目薬
{__にて遺体を発見された__瀬戸円香さんの____部屋中血塗れで下半身は__}
「文字が読みづらいわね」
新聞を広げていた女はポツリと呟く。ふぅと溜息を吐き目頭を指で抑えてから目薬を両目に一滴ずつ垂らす。
「ママー!私のお弁当って」
「机の上に置いてあるでしょ」
「よかった!行ってきます!」
「いってらっしゃい」
バタバタと慌ただしく二階から駆け下りてくる少女は、勢い良くリビングのドアを開けた。言われた通り机の上に置いてある弁当の包みを手に持つと玄関へと駆け出す。
朝から慌ただしいわねと母親は思いながら手を上げて見送る。
「さっきのニュース…私の娘ぐらいの子ね」
チラリと新聞に目をやってから落胆気に呟く。娘が慌ただしく去った後にゆっくりとした動作でリビングに入室してくる男がいた。
「あなたの分のお弁当も机の上にあるわよ」
「ありがとう。行ってくる」
「いってらっしゃい」
男は礼を述べてから弁当を持ちリビングを後にする。最近夫婦らしい会話も無いわね、とボヤキながらも自分の仕事に取り掛かった。
専業主婦と言うのは楽そうに見えて実は楽では無い。普通に働いている人間からすると自由な時間も多く見えるが、そうでは無い時間の方が圧倒的に多い。
「あ、今日クリニックの日ね」
いつからだったのだろうか、通い始めて既に数ヶ月は経っている気がする。
買い物の帰り道にたまたま見掛けたクリニック。そこで目が良くなる目薬と言う謳い文句に惹かれて中に入った記憶は新しい。
実際その目薬を付けると数時間はとても快適だったのだ。ただ、かなり用法用量を守るようにと念を押された。たかが目薬でそこまで?とも思ったが、効き目はバッチリなので文句は無かった。
出掛けるために軽く身支度を済ませ立ち上がる。
玄関のドアを開けると陽の光が眩しい。
クリニックの予約はいつも同じ曜日、同じ時間だ。予約時間より大分早いために最近出来ていなかった散歩でもしようかなと思いに耽る。
自分の娘が高校にもなると、昔ほど手を焼かなくなる。寧ろ、手を焼きすぎると嫌われてしまうので手が出せないとも言える。旦那に関しては、長い付き合いの中でお互い干渉し過ぎないようにしてる気もしていた。
盛大な溜息を吐いて道なりに歩く。
ボーと歩くといつの間にか駅前に来ていた。そのつもりも無く歩いていたのに、何故かクリニックへと足を向けていたようだ。
予約している時間にはまだ早いわね、と時計を確認して目を見開く。たかが散歩に何時間掛けていたんだろうか。既に予約時間数分前だった。慌てたようにクリニックへと向かう。
ガラスドアを控え目に開けると、見慣れた景色があった。この受付の看護師が起きていた試しがあっただろうか?受付のカウンターの中で毎度見る寝こけた看護師に声を掛けようとする。すると、決まって奥から声が掛かる。
「山川さん、奥の診察室へどうぞ」
「あ、はい」
いつも通り奥へと通される。タイミングの良さを考えると監視カメラで出入り口をモニターしているのかも知れないと思っていた。
「失礼します」
「どうぞ、お掛けください。目薬の調子はどうですか?」
「とても良いです。ただ、今の目薬に慣れてきたのか少し効きが悪くなってきている気が、します」
「そうですか……では、少し効果が強めの目薬に変えますね」
話を聞きながら槙島はテキパキと動く。備え付けの戸棚から一つ目薬のケースを取り出して、袋へと手際良く入れていく。
「今度の目薬は効き目が強いので、1日1回の朝にだけ付けてください。必ず、用法用量を守ってくださいね」
「分かりました」
薬の入った袋を受け取りながら頷くと槙島はニコリと微笑む。数ヶ月約束を守り目薬をきちんと使う山川へ、槙島は明らかに“良い患者”と言う好意を向けていた。そんな事とはつゆ知らず、笑顔を向ける槙島へと女は愛想笑いを返した。
受付カウンターには既にあの看護師の姿は無かった。そこで槙島に会計を済ませて貰う。
ぺこりと軽く会釈してからクリニックを後にする。
夕飯は何にしようかとスーパーへと足を向ける。
***
目薬を変えてから数日、明らかに薬の効き目が強いことを実感していた。なので、しっかりと用法・用量を守ろうと誓っていた。だが、そんなある日の事だ。
普段からリビングの机に置きっぱなしにしているスマホが音を立てて鳴り出した。
慌てたようにそれを手に持ち画面を見れば旦那の名前。特に迷うこと無く通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
『あ!明子か。すまない、今朝持ってくるのを忘れてしまったんだが、書斎の俺の机にあるUSBを会社に届けてくれないか?』
「USBね?分かったわ」
『ありがとう、待ってる』
用件だけ伝えるとプツリと通話が切れた。家の二階にある旦那の書斎は、掃除以外ではあまり入らない。パタパタとスリッパの音を立てながら階段を駆け上がる。
「えっと、USBはと…あ、これね」
机にポツンと置かれた黒いUSBポートを持ち上げようとした瞬間、つるんと指から滑り落ちてしまった。あ!と声を上げる間もなく床へと落ちる。
はぁと落胆の声を上げ膝をつく。机の下に落ちたようで頭を屈ませ覗き込む。黒いUSBポートは机の影でよく見えない。目を凝らしてもどうにも見えない。
「今朝はもう目薬してるけど、今回だけしても良いわよね」
エプロンのポケットに仕舞っている目薬を手に取り少しだけ思案する。常に槙島に用法用量を守るよう言われていた。性格的にも多少の躊躇いはあったが背に腹はかえられない。旦那の為にと言い聞かせて目薬を付ける。
するとみるみる視界は良くなり暗がりでさえ明るく見える気がした。手を伸ばしてUSBポートを手に取る。
「……っ!ん?」
それと同時に急激な目への刺激を感じた。刺激と言うには鋭く、痛みと言うには余りに苛烈。
「ぐっ、ぅ……!!!」
プツプツ、と真空パックに空気が入っていくような、そんな音が目の奥から聞こえ鼓膜を震わせた。
目を開けてもいられず瞼を伏せ両手で眼球を押さえる。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
何で何で、何で?!!!
痛みを紛らわすためにも思考を巡らせるも、その思考を捻じ伏せる痛みが走り続ける。
目を押さえた手が押し返される感覚に囚われた。
ぐぐっとどんどん押し返される。自然と目が見開いた。
「っ、あ……あぁ゛あ゛ぁ゛!!!」
言葉にならない叫びが口から漏れ出る。目の周りの皮膚がメリメリとはち切れていくのが分かった。そのまま目は見開かれ眼窩から眼球が零れ出る勢いで膨れ上がる。
耳を劈く断末魔。
そんな音が口から飛び出ると同時にパンと言う破裂音。
膝立ちで上を向いている体勢だった身体は静かに痙攣する。
目があった箇所には真っ赤な液体とポッカリ空いた穴だけがあった。
「……非常に残念です、山川さん。貴方はとても素直な患者でした」
槙島はとてもとても残念そうな声音で女に話し掛けた。
未だに痙攣する身体を見下ろしてから、エプロンのポケットに手を差し入れて目薬を取り出す。
「だから、用法・用量はお守りくださいと言ったんですよ」
いつもの言葉を残し踵を返す。槙島が音も無く部屋から姿を消すと、血溜まりの中に取り残された女は床に倒れ込んだ。




