワードはもっとヒートアップした。もう手のつけようが無い状況だ。

 誰かがそっとクライドの腕を掴んだ。見ると、グレンが肩をすくめて首を横に振った。関わるなと言いたいようだ。素直に従う事にして、クライドはグレンと一緒に別の漁師がいるところへ向った。

 魚の受け渡しをしていた場所では、まだ怒号が飛び交っている。それを宥めるジャックの声も聞こえた。ジェシーは完全にかかわらない事にしているらしく、一人で悠々とミネラルウォーターを飲んでいた。赤いタオルで口許を拭い、ミネラルウォーターを地面に置いたジェシーは、二人の喧嘩の様子を見て半眼で肩を竦めた。そちらの列では魚の分配は全く出来ていない状態だったから、ノエルとアンソニーの列に人が移っていく。だが、二人の持っている魚は全て終わってしまったようだ。二人もそそくさと箱を畳み、あの場から離れようとしている。そのときだった。

「ええい、うるさい!  喧嘩なら外でやれ、ここは俺たちの神聖な仕事場だ!」

 一瞬、港がしんとした。よく通る怒号が雷のように空気を切り裂き、クライドは肩を跳ね上がらせる。怒鳴ったのは船長のスタンリーで、彼の剃りこみが入ったこめかみの辺りに青筋がくっきり浮いているのが見える。言い合いをしていた二人は素直にスタンリーに対して謝ったが、気を抜いてジャックが羽交い締めを解いた瞬間にハワードはルイスの不自由な右足を狙って足を引っ掛ける。それを見てジャックは怒鳴り、ルイスは転んで海に落ちそうになり、一瞬の静けさは争いによって掻き消える。

 かなり深刻そうな喧嘩なので自分も何かしたほうがいいのだろうかと思ったが、駆け寄ってきたエディが怯えた様子でクライドのシャツの裾を握って震えるのでそちらを見下ろす。

「ね、みんな、先にお祭り行こう! パパ、怒ると怖いんだ!」

 ともすれば泣きそうな顔で、エディは街の方を指差した。まだノエルが合流していないため、クライドは心配に思って辺りを見回した。すると、桟橋付近で今度は外国人漁師のアベルが喧嘩に加わっているのを見つけた。ノエルは、彼の通訳をやっているようだ。

 無益な争いは好まない上に、喧嘩なんてしない主義を貫いているはずの彼が喧嘩に加わっているのは不可解だ。しかし、彼の訳文をよく聴いてみると真相が見えた。アベルは物凄い形相で叫んでいるのに、ノエルはとても冷静な内容を皆に伝えている。

――嫌いなら放っておけばいい。関わるな。二人はお互いを、同じ低さに貶めあっているだけだ。

 わざとアベルの言葉を冷静な言葉に訳しているようだ、凄いことをする。これにより、喧嘩は一旦収束したようだった。

「すっごい。ノエル、大活躍だね」

 アンソニーが感心しながら言った。それには、クライドも同感だった。平和的解決の方法として敢えて間違った訳を伝える機転もすごいが、屈強な男たちが本気で怒って殴りあいや掴み合いをしている現場に飛び込んでいく勇気はもっとすごい。なおかつ、そこで顔色一つ変えずに堂々と背筋を張って立っているのだからノエルは相当度胸がある。

「ごめん、クライド!  先に行ってくれないかい?」

 港の桟橋からノエルが叫んだ。もう暫く仲裁の立場を続けるようだ。クライドも返事を叫び返し、アンソニーやエディ、グレンと一緒に豊漁祭に出かけた。

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