第十二話 露天風呂
薄暗い通路を行くと、脱衣所らしきところに行き着いた。荷物はここに置こう。更に見てみると突き当たりにドアがあった。意味はないけれど軽く深呼吸して、そっと開けてみる。
「うわあ、凄い」
思わず声が漏れ、クライドの声はバスルームの壁で反響して深く響いた。とても幻想的な夜景が、クライドの目の前に広がっていた。宝石箱の中身を零してしまったのかと思われるぐらい緻密で繊細な輝きが、そこら中に散らばっている。家々に灯る明かりの色は、それぞれ微妙に違うようだ。ほんわりと暖かな黄色の明かりからオレンジ色の抑えた灯り、白に近い色や冷たい蒼の明かりまで、実に様々な色が見て取れた。この家は少し高台なのだろうか。こんな風に、エルフの集落を遠くから見下ろせる位置にあるらしい。
そういえばここは、バスルームのはずだ。バスルームで生の夜景が見られる。これがどういうことかといったら答えはひとつしかない。この家の風呂は、露天風呂なのだ。一般家庭に露天風呂があるなんて、エルフは凄い。
夜景に気をとられすぎていて気に留めなかったが、この露天風呂の浴槽はかなり広い。五人ぐらい一緒でも問題ない広さだ、そんな浴槽のある場所にクライドは行ったことが無かった。クライドは服を着たまま、恐る恐る浴槽に近づいてみる。湯はなみなみと張られているし、ほんのり花の香りがした。魔法で入れた湯だろう。
こんなに広い家で、シェリーは家族とはなれて独りぼっちだ。誰の笑い声もしない家で、人に見られないように一日中過ごさなければいけないなんて辛いだろうとクライドは思う。それでもこうやって綺麗に部屋を掃除し、料理を作り、本を読んで彼女は自立した生活を送っている。荒まずに真っ直ぐ過ごしているのだ。本当にすごい女の子だと思うし、可哀想だとか不憫という感情ではなく尊敬の情が浮かぶ。
湿気で暑くなってきて、そういえばまだ服を着ていることを思い出した。脱いだ服を脱衣所においてくると、クライドは木製の桶に湯を汲んで汗ばんだ身体を流す。
身体へ流した湯の温かさが、久しぶりのように感じられる。実際は昨日の夜だって自宅の風呂に入ったのに、もうずっと風呂に入っていないように感じるのだ。今日は確かに、色々な事がありすぎた。のんびり風呂に浸かって、疲れを癒そうか。
あたたかな湯気の立ち上る浴槽に入り、クライドは思いっきり伸びをした。そしてうっとりと目を閉じると、リラックスムードに浸る。全身から疲れが抜けてお湯に溶けていくように感じた。本当に心地よい。体の芯からリラックスできたのは、この湯に特殊な魔法がかかっているからだろうか。
のぼせてきたので髪を洗う事にして湯船から出る。シェリーの露天風呂には、瓶に入ったシャンプーがあった。人間界式のポンプボトルではないが、中の液体が泡を含んでいたのでこれがシャンプーだろうと思ったのだった。もしかしたらボディソープかもしれないが、それはたぶん固形の石鹸のようなものが別にあるのでそちらではないかと思う。推測に従ってクライドは液状の洗浄料のほうで髪を洗った。少し手に乗せただけでハーブの香りが上品に広がったので、クライドは驚いた。匂いの系統的にはなんとなくシャンプーで合っていそうだ。
いつも通り跳ねた髪は、水をかけるとしっかりストレートになる。乾けばまた跳ねるのだが、祖母にはよくストレートもなかなか似合うと言われたことを思い出す。また会うころまで、祖母は元気にしていてくれるだろうか。旅に出てからまだ一日もたっていないのに、ノスタルジックな気分になる。
髪や身体を洗い終わったら早めに風呂から出ようか。このまま風呂にいたらホームシックになるかもしれない。
固形の石鹸で身体を洗い、脱衣所でやたらよく水を吸うタオルで身体を拭いたら着替えに袖を通した。そして荷物を纏めると、シェリーたちのいるリビングに向かう。
