第十三話 別れの朝
小鳥の鳴く声が聞こえ始めてきた。窓からは蒼い月明かりではなく黄金の朝日が差し込んでいる。眩しすぎてクライドは目を覚ました。ああ、よく寝た。
金色に輝く朝日の中に、木々の緑が見える。開け放たれた窓から吹く風は、春ではなく初夏の匂いだ。もうこんな季節か、と感じずにはいられない。
「おはよう、クライド」
ベッドの上で季節を感じていたクライドをみて、微笑みながらノエルが歩いてくる。クライドよりも早起きをしていたようだ。彼の髪には寝癖などついておらず、服もちゃんと糊がきいた真っ白なワイシャツだった。これから山を越えに行くというのに。
「おはよ、ノエル。よく寝れた?」
ベッドから降りながら、クライドはそう言った。ノエルはいつもどおり分厚い眼鏡をして分厚い本を抱えて笑っている。もうアンソニーに眼鏡を貸す必要はないらしい。
「問題ないよ。クライド、体調はもう大丈夫かい?」
「すっかり治った、もう大丈夫」
今度こそ山の中で見せた強がりの笑みでなく、本当に心から笑って見せた。その笑みを見て、ノエルも安心したようだ。
傍のソファでは、相変わらずグレンが寝ている。幸せそうな寝顔だ。彼の寝顔を見つめながら、クライドはふと何かを思い浮かべてすぐ忘れた。一体どんなことを思ってどんなことを忘れたのかと真剣に悩んでいると、やたらに明るい声が後ろから聞こえてくる。
「おっはよう! クライド、ノエル、今日の僕って早起きだと思わない?」
何だかとてもテンションが高いアンソニーだ。何事かと思い、クライドは悩むのを中断する。いつもは朝が弱いはずのアンソニーが、今日はやけに早起きだ。現在の時刻は朝の七時だが、いつものアンソニーだったらきっと八時近くまでぐっすり寝ている。
「そうだな、早起きだ」
肯定の言葉を返し、クライドは大きく伸びをした。そして、首の骨をこきっと鳴らす。今日も山歩きだ。今から出るとなると、昼までに頂上につけるかどうか大いに危ぶまれる。少しばかり寝坊したか、と思ってクライドは立ち上がった。シェリーとグレンがまだ寝ているが、なるべく早く支度をしなければ。
「あ、グレンおきた」
アンソニーの声がした。振り返ると、グレンがソファから顔を上げてその金髪を手櫛で梳いているところだった。つやのある長い金髪が、グレンの手の動きにあわせてさらさらとゆれている。
ハイテンションのアンソニーとは対照的に、グレンは朝から不機嫌そうだった。寝起きのグレンはいつもそうで、泊まりに行った時にあまりのテンションの低さに喧嘩になったことがある。
「いてて……」
どうやら寝違えたらしく、首に痛みを感じるらしい。しきりに首を捻って、どうにか首の痛みを抑えようとするグレン。グレンはクライドたちに見下ろされているのに気づいて、決まり悪そうに呟く。
「おはよう、皆」
クライドは、笑顔で返事を返した。気分の良い朝だ。何だか、今日一日は何の苦労もない気さえする。しばらく談笑していると、声がうるさかったのかノエルが寝ていた部屋のほうから物音がした。シェリーを起こしてしまったらしい。
「ああ、もう皆おきてたんだ?」
背後から、少し慌てたような彼女の声が聞こえる。苦笑するクライドの隣で、グレンはアンソニーを使役して作ってもらった濡れタオルで顔を拭いていた。エルフの水道はどちらかというと給水機に近い構造で、二十リットルぐらい入りそうな水晶製のタンクの下に栓がしてある。そこへどうやって井戸水を汲んでくるのかは不明だが、台所の窓からは井戸が見えるのであの水がここに入っているのだろう。
「シェリー、おはよう」
タオルから顔を上げると、グレンはにっこり笑ってそう挨拶した。彼に挨拶を返しながら微笑むシェリー。昨日とは比べ物にならないほどの柔らかな表情と、血色を帯びた頬に本人は気づいているのだろうか?
