煙草
それは駅前と言う目立つ場所に建ちながら人知れず名店のような佇まいを見せていた。
色んな雑貨店が入る雑居ビルと飲食店との間、半間程の広さしか無い隙間に【槙島クリニック】と掲げられたそれはあった。本来の半間の広さは家屋の廊下程の広さだが、そこにあるクリニックとはどう言った物なのか患者しか分からないだろう。
そこに背広に眼鏡を掛けた男性が一人、行き慣れた場所のようにガラスドアを押しながら入っていく。
「すみません、予約の…また寝てる」
入って直ぐに受付と書かれたカウンターがあり、そこには年配の女性が居眠りしていた。その服装はワンピース型のナース服に紺のカーディガンを羽織っている。明らかに看護師と言う出で立ちだ。
受付を済ませないとと思い声を掛けようとすると、更に奥から聞き慣れた声が聞こえてくる。
「橋本さん、此方です」
ハスキーとまではいかないが、女性にしては少し低めの心地良い声音で自分の名前を呼ばれるとそれに導かれるように男は足を奥へと進める。
少し進むと一枚のドアがあり、それを軽くノックして中へと踏み入れる。そこは半間程しか無い空間ではなく、普通の病院の診察室程の広さになる。いつも思っている事だが、こんなに広い空間があるとは表の入口の狭さを考えると信じられない。
「あの受付…」
「あぁ、大丈夫です。昨日急患で川口さんには少し無理をさせてしまったので、此方で受付を済ませちゃいますね。支払いもいつも通りで」
「あ、はい」
この返事をするのも慣れたが実はあの看護師、川口と言う女性と言葉を交わしたことが無い。いつも入ってくると居眠りをしていて、呼び起こそうとすると今日のように声が掛かるのだ。それに毎度おかしいなと思いながらも、目の前の女医からの診察を受けているとどうでも良くなるのだ。
そして、自分の診察が終わると必ずその川口と言う看護師の姿は無く先生自ら会計を済ませる。
その間、待ってる患者なども居ないから待たせると言う概念も無いのかも知れない。
「橋本さん、どうですか。処方した薬で少しは改善出来ていますか?」
「はい、禁煙を無理なく続けられている気がします。最初はどうなるかと思ったんですが」
「それはよかった。お子さんが産まれる前に禁煙をしてと言われていたんでしたね」
「はい……ただ、最近少しストレスも溜まっているのかどうしても、と言う時も増えてしまって」
「なるほど」
カルテを見ながら女医、槙島は何か悩む素振りを見せる。
槙島が言うように、子供が産まれる前に禁煙をしろと奥さんに急かされていたのだ。ただ、今懐妊していると言う訳でも無かった。結婚してから早数年経つが、奥さんと橋本の間に子供が授かることは無かった。どちらも子供を欲しているにも関わらずだ。その為、不妊治療をしている。そのせいか当たり散らされる事も増え、自分のストレスも増えて煙草に手を出してしまう事が増えてしまった、と言う事らしい。
ここに関しては槙島自信関与は出来ない。だから、一つだけ思いついた提案をして見せた。
「橋本さん、一箱特別処方の煙草をお渡しします。此方は1週間に1回の使用、1週間頑張ったご褒美と思って吸ってください。但し、誤った使用をすると体に悪影響を及ぼします、これは普通の煙草と一緒ですね。なので、用法・用量をお守りください。良いですね?」
槙島は立ち上がると戸棚から一つの薄水色の箱を取り出す。それを橋本へと差し出すと頷きながら橋本はそれを受け取る。
「分かりました、1週間に1回ですね」
「必ず、用法用量をお守りください」
念を押すように告げる。それにもう一度頷き診察を終えたように立ち上がる。
「では、煙草代を含みますので料金が少し変わります」
「はい」
「予約は来週の同じ時間で良いですか?」
「大丈夫です」
「では、また来週お待ちしております」
それだけを告げると軽く会釈して槙島は診察室へと戻っていく。橋本も渡された煙草といつもの薬を手にクリニックを後にする。
***
家に帰るといつも通り妻がおかえりと迎え入れてくれる。この瞬間は幸せだと思うが、最近は病院で起きた愚痴などをよく聞かされる。一度や二度ならそこまで気にならない愚痴も毎日言われれば流石にウンザリもする。そのせいか、前より煙草を吸う回数が増えた気がする。
ただ、妻の目の前で吸うと文句を言われるのは分かっていた。いつもなら我慢して次の日会社で吸うはずが、今日処方して貰った煙草が気になり妻の目を盗みベランダへと出ると煙草を一本取り出した。
シュポッとライターを付け煙草に火を付け息を吸い込む。ジジッと燃えていく音が微かに聞こえ、煙が揺蕩う。
その瞬間、初めての感覚が橋本を襲う。
「あ、ぁぁ……」
