第一話 はじまり
一年のうちで一番過ごしやすいのは、この時期だと思う。春というには少し遅く、初夏というにはまだ早い気候。四月の下旬は、このアンシェントタウンでは特別な時期だ。
麗らかな日差しの中、今日は朝から一年に一度の祭りが行われていた。街を行く人々は、開放感溢れる表情で連れ立って出店を見ている。町の中央に位置する広場では、様々なイベントが行われているようだ。伝統的な白い壁と紺色の屋根に統一された町並みは、世界絶景百選などと題されるような写真集に高確率で載っている。
喧騒が溢れる大広場から少し離れた場所には、石造りの古い塔が聳える。ひょろりと長いフォルムのこの塔には鐘楼があり、青銅製の古びた鐘が吊り下げてある。町のシンボルとして大切にされているこの塔は、中世から姿を変えずここに建っているらしい。クライドのいる路地裏からも、青い空に凛と映えて建つ塔が見えた。
クライド=カルヴァートは、今日で十六歳を迎えたばかりだ。この町で生まれ、この町で育ってきた。よく銀色の目が特徴的だと言われるが、確かにクライドは自分の家族以外で銀色の目をした人を見たことがなかった。町から出れば他にもいるのかもしれないと考えていたが、どうやらそうでもないらしいということがこの年齢になってようやく分かってきた。
ただ、軽々しく自分のルーツを探りに町の外には出られないのだ。四方を山脈で囲まれたとんでもない田舎なので、町を出るには飛行機が要る。そう、もはや町と言うより小さな国だ。途方もなく辺鄙なことは確かだが、生活必需品には不自由しない。それなりに若者向けの服屋もあるし、ファストフード店も二店舗ある。
テレビでは未開の地と揶揄されることもあるが、太陽光や風力発電などでは最先端の技術を使っている。人によっては携帯電話も使うらしいし、最新のブランド品もネット通販で手に入る。すこぶる文明的だ、現代に生き残る山岳民族という言い方はできればやめてほしい。ただ、悔しいが都会の暮らしと比較すると数年分くらい発展の差がある気がする。それを不満に思う友人もいるが、クライドはこの町に満足していた。
路地裏から陽の当たる広場に一歩踏み出してみた。一年ぶりに聞いた祭の喧騒は耳に心地よい。売り子や客の声を遠く聞きながら、特に目的もなく歩き回る。家に篭りきりなのも退屈だからと一人で家を出たものの、この後のことを考えると気分が重かった。
祭りの雰囲気は好きだし、街の人たちは毎年楽しみにしているこの祭りなのだが、クライドはこの日が近づくと憂鬱になった。なぜならば、祭りの締めくくりに、火を使った舞踏が行われるからだ。ロープの先に布の球をつけ、それを燃やしてリズムよく振り回すというなんとも未開の情緒にあふれた舞踏は、ありがちな豊作祈願のための舞いだ(ちなみにテレビでは、この舞踏のシーンをやたら強調して紹介される)。見ている分には別にいいが、それをクライドも踊らなければいけないのが問題だった。
運動神経はいい。それはスポーツテストの点数を見れば明らかで、瞬発力やバランス感覚を測る項目では常に学年トップだ。パワー系の項目はやや劣るが、それでも華奢な割にはランキングの上位に食い込めるので悪くはない。特別な訓練をした訳でもないのに、体操競技の技は目の前で見せてもらえれば大体再現出来る。だからたまに、体育の先生から『凄いを通り越して薄気味悪い』と冗談交じりに言われたりする。
それほどまでに体を動かすことが得意なクライドだが、音感が致命的にない。歌も歌えなければ、楽器も弾けないし、音楽の成績だけいつもやたら低い。リズムをとろうとすれば、いつもだんだん他の人たちの手拍子から半拍ぐらいずれてくるのでよく笑われた。