それぞれがシェリーに朝の挨拶をし、一同は和やかな雰囲気になった。
「よく眠れたかい?」
優しい声でノエルは言う。静かで、ただ穏やかな声だ。やはりノエルのこの声やしゃべり方は、アンソニーなどと比べるととても大人っぽく聞こえる。実はこの声には、癒しの効果があるのではないかとクライドは思った。
シェリーが穏やかに笑んで、ノエルのほうを見ていた。だいぶ柔らかくなった笑みは最初の冷たい印象を拭うのに十分で、彼女はとても知的で優しそうな女の子に見える。
「おかげさまで。独りじゃないって思ったら、いつもよりよく眠れた」
「それ問題なんじゃないのか、ドア一枚隔てて男四人だぞ」
クライドなら思っても口に出せない話題に、グレンは果敢に突っ込んで行った。思わずノエルと目を見合せる。
年頃の女の子(十四歳は年頃と言えるか微妙だが)の家に、少年と言える年齢であれど男が複数で泊まるなんて普通は倫理的によくない。昨日は貧血でそれどころではなかったので甘えさせてもらったが、体力全快状態だったらクライドは遠慮して絶対に泊まることはしなかった。緊急事態を除いて、付き合っていない女の子と同じ部屋で寝るようなことはあってはいけないことだと思っている。
「忘れたの、あたしにはあんたたちの過去全部がわかるんだ。アンソニーとノエルには完全に友達として大事にされているし、クライドだって血の繋がった家族みたいに思ってくれている。あんたの過去だって見えてるよ、心配ありがとう」
そうだった、彼女には全て見透かされているのだ。クライドが気を遣ったことも、女の子の家に泊まるのが気まずいと思っていることも、シェリーは分かっているのだ。全てシェリーに伝わっているというのは少し恥ずかしい気もするが、言いたくないことも言えないことも彼女にだけは分かっていると思えるのは気楽だった。これからクライドのことを一番よく知る友達は、きっとシェリーになる。
「あ、そ…… なんか改めてそう言われると恥ずかしいな」
グレンは少し照れた様子で斜め下を見やった。彼が殊勝に照れているところなんて滅多に見られるものではない。赤い長い髪を胸元辺りでいじりながら、シェリーはいたずらっぽく笑う。
「ちょっと殴りたくなるようなこともいっぱい思っていたから、怒ろうと思ったけど…… 今日のところは許してやる、勝手に見たのはあたしだから」
グレンは人をからかうのが楽しくてしょうがない男なのだから、シェリーが怒りそうなどんなことを考えているのか想像に難くなかった。アンソニーと顔を見合わせて忍び笑いする。
「本当に武器だな、その力。お前に怒られそうなことって十個ぐらい心当たりあるけど、全部?」
「もっと。二十個はあった」
「何だよそれ。どれだよ…… ま、何にせよ言わないで我慢してたんだ。褒めろよ、俺もちゃんと紳士だろ」
無駄に胸を張るグレンをみて、シェリーはふふっと拭き出した。楽しそうな横顔に、クライドは完全に恋を悟った。そしてそんなシェリーを見守るように、グレンがまっすぐな視線を愛しげに向けていることで、全てを理解した。胸の奥が暖まる。意外なようでいて、この二人の組み合わせはしっくりきた。
「残念だけど、この力がある限りあんたを黙って紳士だって思ってあげられないみたい。換えられるなら、あんたの手と取り替えて欲しい」
「そうだな。代われるもんなら、代わってやりたい。たまに辛くて泣きそうだろ」
言葉の応酬が途切れた。グレンは黙って微笑んで、シェリーを見ていた。シェリーは銀色の潤んだ目を伏せて、泣きそうな顔で微笑んだ。ああ、泣いてしまう。そう思ったクライドは、泣き顔を見られたくないであろうシェリーを思って、言いたくない言葉を口に出した。
「そろそろ、出発しようか」
