第十八話 悪夢の終り
ハンモックで眠るクライドたちを照らす月光は、いつのまにか陽光に代わっていた。クライドは小鳥の鳴声で目を覚ます。ハンモックのいいところは、日の出と共に勝手に目覚められるところだ。
森林の空気はとても綺麗で、思いっきり深呼吸したくなるような清々しさに満ちていた。タオルケットを体からどかし、クライドは朝の森林を眺め回す。見たところ、特に異常は無い。
隣のハンモックではグレンがまだ眠っていた。とても優しそうで、気持ちよさそうな寝顔を浮かべている。起こすのは忍びないので、まずはノエルとアンソニーの無事を一人で確認しに行くことにした。ゆっくりと木を降りて、晴天の日差しが振り注ぐ芝の上を歩く。
昨夜燃えていた焚き火は既に鎮火していた。火が燃えていた場所には真っ黒く燃えた炭が積み重なっているだけだった。昨日熊が倒れていた辺りには、広範囲にわたって土を掘り返したかのような後がある。しかし獣に荒らされた痕跡は見当たらないので、心配していた襲撃はなかたようだ。
ほっとして顔を上げると、焚き火の跡の近くに微笑を浮かべたノエルがいた。今しがた、テントから出てきたようだ。手には、ステンレス製のカップを持っている。中身はきっと、苦いブラックコーヒーだろう。
「おはよう、クライド」
柔らかな笑みを浮かべ、ノエルはクライドを見あげている。それをみて、クライドも微笑み返す。挨拶を返しながら、そっとテントを見やった。
「熊は?」
「土に還した。バクテリアの力も借りたおかげでひどい臭いだったから、君たちはいなくて正解だったよ」
ノエルの分子構造変化の魔法は、彼自身の科学の知識によって無限に活用されていくのだろうとクライドは思った。本当に凄いことをやってくれた。丁寧に礼を言えば、ノエルは謙遜して照れたように笑った。
「トニーはあの後大丈夫だったのか」
「しばらくパニックに陥ったあと、疲れて寝たよ。さっきまで魘されていたけど、今は落ち着いて寝ているみたい。そっちはどうだい?」
「グレンは俺と違って立ち直り早いから、問題ないと思う」
その言葉にノエルも笑った。どちらかというとノエルも引きずるタイプだと思うから、半分自虐の笑いかもしれない。アンソニーが無事にちゃんと寝付けたことに安心して、クライドは本格的にこの拠点に戻るための準備をすることにした。
「ハンモック片付けてくる、また後で」
ノエルに向かってそう告げると、クライドは森の方へ向かう。小走りになると草についた朝露が跳ね返って脚にかかる。少し眉を顰めるが、クライドは止まらずに走った。
やがて先ほどの木の下に辿り着くと、吊るされたハンモックの上でグレンが寝返りを打つのが見えた。一瞬落ちるかと思って、ひやりとした。自分より体の大きいグレンが高所からGを伴って落下してきた場合、下でキャッチするのはクライドには無理だと思う。たとえエルフの運動能力によって正確にグレンの身体を抱きとめたとしても、クライドには彼ほどの筋力が無い。
クライドは木に登って、自分が寝ていたハンモックを木から外す作業に移る。ロープの結び目は固く、思った以上に解けにくかった。
苦戦しながらそれを解こうとした時、クライドは誤って両手を木から離してしまった。そして、気づいたら身体が頭を下にして加速感を感じていた。頭の中は真っ白になり、クライドは思わずきつく目を閉じる。
だが、次の瞬間。クライドは、ちゃんと地面に両足で立っていた。
一瞬何が起きたのか自分でも解らなかったが、気づいたときため息が出た。普通の人間なら首の骨でも折って死んでいただろうと思われる結構な高さだ。なのに、自分は助かった。頭から落ちたのにもかかわらず、傷ひとつなく両足で着地できたのだ。これは、エルフの血による並外れた運動能力が無意識にもたらした結果だ。
助かった事は大いに嬉しいが、すぐ上で寝ているグレンは人間だ。彼と自分は別の生物なのである。もしもハンモックのロープが切れて木から落ちるようなことがあったら、きっと彼は大怪我を負うだろう。死ぬことだってあり得る。
何もグレンに限ったことではない。ノエルやアンソニーだって人間だ。自分は人間ではなく、人間のかたちをした別の生き物だ。だからといってエルフに受け入れてもらえるわけでもない、はみ出し者なのだ。
半分だけ人間でも、完全な人間ではないから今のように妖精のずば抜けた運動能力を使える。この力を無意識に使えるということ自体が、自分と親友たちの間に壁を隔てていた。
