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空は広いし、私は最強だし、気分はとても最高な件

プロローグ


 死ぬ瞬間というのは、案外あっけないものだ。

 横断歩道の信号が青になった。それだけのことだった。

 傘を持っていなかったことを少し後悔しながら、篠突く雨の中を小走りで渡ろうとした瞬間、視界の端に何かが映った。赤。ブレーキランプの色じゃない、もっと大きな何かの。

 そこから先の記憶はない。

 岸本桐子、享年二十六歳。国立大学の研究室に所属する助手。身長百五十二センチ。体重は聞かないでほしい。専攻は生態学で、指導教員の覚えもよくないのに研究室に一番遅くまで残っているタイプの人間だった。

 合コンの誘いには「データの締め切りがある」と断り続け、友人から「桐子ちゃんて彼氏とか興味ないん?」と聞かれるたびに「今は論文が」と答えていた。上司に「きりちゃんは小柄で可愛いねえ」と言われるたびに愛想笑いを返しながら、内心では舌打ちをするタイプの女だった。

(可愛いて何が可愛いねん。研究の話してんのに関係ないやろそれ)

 そんな彼女が次に意識を取り戻した時、世界はまるっきり変わっていた。






 最初に気がついたのは、においだった。

 土の匂い。草の匂い。雨上がりのような清潔な空気。それから、もっと濃密な何か——獣の匂い、とでも言うべきか、自分自身から漂ってくるような気がする、深く、野性的な香り。

 次に気がついたのは、視野の広さだった。

 目を開けると、世界が信じられないほど広く見えた。正面だけではなく、横も、斜め後ろまでも。まるでパノラマ映像の中にいるようだ。そして映し出される景色の色彩が、これまでとはどこか違う。木々の緑がやけに鮮明で、空の青が眩しいほどに多層的で——あの雲の向こうにある気流の筋まで、なぜか見えるような気がした。

「……あれ」

 声を出そうとして、驚いた。

 出てきたのは言葉ではなく、低く、腹の底から響くような唸り声だった。

(え、ちょっと待って)

 反射的に自分の体を確認しようとした。手を、見ようとした。

 手はなかった。

 代わりに目に入ったのは、青みがかった銀色の鱗に覆われた、巨大な前肢だった。鋭い爪が四本。地面に食い込んでいる。その先に続く体は、自分でも全貌が把握しきれないほど大きく、首を曲げると——長い、とんでもなく長い首が動いて——背中に、折り畳まれた翼があるのが見えた。

 しばらくの間、完全に思考が止まった。

 一秒。

(鱗……?)

 二秒。

(翼……?)

 十秒ほど経って、ゆっくりと、確実に、認識が追いついてきた。

(……ドラゴン、やんか)

 もう一秒。

(私が、ドラゴン、やんか)

 そしてさらに三秒後。

(    最   高    !!!!)






 叫びたかった。叫べなかった。人間の言葉が出ない。しかし代わりに出てきた咆哮は、周囲の木々を揺らし、遠くの鳥の群れを一斉に空へ追い立てた。

 それはそれで、最高だった。

(小学校の図書室で見た図鑑のドラゴンそのまんまやん!! いや待って鱗の質感が想像と全然違う、もっとなんか硬質というか……って今そこか、落ち着け私)

 体を動かしてみる。

 おそるおそる前肢を持ち上げると、その一動作だけで地面が揺れた。体重が、推定でいったい何トンあるのか見当もつかない。しかし重さは感じない。むしろ全身に力が満ちているような、これまでの人生で一度も感じたことのない充実感があった。

(これが……筋肉か。いや筋肉というか全身がエンジンみたいな感じ? 前の私は何やったんや。非力すぎやろ人間の体)

 翼を広げてみた。

 どこまでも広がる。空気を掴む感覚が、羽の一枚一枚から伝わってくる。本能が、この翼の使い方を最初から知っていた。

(骨格の構造的に、哺乳類系というよりは爬虫類に鳥類の翼の特徴が混合した形態……って今すぐ測定したい。翼幅と体長の比率、どんくらいやろ)

 跳んだ。

 次の瞬間、桐子は空にいた。

 風が体を包む。眼下に広がる森が、みるみる小さくなる。雲が、手が届く高さにある。いや、翼が届く高さに。体ごとぐいと上昇すると、雲の中に突っ込んだ。冷たい霧が鱗を湿らせ、それすら心地よかった。