シェリーは優しい。優しいから、いつまでだってここに置いてくれるだろう。このまま長居するとどんどん離れられなくなる。仲間たちを見れば、グレンは頷いたし、真っ先に嫌がるだろうと思ったアンソニーも納得してくれた。ずっと俯いていたノエルだが、クライドの視線に気づくと顔を上げて優しく微笑んだ。
「うん、行こう」
もしかすると拒否されるのではないかと思っていたが、そうでもなかったようだ。クライドは安堵して、服の襟を整えた。ノエルの肯定の言葉に真っ先に反応したグレンは、ショルダーバッグを肩にかけて自分が寝ていたソファを少し整えている。やがてアンソニーに声をかけられたグレンは、バッグを置いてアンソニーの荷物をつめるのを手伝いに行った。
その様子を、シェリーが名残惜しげに眺めていた。クライドはそんなシェリーを見て、少し不安になる。勇気付けてやろうと思い、物思いに耽るシェリーの肩にそっと手を載せた。
「何か相談したいことがあったら、いつでも俺に言えよ。あいつのこととか」
泣きそうだったシェリーは驚いたように目を見開いて、小声でクライドの耳元に囁く。
「ひょっとして、あんたもあたしの過去が読めるようになったの」
「違う、シェリーはめちゃくちゃ分かりやすいんだ」
「最低」
照れ隠しと思われる拳骨を横っ腹に食らった。クライドは笑いながら、シェリーの肩をぽんと叩いた。
彼女を連れて行ってしまいたい気持ちは大いにあったが、これから山を越えるのだ。テントも一つしかない。女の子であるシェリーはきっと嫌がるだろうし、クライドもそんな環境でシェリーに大変な思いをさせたくなかった。それに、エルフなのだ。魔力のある人にしか姿が見えないと、シェリーは言っていた。
「俺もいっぱい魔法勉強して、シェリーに連絡できるようになるよ。待ってて」
「うん」
シェリーは頷いたが、寂しそうだった。いろいろな意味で、シェリーとクライドは似ている。ちゃんとした魔法が使えるのにエルフではないクライドと、他人と同じ魔法が使えないから仲間からはエルフだと思われていないシェリー。どうしたって親近感は沸いた。クライドだって、別れるのは辛い。ほんのひととき一緒にいただけなのに、彼女のことを血の繋がった家族のように思っていた。
二人が雑談している間に、もう他のメンバーたちは荷造りを終えてしんみりしていた。時刻は七時四十分になる。そろそろ出発のときだ。
「シェリー、行ってくる。また会おうな、絶対だ!」
クライドは、名残惜しい気持ちを断って自分の荷物を持ち上げた。黙って頷き、微笑んだシェリー。だが、その後シェリーが微かに悲しそうな顔をしたのをクライドは見逃さなかった。その表情は一瞬で消えたが、クライドの記憶にはしっかりと残った。
「海の見える町、ついたら連絡するからね!」
いつの間にか戻ってきていたアンソニーは、とびきりの笑顔を見せる。シェリーは頷いて、笑みをつくろった。作り笑いだというのが完全にわかるほどの、笑みとは呼べない表情だ。それを見たノエルは、シェリーを見下ろして微笑む。安心感を与えようとしているのだろうか。
「ねえごめん、みんな。ちょっと待って」
シェリーに別れの言葉を告げるかと思いきや、ノエルは玄関に向かう三人の方を振り返る。そして、真面目な顔ではっきりとこう言った。
「やっぱり僕は昨日の意見を変えないよ。シェリーもついてくればいいと思う」
驚いたように目を開いて黙り込むシェリー。クライドも驚いていた。
クライドが寝ている間に、ノエルたちはシェリーをここから連れ出そうとしていたのか。女の子に危険な旅をさせることに気が引けてクライドは誘わなかったのだが、もしもシェリーがついて来たいと言ってくれるというのなら歓迎だ。
「君が仲間だと、とても助かるからね。この先クライドがまた貧血を起こしても、君なら特効薬をつくれるし。僕らとおいでよ、シェリー。寝食の問題は知恵さえ働かせればこれからどうにだってなる」