例の踊りには火の玉を振り回して投げ上げ、火の玉が空中を舞っている間に宙返りを決めるという大技がある。これができるのは学園内に三人しかいないが、クライドはその数少ない一人だ。しかしクライドは、技自体は出来てもキャッチするタイミングがいつも曲の大サビから半拍ずれていた。その後のダンスパートも残念な出来栄えなので、ダンサーの花形になるのは拒否して今に至る。
そんなわけで練習にも何かと理由をつけて出席しなかったし、クライドが踊りが嫌いだということは友人や学校の先生にも公認されている。他の少年たちはすでに学校に召集がかかっている時間帯なのに、ひとりでふらふらしているのにはこんな理由があった。
ただ、踊りが始まる夜になったら祭の会場にいるのが気まずい。友達はほとんど全員踊りに参加するし、とても暇になるだろう。『踊りの最終練習だから遅くなる』と言って出てきた家に帰るのも、気が引けた。どこで暇をつぶそうか、夜までかなり時間がある。
がやがやと騒がしい民衆に背を向けて、クライドは古びた塔を見上げた。寄りかかればざらついた石がひんやりと冷たく、外観も何だか厳かな感じがして、クライドはこの塔が好きだ。そういえば、古代の人は真っ直ぐに立ったこの塔を日時計として利用していたのだと郷土史の授業で習ったことを思い出す。中には取り壊して電波塔にしようという人もいるが、クライドにはなんとなくこの塔の価値がわかる気がするので反対だ。
祭りのフィナーレでは、毎年この鐘楼の鐘を必ず鳴らす。祭り以外の日は立ち入り禁止の塔なので、今日しかこの鐘の音は聞けない。クライドは、この鐘の響きが好きだ。ひどく古びた響きが街を揺らすその瞬間が、何ともいえず心地よい。
「……ん?」
塔から少し離れた場所まで歩いてみると、鐘楼に二人の人間がいるのがわかった。遠くて分かりにくいがスーツや作業服ではなく、どちらもカジュアルな格好をしている。鐘を鳴らすのはほとんど夜中と言っていい時間のはずだから、この時間に鐘楼に人がいるのはおかしい。ぱっと見ただけでも関係者らしくない男たちは、一体何をしているのだろう。
不可解に思って観察を続ける。鐘楼に立ち入った二人は、しばらくして行動を起こした。黒いシャツを着た男が、鐘を拳骨で何度か軽く叩いた。不思議と音はしない。彼の隣には背が低い太った男が立って、腕組みしながら鐘のほうに顔を向けている。周囲の人たちは、誰一人として気づいていない。奇妙なほど誰も塔を見ないのだ。
不審な人物たちは少しして、なにやら青白い火花を出して鐘を落とした。すぐさま鐘の上に何か布をかけて、逃げ出そうとする不審者たち。クライドは瞬きもせず彼らを見ていた。
青白い火花、それをどうやって出したのかは全く分からなかった。テレビで見た溶接の様子に似ていた気もしたが、バーナーのようなものを使ったならもっと大掛かりな器具が必要になるだろう。彼らは素手だった。それに、奇妙なことに鐘が落ちたとき何も音はしなかった。
このままでは、フィナーレで鐘を鳴らすのがとりやめになるかもしれない。頑張って練習してきた少年たちの踊りが中止になるかもしれない。大騒ぎになって、出店も撤収になるかもしれない。そうなったらクライドとしては踊らなくて済む公式な理由が出来て都合がいいが、皆が楽しみにしてきた年に一回の祭なのだ。平和に終わってほしい。
咄嗟に頭に描いたのは、塔の管理事務所である町役場だった。役場の権力者へ報告するべきだと思って塔に背を向けようとした瞬間、塔の上に立つ太った男と目が合ってしまった。
凍らされるような視線。
足が竦んで動けなくなる。そのままその男と目を合わせていると焼かれるように目の奥のほうが痛んだが、目をそらしてはいけないと思い彼の目を見つめ続ける。数秒後、塔の上の男が目を押さえて呻いた。自分は何をしたつもりもなかったのだが、彼が押さえた手の下から微かに煙があがっているのが見えた。煙? いいや、見間違いだろう。もしかしたらタバコを吸っているのかもしれない。