(冷たい! でも気持ちええ!! 鱗の熱伝導率がちょうどいいんかな、それとも体温調節の機構が——あかんあかん、今は飛ぶことに集中しよ)

 雲を突き抜けた先に、夕焼けが広がっていた。

 見渡す限りの茜色の空。下には雲の絨毯。遠くには見たことのない山脈の稜線。

 桐子は——元・助手、元・人間、現・ドラゴン——そのすべてを忘れて、しばらくの間ただそこに浮かんでいた。

(広い)

 そう思った。

(世界って、こんなに広かったのか)

 百五十二センチの視点では、いつだって人混みに埋もれていた。電車では吊革に手が届かなかった。会議室では一番後ろの席から黒板が見えなかった。世界はいつも、自分には少しだけ大きすぎるサイズで作られていた。

 なのに今、世界全部が——自分より小さく見えた。

(これが……翼か)

 桐子は、もう一度咆哮した。

 今度は悲鳴でも戸惑いでもなく、純粋な歓声として。

(研究よりこっちの方が興奮してる自分は、どうかと思うけど。まあええか今は!!)






 それからの日々は、率直に言って最高だった。

 飛ぶ。眺める。寝る。それだけで良かった。

 不思議なことに、腹が減らなかった。

 最初の一週間は、それが一番の謎だった。

(おかしい。生き物はエネルギーを消費する。消費したら補充せんといかん。これは生物学の基本中の基本や。なのになんで腹が減らんのやろ)

 試しに鹿を捕まえてみた。大きさの割に呆気なく捕まえられた。しかし口元まで持っていって——なぜか食べる気にならなかった。腹が空いていないのだから当然だが、そもそも食べる必要があるのかどうかすらわからない。

(……もしかして、ドラゴンって食事が不要な生き物なんか? でもエネルギーはどこから来てるんや。無から有は生まれへん、エネルギー保存則は宇宙の真理のはずやけど)

 鹿は結局、逃がした。

(食べへんのに捕まえるのも可哀想やしな)

 それから数日、桐子は自分の体のエネルギー源を探し続けた。

 食事をしない。しかし体力は充分にある。むしろ飛べば飛ぶほど、何か満たされていくような感覚すらある。

(飛んでる時に何かを取り込んでる? 空気か? いや空気だけでエネルギーにはならへん。光合成みたいな仕組みか? でも鱗に葉緑素があるとは思えへんし……)

 答えは出なかった。

(この世界の生物学を、誰かに教えてもらわんと埒が明かんな)

 とはいえ、腹が減らないのは純粋に快適だった。

 熊が向かってきても鱗一枚傷つかない。嵐の中を飛んでも平気だ。雷が落ちてきたことがあったが、少しくすぐったかっただけだった。

(雷が体に当たってくすぐったいって、どういう神経系の構造してんねん私。面白すぎる。あとで自分の体を隅々まで調べたい)

 そして、なめてくるやつがどこにもいない、というのも最高だった。

(これが……身体的優位性か。前の私に教えてあげたい。世界がデカすぎると思ってたのは、器が足りてなかっただけやで、って)

 そんな日々が、三ヶ月ほど続いた。






 問題が起きたのは、調子に乗っていたからだと思う。

 集落を——人間の集落を、少し、脅かしてしまったのだ。「少し」というのは主観的な評価で、客観的に言えば城壁の一部を壊し、畑を半分ほど踏み荒らし、村人数十人を恐怖のどん底に叩き込んだわけだが。

(いや本当に悪意はなかってん。着地に失敗しただけで……でも結果として全部ぶち壊したのは事実やな。反省)

 理由は単純で、悪意もなかった。ただ着地に失敗しただけだ。空から降りる角度を読み誤り、速度を落とし損ねて——気づいたら壁に突っ込んでいた。

 逃げれば良かったのに、パニックになって暴れてしまったのが追い打ちになった。

 その後、討伐隊が組まれるのは当然の話で、桐子はその後しばらく追い回された。最初は軽く考えていた。人間ごときに負けるわけがない——という驕りが、命取りになった。

 人間は、賢かった。

 囮を使い、誘導し、地形を利用し、そして桐子が知らなかった何か——後に「魔法」だと知る力——を使って、翼の付け根に深い傷を負わせた。

(痛っ……! 痛い!! え、ちょっと待って、鱗に傷が入るってどういう構造的弱点があったん!? 後で絶対検証する)