しかし、年頃の女の子を男四人と雑魚寝させるのはどうしたって倫理的によろしくない。これからトイレもお風呂も無い山を延々と歩かなくてはならないのだし、シェリーが即答で頷かないのももっともだった。
「ねえクライド、君の魔法で何だって創れるんだ。テントを一個増やすぐらい、彼女の力を借りれば問題ないと思うんだけど。山の中に温泉が湧く想像をしたって、あの薬できっと大事にはならない。シェリーをここで、また独りにしたくない」
説得するようなノエルの言葉に、シェリーが困惑したように目を伏せる。ノエルの案にクライドも賛成だった。そうだ、クライドは魔法が使える。不可能なことなんてない。血の力が有限だとしても、エルフのシェリーが薬を分けてくれさえすれば、彼女のための旅支度を作ることぐらい朝飯前だろう。クライドも、それ以外の皆も、視線で来いと言っていた。
暫くシェリーは悩んでいる様子だった。心の中で葛藤しているようだ。やがてぎこちなく笑って、シェリーはクライド達の方を見た。
「ごめん、やっぱりあたしは行かない。行けないんだ。だって、あたしは弱いから……」
最後のほうは言葉になっていなかった。別れを悲しんでくれていることは大いに伝わったし、自分の非力を受け止めての決断だということはその震えた声を聞けば分かった。
涙をこらえて笑ってみせるシェリー。その痛々しい笑みに気づいていない者はいなかった。それまで黙っていたグレンが、泣きそうな彼女を見てやっと口を開く。
「お前は弱くなんかないよ」
たった一言で十分だった。この一言で全てが伝わった。少なくとも、クライドはそう思った。シェリーはグレンたちが自分を仲間に加えたいと思っているという事をしっかり悟ったはずだ。そして、彼の過去を読んでどんな気持ちで今の言葉を発したかだってわかっただろう。だが、結局ついてこないという意見が覆ることは無かった。
「あたしには、ここで整理したいことがたくさんあるから。今ここで皆に甘えたら、あたしは何も変われない」
あきれるほど自分に厳しい女の子だ。ここにいればエルフたちに疎まれ、ずっと独りでいなければならないというのに。それでも頑固に、彼女は強くなるまでは一緒に行けないと言い張る。
アンソニーが悲しげに俯いた。ノエルも、やりきれない表情を浮かべて目を伏せる。グレンが何か言おうと口を開いたとき、シェリーはそのタイミングを奪うように彼に話しかける。いや、奪うように、ではなくて奪ったのだ。彼女はグレンが何を言いたいか、どう考えたかを彼の過去としてちゃんと見ている。
「何かあったら呼んで。これを使えば傍に行けるから」
そう言って、シェリーはグレンに何かを渡した。咄嗟に、クライドはそれを凝視する。それは水晶の勾玉のようだった。何か文字が刻んである。色や形、刻んである文字こそ違うが、それはクライドが父から貰ったお守りと同じようだったのだ。
「な、なあシェリー! これって」
何かあったら呼ぶための道具。もしそうなのだとすれば、クライドはこれを使っていつでも好きなときに父を呼び出すことができるのだ。ある種の興奮と緊張を覚えた。慌てふためいたクライドを静かにじっと見て、シェリーは説明を始めた。
「“お守り”だ。エルフは一生のうちに一人の相手にだけ、このお守りを与えることができる。この水晶があれば、あたしはいつでもあんたたちの傍にこられるよ。困った事があったら使え。ただし、一度使うごとに割れやすくなるから気をつけろ。あまりに遠いとか、魔力に阻まれているとか、そういう条件で使うと完全に粉々になっちゃうこともある」