「あの、大丈夫ですか?」
叫んでみる。自分で言ってみて、酷く間抜けな声だと思った。男はクライドに向かって何か喚き、目を押さえて唸っていた。何があったかは理解できなかったが、クライドのほうの目の痛みはすっかり消えている。男がうずくまったのか姿が見えなくなり、クライドは思わず駆け出していた。そして、普段は立ち入り禁止とされているドアを蹴り開け、塔の中に入り込む。あの男は痛そうにしていた。無事を確認するついでに、鐘楼で行っていた行為について聞いてみよう。
後ろ手にドアを閉めると、上の方からうめき声と怒鳴り声がくぐもって聞こえた。なにやら口論をしているようだ。
「痛いっ、痛い! くっそ、うああ! ちくしょう!」
「馬鹿! 一体何をしている!」
クライドと目を合わせた方の太った男は、何故か怒られているようだ。声の感じからするとそれぞれ四十歳は越えていそうで、喋り方が粗雑だった。そこまで考えて、急に思う。声をかけに行くことが、本当に正しいだろうか。
……いや、何もせず役所や交番に向かうのが賢明だったのだ。うかつに声をかけに行けば、不審者から口封じに脅されるのが関の山だ。ここに入るという行動は、完全に間違っていた。怪我をさせたと思ってつい来てしまったが、ここで何をするかまでは全く考えていなかった。自分の甘さに今頃気づいて、クライドは滑らかな金髪をぼさぼさにかき回す。声が近づいてくる。背中を向けて逃げれば、彼らに後ろから何かされるかもしれない。
――どうせ足を踏み入れてしまったのだ、今更引き返せない。
不安と好奇心を胸に、クライドは塔の中に唯一ある階段を上り始める。なるべく音を立てぬよう、そっと一段ずつ踏みしめて階段を上る。何段目かに足を乗せたとき、上の方から声が近づいてきた。咄嗟に隠れ場所を探す。
この塔の階段は螺旋階段になっているため、下から来る者は自分の目の前に差し掛かるまで見えない。同時に、上から誰かが降りて来ても、直前まで気づくことができないということだ。早く隠れれば何とかなるが、もし隠れられなければ怪しい男らと鉢合せになる。
丁度、あと二段上がったところに掃除用具を置いた簡易的な倉庫のようなものを見つけた。階段の脇に、そこだけ奥まった場所があるのだ。一人ぐらいなら隠れるスペースがあるようだ。クライドはそこにさっと身を潜め、様子を窺う。このままでは丸見えなので、モップや雑巾などで巧みに自分をカモフラージュする。
「ガキがいたんだ! 目を焼かれた、金髪のガキにだ!」
「魔法を使えるガキなんぞこの街には存在しない」
「だからいたんだって!」
「鐘がある限り、ありえん」
「って、俺ら今それ落としただろ! だからだ!」
「だが、まだ魔力がある」
「それも封じただろ! アホだなお前は!」
「この塔にも魔力があるということを再三伝えただろう! 愚図め、俺の話をひとことも聞いていなかったのだな!」
男らは口論をしている様子だ。魔法、魔法と連発していることに拍子抜けした。この男らは、いい歳をしてまだ魔法を信じているらしい。あるいは、麻薬漬けで幻覚でも見ているのだろうか。もしそうだったら危険だ、そんな男が二人も街に侵入したなんて。
緊張感が戻ってきて、クライドはじっと身を潜める。男の目がどうなったのかということより、絵に描いたような悪い奴が突然目の前に現れたことに関心が移ってしまった。自分の体に両脇からモップを立てかけ、抱えた膝の上には乾いた雑巾をかけるという酷い姿だが、クライドは別段気にしてもいなかった。じっと身をかがめて耳を欹てる。男らは、さらに会話を続けた。
「あとでとっ捕まえて頭を焼いてやるぞ、あのガキ」
