07話
アシュベル
目を覚ますと、薄曇りの朝だった。
おもむろに、自分の右手を天井にかざす。確かに温かく体温を感じる指先を折り曲げては、伸ばした。
まだ、生きている。
数日意識がなかったと聞かされた時は大袈裟に言っているのではないかと疑ったが、起き上がるのもやっとになってしまったこの体が真実だと物語っている。
部屋にはまだ、練茶の調合台と道具が全て置かれたままになっていた。
昨夜、俺がティーカップ一杯のお茶を時間をかけて飲み干し落ち着いた後、兄とルークがこの部屋で、改めてじっくりと事情を話してくれたのを思い出す。
俺が何日も目を覚まさず、城の練茶士たちもなす術がなかったこと。
体から発される冷気は強くなる一方で、医師から余命宣告をされたこと。
城に届いた噂を元に、街で「奇跡を起こした」と評判の練茶士を連れてきたこと。
そしてその練茶士が、俺にも奇跡を起こしたこと。
事情を知っていた誰もが半信半疑の中、唇に何度か塗っただけのお茶で俺の意識が戻ったのだと最後に説明されたとき、押し寄せたのは後悔の波だった。命の恩人に対して、自分が咄嗟に取った行動はあってはならないものだ。
体温が下がり、冷気を発し始めると、俺の体に触れる相手にも危険が及ぶ。そのせいで、善意で手を差し伸べてくれた何人もの人を傷つけた。
数年の闘病生活の中で、触れられること自体に恐怖を覚えるようになりいつしか反射的に激しく拒絶するようになった。
思うように動かず、戦に出るどころか自分自身の生活さえ満足に送れない体を持つ不甲斐なさから、側近や侍女たちに当たってしまうことさえある。
元々社交的ではない性格から人と接する機会を減らしていた環境の中、コントロールできない感情に嫌気がさし、さらに自分から距離を置くようにした。
そのうち、俺に向けられるのは彼らの腫れ物に触るような気遣いと、怯えた表情ばかりになっていた。
「アシュベル様、ヴィクターです」
部屋にノックの音が響き、声が聞こえた。「あぁ」と返事をすると、扉が開く。
俺が意識を失ってからずっとつきっきりで看病してくれていたために、昨日一日だけ暇をやったのだと兄貴が言っていた、側近の顔が見えた。
「お体の具合はいかがですか」
「あぁ。まだ動きづらいが、問題ない」
「そうですか、それは本当に、本当に良かった」
穏やかに微笑む彼の目元には年齢相応の皺があり、顔色は少し青白い。ヴィクターは生まれた頃から俺の世話をしてくれている執事であり、王族としての公務でも補佐をしてくれている側近でもある。周りの使用人たちの中で唯一、俺を見放さずにいてくれた存在と言っても過言ではなかった。
俺がゆっくりと体を起こし壁に背を預けるのを、枕を整えて補助してくれる。
「ずっと付きっきりだったのだろう」
「当然のことをしたまでです。坊ちゃんが目を覚ました時に傍にいられなかったことを悔やんでいます」
「坊ちゃんはやめろ」
「そうでした。私の口がつい」
銀色の髭を蓄えたヴィクターが口元に手をやり、「ほっほっほ」と笑う。
もう成人してしばらく経つというのに、彼だけがまだ幼少の頃からの呼び方をする。やめてくれと言っているのに、こうして二人きりの時だけたまに「坊ちゃん」と呼んでくるのだ。間違いなく確信犯だと思っている。
彼が水差しからゴブレットに注いだ水を受け取り、飲み干した時、再び扉をノックする音が聞こえた。
「アシュベル殿下、ルークです。昨夜の練茶士を連れて参りました」
「あぁ……入れ」
ふう、と息を吐く。
ヴィクターがゴブレットを置き、扉を開けに行った。ゆっくりと開く扉の先から、騎士団の白い正装をしたルークと、その後ろに彼女の姿が見える。
兄が侍女に用意させたのか、彼女は薄いオレンジのシンプルなドレスを着ており、昨日の記憶とは雰囲気が異なっていた。
「アシュベル殿下、改めてご挨拶させていただきます。練茶士のエトーリアと申します」
「……あぁ」
「昨夜は、殿下のご容態を鑑みず、場を乱すこととなり申し訳ございません」
彼女はドレスの腰あたりで両掌を組み、深く頭を下げた。
先ほどから胸の中で黒くざわついていた後悔が、喉から口へと込み上げてくる。