少し悲しい気分になった。しかし、悲しみを振り払ってまた木に登った。悲しんでいても事態が変わるわけではない。事態が変わっても根本的には何の解決にもならない。
盗られた鐘を取り戻すためには、エルフのこの血が必要なのだ。自分が人間でないと言うことが重要だなんて、皮肉な考えだと今更ながら思う。
今度は絶対に手を離さないように細心の注意を払いながら、クライドは慎重にロープを解こうとした。結び目に爪を立て、つまんだり引っ張ったりして何とか外そうと頑張ってみる。
「外れないだろ、それ」
いきなり声を掛けられて驚いたが、何とか落ちずにクライドは振り返った。すると、グレンがもう起きていて、ハンモックの上からこちらを笑顔で見つめていた。凄いだろ、とでも言いたげな顔だ。
何故か対抗心が湧いてきた。いつも以上に真剣に集中して指先に力を込めるが、一向に結び目は緩まない。
そうか、解けにくいように結び方を変えてあるのか。どうりで解けないわけだ、と思ったクライドは解こうとするのをやめ、ハンモックの上に乗った。お手上げだ、と身振りで示してみる。
「あはは、あとで解いてやるから待ってろ!」
降参したクライドを見て、グレンはハンモックの上で長い腕をぴんと伸ばして伸びをした。そして、そこから飛び降りた。クライドは目を疑った。この高さから飛び降りるなんて、一歩間違ったら二度と目を開けられなくなる。
心配したが、グレンは両足と右手で着地した。ちょうど跪くような格好で、こちらを見上げて笑っているグレン。一瞬唖然としたが、グレンが怪我をしていないのを見て安心した。まあ、グレンのことだ。怪我をすることを解っていながら、彼があんなに何気ない動作で飛び降りたりするはずが無いだろうと思っていたし、そんなにやわな男ではないということもクライドはちゃんと知っている。
「どうだ、クライド。ちょっと待ってろ」
得意げにそういうと、グレンは再び木に登って無造作にロープの結び目に手をやった。そして少しだけ手を動かすと、悪戯っぽく笑う。
クライドがどんなに頑張って解こうとしても絶対に解けなかった結び目は、グレンの手によってまるで花の蕾のように柔らかくほどけてしまった。腑に落ちない気分で、クライドはグレンを見上げていた。
グレンは得意げに笑いながら、見えない魔法の手を使って隣のハンモックの結び目を外している。彼が解くととても簡単そうに見えるのだが、いざやってみると絶対に解けない頑丈な結び方だ。
「特殊な結び方なんだ。考案したのは俺。よーし、ハンモックも外した事だし“アニー”たちのところに戻ろうか!」
木から外したハンモックを両腕に巻きつけるように抱えて、グレンは森を後にする。その後姿を追いかけながら、クライドは一度森を振り返る。若木と木漏れ日が何とも綺麗だ。
あの現場ではいたって冷静だったクライドだが、やはり思うところはあった。無理に元気を繕っているとまではいかないが、本当は浮かない気分に悩まされている。あの場でグレンの拳銃が、クライドのこめかみを打ち抜いていたらどうなっていただろう。クライドのように想像で仲間を癒せないグレンやアンソニーは絶望し、ノエルはグレンの言ったとおり、医学の知識を持っているのに何もできない自分を責めるだろう。そして熊は上手く捕らえられず、三人を襲ったかもしれなかった。全員が無傷で無事なのは、本当にたまたま運が良かっただけだ。
この旅は正直なところ、いつ終わるのかが全く分からない。ジャスパーとジェイコブを捕らえ、鐘を取り戻せるかどうかだって怪しい。相手はクライドたちよりもずっと長い間、魔法を使い慣れてきた魔道士たちだ。数がいれば勝てるという保証は無い。大義のためにと自分を鼓舞して考えないようにしていたが、シェリーにも言われた通り計画性が足りなかったのを痛感している。とはいえもう、後戻りはできない。
考えがどんどんひねくれてきて、クライドは大きく溜息をつく。そして無理矢理顔を上げ、青い雲ひとつない空を見た。ダメだ、思考が後ろ向きになり始めた。
もしもなんて、考えたって始まらない。時は戻せないし、進められもしないのだから。いくら悩んでも、どれだけ心の中で葛藤しても、過去にもう起きてしまったことは絶対に変えられない。ならば何も考えずに、なりふり構わず突っ走ればいい。後の事なんて、今から気にしたってどうにもならない。考えたって仕方ないし、クライドの場合は考えてしまうことでそれをある程度は現実にする力を持っているのだ。