その一生にひとつしか作ることができないという大切なお守りを渡す相手に、シェリーはグレンを選んだのだ。なんだかクライドまで嬉しかった。差し出されたその水晶を静かに受け取ると、グレンは微笑んだ。一瞬だけたじろいだが、シェリーも微笑み返した。今度こそ、痛々しくない笑みだ。
……はっとする。二人のやり取りに見とれている場合ではない。クライドは水晶の使い方について質問しようとして口を開きかけるが、それはシェリーに制された。
「使い方を教える。ここに刻まれた文字は呪文なんだ。あたしが最初にかけてやった魔法、覚えてるか? 暗いところでも目が見えるようにする魔法だ。あれをかけたときにあたしが唱えた呪文と、使っている言語は同じ。エルフの言語だ。でも、本当に呼び出したいと思わない限り呪文は発動しない」
納得するクライド。そうか、あの唄の正体は呪文だったのか。シェリーは静かにクライドに歩み寄ってきた。そして、クライドの胸元からあのお守りをそっと抜き出す。
シェリーの手の中で、ひんやりした青い石が水面のように光っている。クライドはシェリーを見下ろし、シェリーはクライドを見上げた。
「お父さんから貰ったものだな。呪文の読み方を教えるよ。多人数に聞かれると効果が薄れるから、なるべく口に出さないようにして」
シェリーの視線に促され、緊張しながらクライドはそっと身を屈めた。耳打ちされた言葉は短かった。しかし、不思議な響きに満ちていた。その言葉を頭のなかでよくリピートしながら、クライドはまた立ち上がった。中腰の体勢は疲れる。
「ありがと、よく覚えとく」
クライドは満足げにそう言うと、自分の頭を軽く二度ほど人差し指で叩いた。何かを忘れるとか忘れないとか言うときにクライドが好んで使うジェスチャーである。クライドの笑顔を見て、シェリーも微かに満足そうに笑った。
「グレンも。その呪文の唱え方を教えるから来い」
グレンはこの言葉に素直に従って、傍にあったソファに深く腰を沈めた。おそらく、シェリーがいくら背伸びをしてもグレンの耳元に届かないだろう。それを考慮したうえで、グレンは自分から動いたらしい。その耳元にゆっくりと唇を寄せ、シェリーは呪文を囁いた。彼女の言葉を聴いて無言で目を閉じていたグレンだが、暫くして目を開けた。彼の目に、闘志が漲っているように感じた。何だか生き生きとしている。
「解った。暗記したからもう大丈夫。それじゃ、俺らは行くよ」
爽やかに笑んで去ろうとするグレンの背中を、悔しげに唇を噛みながら見つめるシェリー。その様子に気づき、アンソニーが微笑んでいた。心配ないよ、と言っているように見える。シェリーもアンソニーに向かってぎこちなく微笑み返すと、クライドたちを玄関まで送ってくれた。
「あのさ」
出て行こうとするクライドたちだが、シェリーに呼び止められた。緊張でもしているのか、シェリーは大きく息を吸い込む。そして、軽く手を振った。
「いってらっしゃい、皆。絶対無事に帰って来い、いつまででも待っていてやるから!」
精一杯泣かないように振舞っているが、シェリーの小さな身体は小刻みに震えていた。本当に、今にも泣きそうだ。やはり涙が出そうになったのか、シェリーはあわてて後ろを向いて家の奥に引っ込もうとした。
すると、その手をグレンが引っ張る。そのまま引き寄せ、グレンはシェリーの顔を近くから覗き込んだ。まさかこの状況でキスでもするのかと思って目をそらそうとしたが、グレンはそのまま至近距離でシェリーを見つめながら愛しそうに頬を緩ませる。
「待てよ。俺らの返事は聞かないのか? もしかすると、嫌だっていうかもな」
振り返るシェリーに向かって、グレンは悪戯っぽく笑う。ほんの一瞬だけ、シェリーの表情が泣きそうにゆがむ。しかし次の瞬間に、シェリーは意外な行動に出た。
出かかった涙をこらえながら、グレンの頬に平手打ちをかましたのだ。そして、グレンも意外な反応をした。