「次、僕が入る!」
クライドが風呂から出たことに気づいたアンソニーが、そう言って脱衣所へ向かおうとする。しかし、その襟首をグレンががっしりと掴んだ。
「年功序列だトニー、俺が先」
さも当たり前のように言うグレンだが、普段は彼が一番年功序列を気にしていない。理不尽な申し出にアンソニーが抗議の声を上げる。同じく、グレンの後ろでノエルも不満げだ。二人とも、もう着替えやタオルを用意している。
「ダメだよ、二人で決めるなんて。年功序列を持ち出すなんて卑怯なことをするなら、僕は最終学歴を持ち出すよ。慣れない運動をしてとても眠いんだ、先に入らせて」
やんわりとそう言うノエル。柔らかい口調だが、有無を言わさぬオーラが感じられる。しかし、グレンは聞く耳を持たない。誰が先に入るかということで、三人はもめ続けた。
俺が、いや僕が、と言い合う三人を見てシェリーは呆れたようにため息をつく。そして、悪戯っぽく笑った。
「皆仲良く、一緒に入っちゃえ!」
刹那の沈黙が降り、アンソニーがグレンを見上げた。彼の隣で、ノエルが額に手を当ててため息をつく。そのため息を聞いて、グレンが思い出したように反論した。
「一般家庭の狭い風呂に三人は無理だろ! 何言ってんだよ」
グレンは狭い風呂というのを強調したが、真の理由は他にあるようだ。証拠に、グレンは落ち着きなく辺りを見回している。彼が言いたくても言えないことを隠そうとするとき、いつもこうやってあたりを見回す。
「風呂場、めちゃめちゃ広いけど。五人ぐらいは入れそうだぞ、テレビで見るリゾートホテルのスパみたいだった」
クライドがそういうと、グレンは固まる。ノエルはあっさり頷いたし、アンソニーは楽しそうにした。
「あー、二人とも先行け。やっぱ俺、一番最後でいい」
「なんで? 一緒に入ろうよ、もしかして恥ずかしいの?」
「冷めてしまったからって継ぎ足したら、迷惑するのはシェリーだよ。きっと血の魔力を使って水を温めるんだから。僕だって人と一緒にお風呂に入るのは気が進まないけど、客人なんだから弁えなきゃ」
「そりゃそうだけどさ。別に、お前らに見られるのが恥ずかしいとかそんなんじゃねえんだよ。お前らは別に……」
物凄く気乗りしなさそうなグレンのことを気にもせず、ノエルとアンソニーはさっさと支度をしている。何故嫌がるのかと訝るクライドを一瞥し、諦めきった様子でグレンはとぼとぼと脱衣所へと歩いていった。
「何だったんだ?」
どうしてグレンが悲劇的なのかよく解らないクライド。隣でシェリーがくすくす笑っている。人の過去を知るのなんて容易いのだと彼女は言った。面白い過去が読めたらしい。
彼女の笑顔は、とても可愛い。これでつっけんどんな物言いをしなければ完璧なのに。口を開くとその可愛さは跡形もなく崩れてしまうのだ。勿体無いと思う。
「あ、シェリーも一緒に入っちゃえば?」
クライドは、シェリーをからかってみた。いつもならあまり友人をからかったりしないのだが、今回は面白そうだから特別だ。一体、シェリーはどんな反応をするだろう。
気づくと、グレンとノエルとアンソニーがそろって足を止めて顔を見合わせていた。三人とも驚愕の表情を浮かべている。
「そうだな。もう夜遅いし、あたしは髪を乾かすのに時間がかかるから」
そう言ってシェリーはグレンたちの方を向いた。あろうことか、一緒に風呂に入るつもりのようだ。いくらなんでもそれはまずい。勿論、クライドは呆気にとられた。
「シェリー、君」
そう言いかけて、ノエルは口をつぐんだ。何が起こったのか理解できなかったが、次の瞬間クライドの頬にシェリーの拳骨がヒットした。さほど痛くはない。しかし、面食らったクライドはよろけて尻餅をついた。