楽園とはこう言う事か、と言わんばかりの恍惚とした表情を浮かべる。この初めての感覚に体は軽くなる。先程まで苛立った気持ちがあったにも関わらず何もかもどうでも良くなっていた。
もう一吸い。
吐き出す煙さえ勿体なさを感じる。
更にもう一吸い。
今度は肺の奥まで行き渡らせるように吸い込み、煙を楽しむ。
更にもう一吸い、と口を付けようとした瞬間窓の向こう側からガチャッと言う音が聞こえ、慌てて火を消し何食わぬ顔で屋内へと戻る。
あぁ、勿体ない。と言う想いを残したまま。
「あら、あなた外に居たの?」
「あ、あぁ…」
「寒いんだから空気の入れ換えも程々にしてよね」
妻は自分が吸わない分煙草の臭いには敏感だった。その妻が何も言ってこない。それは今吸った煙草からはあの特有の臭いがしていないと言う事だと分かった。
橋本は口元が歪むのを手で押さえる。不気味な程に気の緩む笑みを隠すように。
***
会社で普通の煙草を吸う気が起こらなかった。それどころかストレスさえ何も感じない。晴れやかな気持ちが強かった。
前日吸った最高の煙草のお陰だと直ぐに分かる。ただ、先生に念押しをされてしまった手前本数を吸うわけにもいかずにグッと堪える。堪えた分、嬉しさと快楽が得られると知っているから。
それからがむしゃらに毎日を頑張り予約の日になり、いつも通りクリニックへと足を向ける。
毎回の事だが、川口は居眠りをしている。そして、奥から先生の声が掛かるのも毎度同じだった。
「橋本さん、きちんと約束は守れていますね」
「はい!最高の1週間を感じています」
実はあの煙草を処方されてから早くも二カ月が経とうとしていた。勿論、1週間に1回の約束は守られている。ただ、少しずつ物足りなさを感じていた。もっと吸いたいと思ってしまっている自分がいる。
「では、次の予約を」
「先生!来週は出張が入るために来られないので、煙草の方多く出して貰えませんか?!」
「……分かりました。ですが、用法用量をお守りください、良いですね?」
本来なら一本ずつの処方ではなく、十本入りの箱を毎回処方されているために余っていた。それを分かっていながらのお願い、そして分かっていながらの承諾だった。
そして、槙島は二箱手に取ると橋本へと手渡す。
「橋本さん、絶対に用法・用量をお守りください」
何回目かも分からない念押しをされる。それに頷きながらも既に自分はご褒美の煙草が吸いたくて堪らなかった。
いつも通り会計を済ませると足早にクリニックを後にする。
駅の喫煙所で煙草一本に火を付ける。
ふぅと一息を吐かせる。この感覚が堪らなく好きだった。ストレスは然程無いにも関わらず気持ち良さを感じる。
一本吸いきると帰路へと就く。
***
家に帰り着いてドアを開けるといつものおかえりの声が聞こえない。
靴を脱ぎながら中へと入ると机には置き手紙と出来上がったおかずが置かれていた。
「あぁ、同窓会って今日だったか」
温泉旅館に一泊の同窓会だったはずだなと思考を巡らせる。準備されていたおかずでご飯を食べながらテレビを見る。
本来ならそれで満足するはずが、今日は口煩い妻も居ない上に多めに煙草も処方された。
この機会を無くすわけにもいかない。そう思いご飯を食べ終えると煙草に一本火を付ける。臭いが付かないことは何回か繰り返したことで立証済みだ。リビングで寛ぎながら煙草を吸う。
一本吸い終わるともう一本、更にはもう一本と手が止まらない。歯止めが利かないとはこう言う事なのかも知れない。いつの間にか灰皿が一杯になってしまっていた。
流石に一日でこの量は、ヘビースモーカーの比じゃ無いなと苦笑いを浮かべて立ち上がる。いや、立ち上がったはずだった。
ぐらっと立ち眩みするように膝をつく。肺が息苦しい。おかしい。
「……っ、はっ」
肺に酸素がいかないように息がし辛い。
その時、胸にズクリとした痛みを感じ胸元を押さえる。服の上からジワリと赤い色が広がっていく。
「ぐっ、ふ……」
息がし辛いどころか口からは赤黒い血が吹き零れてくる。鼻からも口からも呼吸が出来ない。
目の前が赤く染まっていく。
途切れていく意識の中、部屋には何故かあの女医が立っているのを確かに男は見た。
そこで男の意識は完全に事切れた。
女医、槙島は残っていた煙草の箱を回収すると口元に人差し指を当ててほくそ笑む。
「だから、用法・用量はお守りくださいと言ったんです」
橋本は実は約束を守っていたのは最初の数週間だけだった。それ以降は1週間に1回とは言わずに毎日一本ずつ吸っていたのだ。時間があれば一日二回の時もあったのだ。
槙島はその言葉だけを残し姿を消した。元からそこには槙島が居なかったかのように、家の内鍵は閉められていた。