「はははっ! それだけ元気があれば平気だな。大丈夫、冗談だから。分かってるだろ。……な、分かってるだろ」
いつもなら怒るグレンが、頬をさすりながら晴れやかに笑った。クライドが寝ている間に、二人は距離を確実に縮めている。あの短気なグレンが照れ隠しのビンタを受け止められるぐらいに、近づく出来事がきっとあったのだ。
唖然とするノエルとアンソニー。クライドだけは平然と、そして漠然と、二人の行く末に明るい未来が待っていることを想像していた。きっとまた会える。そして、二人は幸せになる。そんな予感がしていた。
「シェリー、また会おう。次はもっとゆっくりいろいろ話そうぜ。お前は見えてるからいいけど、俺にとっては一晩なんて短すぎる」
そう言って身を翻すと、今度こそ本当に振り返りもせずグレンは歩き始めた。大丈夫、別れの挨拶はしっかりした。だから、問題はないはずだ。
高台から降り、エルフのいない路地を通り、空に開いた穴のふもとまで歩く。この距離をグレンはクライドを担いで走ってくれたのだ。エルフたちから見咎められないのは不自然だが、きっとシェリーがかけてくれた魔法の効果だ。しばらく、クライドたちは無言で歩いていた。
無事に送り出してくれたシェリーの気遣いも、彼女がエルフたちから虐げられている無念さも胸を締め付ける。やはりシェリーを連れてきたかった。彼女の意見を曲げてでも、連れてくるべきだったのではないだろうか。あれは強がりで、本当はついてきたかったのではないか。あんなに悲しそうな顔をされたら、決心が鈍る。
「ねえ」
やっと口を開いたノエルだが、すぐに口を閉ざした。最後尾を歩くグレンに声をかけようとしたのだが、やはりやめたようだ。クライドには理由がわかっていたが、訝ったアンソニーが振り返ろうとする。クライドはそっとその肩を掴んで止め、振り返らせないようにした。アンソニーは、今度はクライドに疑問を含んだ視線を向ける。
「だめだ、今は。そっとしておいてやれ」
アンソニーにだけ聞こえるように、クライドはそっと囁いた。流石のアンソニーでも、それからは一度も振り返ろうとしなかった。
俯いたグレンの頬を伝い落ちる一筋の雫に気づかなかったのは、アンソニーだけなのだ。押し殺した悲しみは彼の口許を歪ませ、眉間に深い皺を刻んでいた。これはおそらく誰にも見せた事のない、グレンの哀しみだった。グレンは今まで、人前ではたった一滴の涙でさえ流した事はなかったのだ。少なくとも、クライドが見ている限り。
グレンと一番長く一緒にいるのはクライドだから、彼の性格を良く理解しているつもりでいる。多分、グレンは自分が一緒にいない時に泣いたりはしていないだろう。彼は、何があろうと絶対に泣かない男だった。
暫くの間、誰も何も言わなかった。だが、そのままグレンが涙を流し続ける事もなかった。もとより楽観的な性格なのと、きっとまた会えると信じていたのとで、グレンは短期間で落ち着きを取り戻したようだ。
「悪いな、皆そんなに黙る事ないのに。ただ、ほんのちょっとあいつが心配だっただけだ」
済まなそうに、グレンは言った。そっとクライドが振り向くと、彼の頬にはもう涙の後など残っていなかった。全く普通に対応するグレンが、今の今まで苦しげな顔で俯いていたなんて嘘のようである。
「はは、ごめんごめん!」
普通の対応をしたグレンに倣い、クライドも普通に対応した。これでもう大丈夫だ。クライドは確信し、小さく息をついて振り返った。この先の長い洞窟を抜ければ、あの穴まで戻れるらしい。洞窟に入る前に、もう一度だけちゃんとエルフの集落を目に焼き付けておきたかった。
大丈夫。きっといつか、また戻ってこられるはずだから。その時は、シェリーを絶対にここから連れ出そう。