20話
ルーク
薄い雲がまばらに広がる空はよく晴れ、心地よい風が吹いていた。その風に乗って、ほのかに甘い花の香りがする。
フィロー様の茶葉園で、手書きのメモを確認しながらはさみを手に収穫をする彼女の隣で、植物の手入れをしていた。
王宮全体の護衛として騎士団で一日を過ごしていたあの頃からは考えられない仕事内容だ。
「ルーク、見てください。こんなにたくさん獲れました」
「ええ。こちらも、もう少しで剪定が終わります」
そんな取り止めのない会話をしながら、穏やかに時間が過ぎていく。無論、彼女の護衛として常に一定の緊張感は持ち合わせているが、戦闘訓練と比べれば精神的にかなりゆとりがあると言っていい。
彼女は殿下から贈られた薄いベージュのブラウスと深いワインレッドのスカートに身を包んでいた。昨日までのドレス姿よりもずっと動きやすそうで、何より店で働いていた頃を思い出すような自然体であることに、ふと見惚れてしまいそうになる。
ただ、その服を送ったのが自分でないことだけが胸に靄がかかったような感覚になる要因だった。
近々、彼女のフィロー様との訓練も一日休みをもらって、二人で街に出かけようと考えていたのだ。店に手伝いに出ている王宮練茶士たちにも会ってもらい、その後は彼女の王宮での生活に必要なものを買い揃えようと予定していた。
ライアス殿下が最初に用意させたドレスが、着慣れていない彼女にとって少し重荷になっていることは気づいていたのに。
この国の第二王子に対して、先を越されてしまった、と考えるほど格好がつかないことはない。
アシュベル殿下は、彼女のことを王宮練茶士以上の存在として扱っている。彼女が殿下に会ってからというもの、これまで彼を覆っていた人に対する棘が日に日に削られていっているようだった。
もしかして彼は、エトーリアに対して自分と似たような感情を抱いているのではないか。
「殿下はエトーリア様のことがお好きなんですね」というあの日のアナの言葉が頭の中で反芻した。
「ルーク」と優しい声で呼ばれ、ぐるぐると巡っていた思考が止まる。
はっとして声の方向を見れば、エトーリアが数本まとめた花の束をこちらへ差し出していた。
「これ、すごくいい香りがするんです。ほら」
「……本当ですね」
私が鼻を寄せて香りを吸い込み、同意すると、彼女は得意げに微笑んだ。それを見て、私もふと気が抜けてしまう。昨日の服飾店の店主への振る舞いといい、彼女は人の心をポジティブにさせる才能があるのだろう。
「そろそろ、香茶宮へ帰りましょうか。フィロー様も戻られているかもしれません」
「はい。早くこの花で練茶したいです」
「アシュベル殿下のお茶にも加えてみようかと思うんです」と彼女は目を細めて言い、胸の奥がぎゅっと掴まれるような感じがした。こんな些細なことで気持ちが揺れるなんて、私らしくもない。
彼女が腰を折り、収穫した材料の入った籠を持ち上げようとした時、庭園の入り口にふたつの人影が見えた。咄嗟に、彼女と人影の間に立ち、「動かないで」と小声で指示する。
「ルーク……?」
「誰か来ました」
大丈夫です、と付け足すように言う。人影が誰なのか確認できるまでは、警戒を怠ることはできない。私の背後で、彼女が少し緊張しているのが伝わってきた。
一歩ずつ確実にこちらへ近づいてきているその姿に、はっとする。長身で、威厳を感じさせる堂々とした歩き方。どこか、ふたりの王子に似たシルエット。
「エトーリア様、王があなたに会いに来られたようです」
「……え?」
「いつも通り、挨拶をしてください。あちらも二人だけのようです」
王宮内とはいえ、王が外出時に側近ひとりだけを連れて出ることなど見たことがない。よほどのことがない限り、ぞろぞろと使用人や騎士を引き連れているはずだ。
つまり、エトーリアに警戒心を与えないようわざわざ向こうから会いにくるというのは、彼にとって彼女の存在が”よほどのこと”であるということを意味している。
王がこちらを視認したのとほぼ同時に、私が片膝をつき、彼女が隣でスカートの裾を持ち膝を折る。深々と頭を下げる私たちの数歩先で、王が「おや」と口を開いた。
「ふたりとも、顔を上げてくれ。すまない、気を使わせてしまったね。」
「いえ、とんでもないことです」
「ルーク、そちらのお嬢さんに挨拶をしてもいいかな」
「もちろんです」
私の許可など取る必要はないのに。ここまで低姿勢で接してくる王は初めてだ。
隣に立つ彼女が王の態度に緊張が薄れていくのと比例して、私の警戒心が増していく。
「初めまして、エトーリア。ここに来れば会えるとフィローに言われてね」
「初めまして、国王様。お会いできて光栄です」
「挨拶が遅くなってすまない。君が城に来てから随分と時間が経ってしまった」
「いえ、そんな」と彼女が首を振る。
確かに、国王はどちらかといえばライアス殿下のように穏やかな話し方で、大らかな印象を持っている国民や従者も多い。ただ、側近や騎士団員は為政者としての堂々とした、時に冷酷にも感じる振る舞いを幾度となく目にしてきた。
少なくとも、こんな風に王が下手に出て話すのを、私は見たことがない。
私が王付きの騎士ではなく、日常のより素顔に近い姿を見て来なかったからかもとも考えられるが、胸がざわつくのを感じた。
「君の尽力には心から感謝している。この国の王としても、ひとりの父としても。」
王が朗らかな表情を真剣な眼差しに変える。
「アシュベルを、あの子を救ってくれて有難う」
すっと差し出された手に、彼女が慌てて自分の両手を差し出した。
彼女の白く細い指先は、王の手のひらに包まれ見えなくなる。力強く握られるその手に込められた感謝以外の意味を考えてしまうのは、行きすぎた警戒なのだろうか。
王も人の子なのだから、息子であるアシュベル殿下の命が救われたことに、恩を感じていないわけではないだろう。
彼は、人を萎縮させることも敬服させることも容易いその目で、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「実は、……君主として自らこの話をするのは恥ずかしいことなのだが。我が国を取り巻く環境は盤石ではないんだ」
そう彼が口にした瞬間、やはり、と思った。
ただ感謝を伝えにきただけではない。彼女が持つテア・ヴィータの力の根源は”純粋な願い”。
それを最大限に活用するため、
彼女の心を、国の忠誠心に結びつけるために。
「君も知っていると思うが、東の隣国であるレントとは、緊張状態が続いてる」
「……はい、存じております」
うむ、と頷いた王は、一度足元に目をやり、それから再び彼女に視線を戻す。
「エトーリア、私はこの国の未来を守りたいんだ。周辺国と争って国土を広げたいとか、莫大な富を持ちたいなどとは微塵も考えていない。ただ、この国のいく先で、これからも皆が幸せに笑っていられるような世界を作りたい」
はい、とエトーリアが返事をする。
彼女の表情は、王の言葉に安堵するように緊張を解き、わずかに微笑みを浮かべていた。
「これからも、君の力を国のために使ってはくれないだろうか」
「国王様……」
「どうか、よろしく頼む。」
彼女の返事を聞く前に、王は頭を下げる。
私とエトーリアは同じように目を見開き、顔を上げるよう同時に声をかけた。
「もちろんです。私でよければ、いくらでも」
その返事を彼女が口にした途端、顔を上げた王が、「そうか、ありがとう」と目を細め、感激した様子で再び彼女の右手を取った。
まるで意思を確認するように、ぐっと握られた手は、二、三度揺らされ、解放される。