「だから、そんなものはいない。毛髪が恋しくて幻覚でも見たのか」
「クソ野郎、毛のことには触れるんじゃねえ。ガキがいなかったとしたら、この眼はどうなるんだ!」
「鐘にかけた魔法が跳ね返ったんだろう。兎に角ガキなんていない、早く忘れろ。適当に治せ」
ごくり、生唾を飲み下す。見つかってはまずい雰囲気だ。ここで見つかったら、目を焼かれたという男の言い分が通用してしまう。クライドは魔法を使う少年だとみなされ、二人の男から酷い目にあわされるのだろう。魔法なんてあるわけがないのに。馬鹿げている。鐘や塔についても何か言っているが、これは大事な歴史的建造物で祭に使うものなのだ。変な妄想で勝手に壊すのはやめてほしい。
足音がだんだん近づいてくる。そして、言い争う声もいよいよ煩くなってくる。あまり悠長なことは考えていられなかった。息をひそめ、じっと耳をすませる。
「あのガキの視線が、俺の眼を焼いたんだ!」
「ったく、煩い。そんなに言うなら幻像でも出せ。どんなガキだ?」
二人は、クライドが身を潜めている所のすぐ近くで立ち止まった。思わずクライドは息を止める。
一人は灰色の髪をした冷徹そうな長身の男で、年齢は五十歳前後に見える。黒いシャツに黒のカーゴパンツという、見るからに怪しい黒尽くめだった。目の下のくまがひどく、疲れた感じのする男だ。
もう一人は太っていて頭の禿げた中年で、わずかに残った髪は汚らしい金髪だった。脂っぽくて明らかに生活習慣が良く無さそうだったし、服も何日も洗ってなさそうだ。目を焼かれたと騒いでいるのは、禿げた方である。心臓が嫌な具合に音を立てているが、クライドは息を殺してその場にとどまる。
「こんなガキだ、忌々しい銀色の目をしていた」
そういうと眼を焼かれた男は、彼の隣に何かを出現させた。……まさしく、心臓を鷲掴みにされた気がした。
一体どういう方法でそれを出したのかは不明だが、彼がだした幻のようなものは紛れもなくクライドだった。滑らかなつやを纏った、跳ねグセのある柔らかな金髪。光が当たると不思議な煌き方をする、銀色の目。薄い唇と歯並びの良さは、前に付き合っていた女の子に羨まれたこともある。襟首が伸びた廉価な半袖のTシャツから覗いた腕にはうっすらと筋肉がついているが、細くて内心気にしている。全体的に華奢な感じのする、人が良さそうな少年だ。
男が再現したクライドは、身長から体型、そして服装まで、全て写し取ったように今の自分と同じだった。その酷似ぶりは、思わず大声で叫んでしまいたくなるほどのものだった。
「ふむ、銀目な…… 認めてやろう、そいつを探して報告だ。利用できるかもしれん」
もう一人の男の声が、死刑宣告のように聞こえた。誰に報告されるのかなんてどうでもよかった。兎に角、非常事態なのだ。絶対に見つかるわけには行かない。
心の中は混乱しているが、身体のほうは心臓以外冷静だった。悲鳴を上げたい心とは裏腹に、この肢体は微動だにしない。微動だにしない身体は、倉庫のような場所から縫い付けられたように動かないでいる。冷静なのではなく恐怖で動けないのかもしれないが、どっちだっていい。
「あのガキ、一体なんの魔術を使ったんだ?」
ぶつぶつと文句をたれる中年の男。彼は癇癪を起こしたのか、足元の階段を力いっぱい蹴りつけていた。彼の足が階段の敷石にぶつかるたび、彼の体中の贅肉が揺れた。こんな非常事態でなかったら、クライドは彼のダイエットについて真剣に考えていたかもしれない。だが生憎、クライドは自分自身のことで精一杯だった。
「おい、見えてるか? その目は」
「いいや見えない、何とかしてくれジェイク」
「愛称で呼ぶなジャスパー。鐘を落とすのにそれなりに魔力を使った、しばらくは我慢しろ」