 飛べなくなった。

 逃げようとして、森に迷い込んで、川に落ちて、気を失った。

(あかん、これはあかんやつや。目ぇ閉じたら——)

 次に目が覚めた時、桐子は洞窟の中にいた。

 傷には、何かが塗られていた。薬草を煮詰めたような匂いがする。体に毛布のようなものがかけられている——人間の毛布では一枚では話にならない大きさだったが、何枚も継ぎ合わせてあった。

(誰かが……手当てしてくれた? 討伐隊ちゃうの? 何で?)

 入り口に、人間がいた。

 火を熾して、鍋を覗き込んでいる。歳は——四十代くらいだろうか。短く刈った銀髪に、日焼けした肌、落ち着いた眼差し。討伐隊の装備ではなく、旅人のような格好をしていた。

 気配に気づいたその人間が、こちらを向いた。

 驚いた様子がなかった。

「目が覚めたか」と、穏やかな声で言った。「傷はまだ深い。しばらくは動かない方がいい」

 桐子は唸った。威嚇のつもりだった。

(なんで平気な顔してんの。ドラゴンやで? 相当ビビるやろ普通)

 男は少しも動じなかった。

「何か食べるか? 山羊を仕留めてきたが」

(……食べる気はせえへんけど、この人の意図が読めへん。なんで食べ物を勧めてくるんやろ。ドラゴンが食事するとでも思ってるんか?)

 桐子は唸り声で返事をした。受け取らない、という意思表示のつもりで首を横に振った。

 男が少し首を傾けた。

「ドラゴンは食事をしないのに、それを知らないのか」

(……!)

 桐子の動きが、完全に止まった。

(今、なんて言った? ドラゴンは食事をしない?)

 男は続けた。

「この三ヶ月、お前が動物を捕まえて、でも食べずに逃がしているのを何度か見た。食べる必要があるのかどうか、わかっていないのだろう」

(……見られてた。しかも正確に状況を把握されてた)

 桐子は唸った。今度は威嚇ではなく、純粋な驚きで。

 男は静かに言った。

「ドラゴンは、精霊力を直接体内に取り込んでエネルギーにする。食事は不要だ。この世界のことを、知らないのか」

(精霊力……? エネルギーに……?)

 桐子の頭の中で、この三ヶ月の謎が一気に解けていく音がした。

(それや。それやったんか。腹が減らんかったのは、食事以外の方法でエネルギーを補ってたからや。精霊力っていうエネルギーを大気中から直接取り込んでたんか——だから飛べば飛ぶほど満たされる感覚があったんや。取り込み量が増えるから!)

「喋れないのか。それとも、話す気がないだけか」

 少し考えてから、もう一度問いかけてきた。

「——お前、もしかして、最近こっちに来たのか?」

(え、なんで分かったん。この人、何者?)

 桐子の動きが、止まった。

「なんとなくそんな気がしてな」と男は続けた。「ドラゴンにしては、立ち回りがどことなく人間くさい。怒り方も、逃げ方も。本能より、頭で考えている感じがする。そしてこの世界の基本的なことを知らない」

(……観察眼えぐい。ちょっと怖い。でも、ちゃんと見てくれてる)

 火が、パチリと爆ぜた。

 桐子はしばらく男を見つめた。それから、ゆっくりと首を縦に動かした。

 男は一瞬だけ目を見開いて、それからどこか納得したように息をついた。

「そうか」と言った。「ならば、ゆっくり話を聞かせてくれ。急がなくていい。まずは——食事は不要だったな。では、落ち着いて休め」

 焚き火の匂いが、洞窟に満ちていた。

(……なんか、信用してええ気がしてきた。根拠はと言われたら感覚なんやけど、研究者として感覚頼りはどうかと思うけど、でも今は)

 桐子は、自分でも気づかぬうちに、体の力を少しだけ抜いていた。

(この人の目、嘘ついてない目や)

(それに——精霊力の話、もっと詳しく聞きたい)




——この世界のことを、私はまだ何も知らない。

でもようやく、腹が減らへん謎が解けた。

それだけで、今夜は十分な気がした。

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