「失礼にもほどがある。そりゃあ男っぽいとか刺々しいとか思われてもしかたないけど…… エルフだって人間だって一緒、男女はお風呂を別にするものだ。あたし、男の子に見える?」
形のいい眉をしかめ、桜色の唇を噛む姿はどこからどうみても可愛い女の子だし、クライドはシェリーの容姿をもって男らしいと思ったわけではない。思いのほかダメージを与えてしまったようでクライドは後悔した。口調が男っぽいところは内心気にしていたのだ、可哀想なことをした。
「ごめん、冗談だって。女の子をそういうからかい方しちゃダメだよな」
そう言って笑って見せたら、シェリーは冷ややかにクライドを睨んだ。
「本気で言ってるかどうかは分かるよ。もし本気だったら、あんたの頬には拳骨じゃなくて矢が刺さってた」
どんな刃物よりも鋭利な言葉だ。今後一切彼女に対しての冗談はいわないと固く心に誓うクライド。見ると、他の三人は固まっていた。クライドたちが怯むのを見て、シェリーはにこりといたずらっぽく笑った。やはり可愛い笑顔だ。思わず、クライドは見とれてしまう。
「ほら、あんたたち。とっとと風呂にいったらどうだ?」
クライドと同じように、ぼうっとシェリーに見とれていたグレンがあわてて彼女に背を向ける。そそくさと風呂に向かうグレンを、アンソニーとノエルが荷物を抱えて追いかけた。彼らの後姿を見送って、シェリーはクライドに向き直る。
「そろそろ寝れば?」
ベッドを指差しながら、シェリーはソファに深く腰かけた。少し迷い、クライドは頷いた。しかしベッドには寝ないつもりだ。
「うーん、風呂入ったら眠くなったし。じゃ、寝るよ」
微笑みながらそういうと、クライドは床に大の字になる。床はかなり綺麗だ。掃除が行き届いている。これならぐっすり眠れそうだ。そう思い、クライドは目を閉じた。すると、シェリーに引っ張り起こされた。
一度閉じた目を再び開いて、クライドは微かに唸る。手首を捻られて痛かったのだ。
「ちょっと、ベッドで寝て!」
クライドを立たせようとしながら、シェリーは言った。ううん、と唸るクライド。
「だって、もう体調は万全だし」
本来このベッドを使うのは、持ち主であるシェリーのはずだ。それに、どうせ誰かが寝るのだったらベッドはアンソニーたちに譲ってやりたい。自分だけ柔らかいベッドでぐっすり眠るなんて、これ以上厚遇を受けるわけには行かない。
「あんたはベッド、ノエルとアンソニーは布団、グレンはそこ。あたしは別の部屋で、ちゃんとベッドを使うから」
そこ、と指差されたのはふかふかのソファだ。一人暮らしの女の子の家にベッドが五台もあるはずはないのだから、誰かがそこで寝るのは必至だろうとは思ったが、グレンを宛がうのは意外だった。身長が高いグレンよりも、ノエルやアンソニーのほうが収まりがよさそうなのに。
「あんたに何かあったとき、助け起こせるのはグレンしかいないから。アンソニーは寝相が悪くて落ちちゃうし、ノエルは明るいところで寝付けない。グレンなら、部活帰りで疲れたときに家のソファで寝てるのを見たから」
窓からさす月明かりは、確かにかなりの光量だった。シェリーの優しさに、クライドは胸に暖かいものがこみ上げるのを感じる。彼女は自分に出来る魔法を適切に使って、最善のもてなしをしてくれているのだ。
本当はベッドを使うのが心苦しかったが、彼女の采配なら納得するしかない。従う事にして、クライドはベッドに身を横たえた。そうして柔らかな枕に頭を預けたとたん、欠伸が出た。この枕は使い心地がかなりいい。安眠できる魔法でもかけてあるのだろうか。
「ゆっくり寝ろよ」
意識のどこか遠くのほうで、シェリーの声が聞こえたような気がした。けれど、クライドにはもう答える気力がなかった。
蒼い月光が差し込む窓辺にすえられたベッドで、クライドは眠りについていた。