「もう十年の仲じゃないか、ジェイコブ! お前の魔力を頼りに歩くしかない、助けてくれ」
男らの名前がわかった。眼を焼いてしまった方は背が低く太っていて禿げた中年、ジャスパー。もう一人の冷徹そうな長身の男はジェイコブ。名がわかったのは、彼ら(とくに禿げたジャスパー)が低レベルな言い合いをしてくれたおかげだ。
ジャスパー、ジェイコブ、と頭の中で反芻しながら、クライドは首を動かさずに視線だけで彼らの後姿を見送る。だんだん声が遠くなっていくが、二人はまだクライドの話をしているらしかった。
しばらく黙っていたが、完全に物音がしなくなるまで待った。ゆっくり音を立てないよう立ち上がるが、立ちくらみのようなものがきてクライドは石壁によりかかる。思ったよりメンタルもフィジカルも緊張でストレスを感じていたらしい。
身体についた埃を払いながら二人をずっと警戒していたが、彼らが戻ってくる様子は無い。やっと安心して後ろを向いたとき、誰かの胸にぶつかった。顔を上げると、真っ直ぐな金髪を肩まで垂らした青年と目が合う。クライドが隠れていることをわかっていて、気配を殺して待っていたらしい。硬直したクライドの前に立ちふさがり、彼はクライドの退路を断つ。
外見からいけば、彼はせいぜい二十歳代前半といったところだろう。彼は去っていった二人と違って端麗な顔立ちだし、筋肉質でしなやかな見栄えのいい体つきをしている。この容姿だったら、たちまちモデルのオファーがきそうだ。ただ、彼のアイスブルーの目は思わず何も言えなくなるほどに鋭い。誰をも寄せ付けない性格なのだろうと、何よりも雄弁にその目が物語っている。
彼は不機嫌そうなのを隠しもしない表情でクライドを見下ろしていた。ここにいるということは、彼だってどう考えても不審者だ。あの不審者たちと仲間なのかどうかはわからないが、不法侵入したことに代わりはない。そして、こうしてクライドを見て逃げる隙を封じているということは、このまま逃がしてくれる気なんてきっと毛頭ないのだろう。
「あ、あの。どいてください」
混乱と焦りが頭の中を駆け巡る。後ろに一歩後ずさりして逃げようとするが、胸倉をつかまれた。成す術もなく、足が軽く階段から浮く。襟首が首に食い込んで痛い。繊維がぶちぶちと切れる嫌な音がした。あまり買ってもらえない衣類なのに、傷めて欲しくはない。苦痛と苛立ちに眉を顰めながら、クライドは男の氷河の色をした目をじっと見つめた。
「あの男の目を焼いたのだな。いつからいた、何を隠し持っている。ここはガキの立ち入る場所ではない」
冷たい低い声は、どこか聞き覚えがある気がした。彼はよく見れば誰かに似ているような気もするが、クライドの知る限りこんなに無礼で無愛想な知り合いなんていない。というより、いてほしくない。クライドは男の目を黙って睨みつけるが、男は相変わらずクライドを離す気配がない。
男は『ガキの立ち入る場所ではない』などとのたまったが、関係者以外なら大人でも立ち入る場所ではないはずだ。彼だってロジックが破綻しているではないか。そう思った時に、クライドは思わず心の中でこの男が燃え上がるのを想像した。たぶん、昨晩テレビでちらっと見たホラー映画の影響だ。そう思いつくと『そうだ、あんな感じに燃えてしまえ』と、想像が加速する。
「お前の事だって焼いてやるよ、ここは部外者の立ち入る場所じゃない!」
叫んだとき、自分を掴み上げている男に変化が起きた。
「うわっ」
その言葉を最後に、男はクライドの目の前で火だるまになる。想像通りの絵面だった。炎はクライドの頬をも撫で、安物のTシャツに燃え移ろうとしている。思わず手を突き出して男を突き飛ばし、つかまれた胸倉を開放させる。無我夢中の動作だったから、クライドはバランスを崩して階段を数段転がり落ちた。起き上がりながら、息を荒げて男を見上げる。想像ではなく現実で、男が火に包まれている。