「遅いぜ、クライド!」
テントの方でグレンが呼んでいた。朝の日差しを受け、長い真っ直ぐな金髪が軽やかに艶を纏う。その真っ直ぐな髪が羨ましいと、跳ねた髪を撫で付けながら思うことでマイナス思考を振り払う。
頭上を数羽の鳥が通り過ぎていく。顔を上げて鳥の行方を見送ると、太陽がまぶしくて目が眩んだ。
「トニーは?」
辺りを見回しながらクライドは問う。彼はまだ眠っているのかもしれない。クライドの様子に気づいたノエルが眼鏡をとり、それを服の裾で拭いながらこちらを向いた。綺麗に拭いた眼鏡を掛けなおし、ノエルはクライドを凝視する。なかなかピントが合わないようだ。
「起きてるよ。でも、ちょっとぼんやりしているみたい」
やっとピントが合ったのか、目を細め、ノエルは二度ほど瞬きをしながら答えた。クライドはテントの中を覗いてみた。斜め上を見上げて胡坐をかいたアンソニーが居た。こんなだらけた格好は、本来のアンソニーには似合わないはずのものだった。
「……おはよう?」
クライドの声に、虚ろな目をしたアンソニーが振り向いてぴくりと眉を動かした。かと思えば、彼の虚ろな目に見る見る涙が浮かんでくる。
「クライド…… よかった、クライド、ちゃんと生きてる」
大粒の涙が彼のそばかすをなぞって零れ落ちる。クライドはどきりとして、アンソニーの隣に腰を下ろす。
「大丈夫だ。熊はちゃんと仕留めた」
「そうじゃないんだ、ねえクライド、僕の目の届くところからいなくならないで。お願い」
クライドのよれたTシャツに縋り、アンソニーは俯いて尚も涙をこぼす。昨日ほどの混乱は見受けられないが、深く傷ついている様子だ。クライドのTシャツを握り締めるアンソニーの手には、震えるほど力が入っていた。
「おいおい、どうした」
「だって昨日、クライドもグレンも、一晩中いなかったから…… 僕、怖かったんだ」
かといってあのショックを受けたグレンをアンソニーと同じ空間におくわけにはいかなかったのだから、仕方ない。大人数で傍にいてやったほうがよかったのかもしれないが、グレンにだってケアが必要だった。ノエルがいたのだから、と言おうとしたが、アンソニーは涙で濡れた顔をこちらに向けた。大きな空色の双眸がこちらをしっかり捉えている。クライドは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「見えちゃうんだよ、クライド。僕にはみんながどうしているか、わかっちゃうんだ。この魔法の目で、壁の向こうも、暗闇も、未来だって少し見える。手の届かないところで、大怪我して、僕の知らないところで死んじゃったら、僕はそれをただ黙って見ているしかないんだ」
涙を溜めた青い目を、クライドは真っ直ぐに見つめ返す。彼の不安の源が、仲間への不信でなかったことに安堵した。アンソニーは小さな肩を丸め、鼻をすすりながら手の甲で乱暴に涙を拭っている。クライドは彼のくるくるした柔らかい金髪を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「それじゃ、昨日俺たちがぐっすりハンモックで寝ているところも見えただろ。ノエルがテントの外で火の番をしてくれているのだって」
「そう、だけど」
「トニーはその視力で、俺たちを危険から護ってくれ。俺はトニーを想像で助けるよ。何があったって、俺は誰も死なせない。約束する」
そう言って、クライドはトニーの両肩に手を置いた。そのまま、ぽんぽんと二、三度叩いてやる。クライドなりの励ましだ。それによってどうにか笑顔を繕えたようで、アンソニーは服の袖で涙を拭った。
あまりこうしていては、山道の途中で寝ることになってしまう。テントを出ながらクライドはアンソニーの背中を撫で、元気付けるために例の罰ゲームを執行する。
「さあ『アニー』、テントたたむぞ!」
「ちょっと、それやめてよ!」
赤くなった目を押さえていたアンソニーは、クライドに続いて笑いながらテントから出る。すると、穏やかに笑んだノエルがやってきて、全員の荷物をテントから出した。グレンが手伝うのだが、アンソニーの隣を通るたびに良い声で『アニーちゃん……』と囁くので全員で腹を抱えて笑った。テントの解体も協力して済ませ、大荷物は全部グレンが持つことにして一行は下山を開始する。