「……頭を上げろ。お前が謝る必要はない」
ゆっくりと姿勢を戻した彼女は、俺を見つめて唇をまっすぐに結んでいた。
「昨日は、俺が悪かった」
「そんな……殿下のせいではありません」
「怪我はなかったか」
緊張からか、ぎゅっと指先に力が入っているその細い腕に視線をやりながら聞くと、彼女は少し目を見開いて意外そうな表情をした。
はい、と短い返事があり、安堵する。
「あの、殿下、お体の具合はいかがでしょうか」
「あぁ。おかげで随分回復したようだ」
俺が答えると、神妙だった彼女の表情は、ほっとしたようにふわりと笑顔に変わる。まるで可憐な花のように、他意のない純粋な微笑みだった。
長い間、ほとんど動くことをやめているのではないかと思っていた心臓が、どくんと跳ねる。
「アシュベル殿下。今後も念の為、朝と晩、お茶を飲んでいただきたいのです」
「……それは、お前が淹れてくれるのか」
「ええと、……」
思わず口から出た問いかけに、彼女は2、3度瞬きをして、答えを求めるように少し離れて立っていたルークへと視線を向けた。
「殿下。彼女はまだ、」
「俺はお前がいい」
ルークの言葉を遮るように言うと、彼女は俺の方を向き、目を丸くする。
「お前が淹れたものしか、飲むつもりはない」
俺がそう発してから、彼女が返事をするまでの数秒感があまりにも長く感じたのは、断られるかもしれないという恐れがあったからだろうか。
命令として出してしまえば立場上断ることはできないはずだが、彼女の意思を完全に無視して強制するのは気が引ける。
彼女は俺の真意を推しはかるかのように見つめて、心を決めたように口を開いた。
「わかりました。ありがたく務めさせていただきます」
一礼した彼女がこちらに向ける表情は柔らかな微笑みをたたえていた。
「エトーリア様」と彼女の名前を呼び、ヴィクターが胸に手を当て、すっと会話に入ってくる。
「アシュベル殿下をお救いいただき、誠にありがとうございます」
「い、いえ。私は本当に、何も」
「そんなご謙遜を」
「ただお茶を淹れただけですから」
深々と頭を下げるヴィクターに眉尻を下げながら対応する彼女のそれは謙遜しているというよりも、本当にそう思っているかのように見えた。
「あの、アシュベル殿下。お体の様子を確認したいので、お手に触れてもよろしいでしょうか」
「あぁ。構わない」
俺がそう返事をしたことに、ルークが驚いているのがわかった。今は人に触れられても怪我をさせるような体ではないことは自分で判断ができている。
彼女はベッドへ二歩近づくと、そっと俺の左手首に自分の手を添えた。
「手のひらを見せていただけますか」と穏やかに言われ、左手を裏返す。彼女が体温と血色を確かめるように、自分の指先を当てた。
その指先から伝わる彼女の温度は温かく、人に触れられることを避けてきた厚い氷が、わずかに溶けていくような感覚を覚える。
「ありがとうございます。まだ少しお体が冷えていらっしゃるようなので、よく温まるお茶を淹れますね」
彼女はそう言うと手を離し、昨日からそこに残されていた調合台へ向かおうと背を向ける。
引き止めるように、「そういえば」と声をかけた。
「昨日のお茶はなにか、甘い香りがしたんだが」
「はい。飲みやすくなるよう、少し果実を入れました。お嫌いでしたか?」
期待通り彼女はこちらを振り返り、質問の意図を探るように眉尻を下げる。
「いいや。気に入った。あれがいい」
それは間違いなく、本心だった。王宮練茶士が調合するお茶は苦すぎるのだ。
効果が強いほど苦くなるとわかっていても、毎日飲まされている身としてはお茶の時間が来るのが苦痛だった。しかし昨日、彼女が淹れたお茶に苦味はほとんどなく、それどころか甘く優しい香りがした。
お前が淹れたものがいいと望んだのは、そんな子どもじみた理由も含んでいる。
彼女が微笑み、「では今日も同じものを入れますね」と答えて調合台の前に立った。これからは毎日、朝と晩に、この時間がやってくる。
今にも雪の降り出しそうな重く暗い雲だらけだった心に、一筋の光が差すような気がした。