喉が張り裂けそうなほどの叫び声が塔の狭い石壁に反響し、暴れる彼は石壁に自分の身体を乱暴にこすり付けて消火を試みている。それでも火は消えない。クライドは思わず目を背けた。
思考が止まりそうになる。本当にそんなことが出来るとも思っていなかったが、やはり、あの太った男の目を焼いたのも目の前の男を火だるまにしたのも自分だ。ありえない。
「っ、水! 水を! 水をかけろ!」
男が叫び声を上げる。ああ、そうだ。水を探さなければ彼が死んでしまう。きょろきょろと辺りを見回すが、階段の途中なのだから水など現れるはずが無い。肉の焦げるにおいがする。もう男の方を見たくない。肉だけでなく、髪が焦げる嫌なにおいもしてきた。吐きそうだ、とりあえず塔の外に出て水を汲んでこよう。
歩き出そうとすると視界の隅に何かがうつり、そちらを少しだけ振り向くと、無残に焼け焦げて皮膚のなくなった手が伸びてきた。焼け残った肉と肉の間に白い骨が見える。胃の中身がひっくり返りそうになったが、寸でのところで堪えた。
彼は助けを求めているのだ。これを振り払えば、クライドは人殺しをすることになる。いくら彼が悪人だからといって、殺人なんてしたくない。どうしたら良いのだろう。何もかも、自分が想像したせいだ。……想像のせい?
「それだ!」
着火のときと同じように、イメージで彼の身体を舐めつくす焔を消してみようと思った。彼は今、全身ずぶぬれで突っ立っている。髪は少しこげているが、肌は何ともない。クールグレイの開襟シャツとチャコールのスキニーパンツはどこも焦げたり破れたりしていない。そう強く心に思い描き、目を閉じてみた。すると、どこからか水の音がした。水滴が落ちるような軽い音ではない。それは、滝でも出現したかと思われるほどの轟を伴う水音だった。想像が正しければ、彼の頭上から水が降ってきたのだろう。それなら彼を焼く火が消えてくれる。だから、そうであってほしい。火傷に沁みるかもしれないが、それは天誅というものだ。
足元を水が流れていく。それを確認するようにしてクライドが恐る恐る目を開けると、唖然とした男が立っていた。まさしくさっきの想像通り、全身ずぶぬれで突っ立っている。髪の先が少しこげているが、あとは何ともない。全身火傷だらけの痛々しい姿を見なくて済んで安心した。
「やるな」
男は左手で濡れた髪を掻き分けながら、右手を差し出してきた。この男は言葉数が足りないので何をしたいのかわからない。
「貴様なら少なくとも、貴様が焼いたあの男よりは使える。来い」
無表情にそういい、無感動に目を細める男。どこまでも『無』という言葉が似合う男だ。ここでようやく、クライドは男が悪手を求めているのだと理解した。
彼らと共に、何をさせられるのだろう。間違ってもこの手を取ることはないとクライドは思った。しかし、きっと拒否したら襲い掛かってくる。上手く撒いて逃げ、まっしぐらに警察署を目指すためにはどうやって彼を突破しよう?
差し出された彼の手を取らないまま、数歩下がる。 交渉決裂だ。それを察したのか、瞬時に男の額に青筋が浮いた。
「貴様、俺の言うことが聞けないというのか!」
「あっ、塔が崩れる!」
ちらりと男が上を向いたとき、クライドは転がるように階段を駆け下りた。勿論、今のは嘘である。崩れてくる階段など想像しないようにして、クライドはわき目も振らずに走った。
「待て、貴様!」
男の声が上からするが、無視してドアを蹴り開ける。そして外に出て、誰にも追ってこられないところまで全速力で走って逃げた。
2025年になって挿絵を入れてみました。
小説はキャラクターのビジュアルが絵で示されていると嬉しい人間なので、出来れば全キャラ描いていきます。