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第十九話 贖罪の旅路

浩一は、ジェイクから渡された分厚い封筒を握りしめていた。その重みが、ただの札束の重みではないことは、彼自身が誰よりも理解していた。それは、あの夜に流れた血の、そしてこれから背負うであろう罪の重さだった。ポケットの中の封筒が、彼の体温を奪い、凍てつかせていく。ポート・ノーウェアの空は、今日も煤けた灰色だった。太陽の光は、分厚い雲と汚染された大気に阻まれ、地上に届くことはない。まるで、この街に住む者たちの希望を、初めから許さないかのように。


「行くのか?」


アジトの入り口で、メイ・ファンが静かに尋ねた。彼女の瞳は、まるで深淵を覗き込むかのように、冷たく澄んでいた。浩一は、振り返らずに答えた。


「行きます。これは、俺の仕事ですから。」


彼の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。それは、覚悟を決めたからなのか、それとも、もう何もかもどうでもよくなったからなのか、彼自身にも分からなかった。メイ・ファンは、それ以上何も言わなかった。ただ、彼女の視線が、浩一の背中に突き刺さっているのを感じた。


スラム街へ向かう道のりは、まるで生きた地獄だった。ひび割れたアスファルトには、汚れた水が溜まり、腐敗した匂いが鼻をつく。錆びついた鉄骨の建物からは、奇妙な音が聞こえてくる。それは、風の音なのか、それともこの街に住む者たちの呻き声なのか、浩一には区別がつかなかった。彼は、ただ前を向いて歩いた。あの小さな花が植えられた掘っ立て小屋へと。


彼の心は、嵐の中にいるようだった。自分が殺した男の家族に、どう顔を合わせればいいのか?「あなたの家族を殺したのは私です」とでも言うのか?いや、言えるはずがない。そんなことを言えば、彼らは浩一を、悪魔のように憎むだろう。そして、浩一自身も、自分を許すことができなくなる。


だが、ジェイクは言った。「お前は、この男を殺すことで、彼らの家族を救ったんだ」と。本当にそうなのだろうか? 暴力教会の信者である彼らが、この街の闇から救われる。それは、誰かの死によってもたらされた、歪んだ救済だった。


浩一が掘っ立て小屋に近づくと、少女が外で遊んでいるのが見えた。彼女は、汚れた服を着ていたが、その顔には、一週間前にはなかった、わずかな生気が宿っていた。浩一の心臓が、激しく高鳴る。彼は、少女に見つからないように、陰に身を隠した。彼の足が、まるでコンクリートで固められたかのように、動かない。


「お兄さん!」


突然、少女が浩一に駆け寄ってきた。彼は、驚き、そして戸惑った。


「どうしてここに?」


少女は、浩一の顔を、まるで救世主を見るかのように見つめていた。その瞳は、一点の曇りもなく、純粋だった。浩一は、言葉に詰まり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


「お兄さんがくれたお金で、おばあちゃんと、遠い街に行くことになったんだ。お父さんがいなくなって、悲しいけど、お兄さんのおかげで、私たちは助かったんだよ」


少女は、笑顔で浩一に言った。その笑顔は、浩一の心を深く抉った。彼の心の中には、少女の笑顔と、自分が殺した男の絶望に満ちた顔が、交互に現れる。


その時、老女が小屋から出てきた。彼女は、浩一の顔を見て、深くため息をついた。


「また、来てくれたのですね。本当に、あなたには感謝しています。」


老女は、そう言って、浩一に頭を下げた。浩一は、その行為に耐えられなかった。自分が殺した男の家族から、感謝される。それは、彼にとって、何よりも重い罰だった。


「いえ…」


浩一は、絞り出すように言った。


「私たちのような人間は、誰かの死によって、生きることが許される。それが、この街の掟なのですよ。」


老女は、そう言って、浩一に静かに微笑んだ。その微笑みは、浩一の心を、深く抉った。


浩一は、老女と少女を連れて、スラム街を後にした。彼らは、ジェイクから渡された地図に沿って、この街の唯一の脱出口へと向かう。それは、廃墟となった地下鉄の駅だった。


「ここが、この街の脱出口です。ここから、別の街に行く電車に乗ってください。」


浩一は、老女と少女に言った。


「ありがとう、お兄さん。いつか、また、会えますか?」


少女は、浩一に尋ねた。


「また…会えるよ。」


浩一は、嘘をついた。彼は、二度とこの街に戻ることはないだろう。そして、二度と、この少女に会うことはないだろう。


その時、浩一の背後から、男たちの声が聞こえた。


「見つけたぞ!裏切り者め!」


浩一は、振り返った。そこには、数人の男たちが立っていた。彼らは、浩一が殺した男の仲間たちだった。彼らは、浩一を、憎悪の目で睨んでいた。


「お前は、この街の掟を破った。死をもって償ってもらうぞ!」


男たちは、そう言って、浩一に銃を向けた。浩一は、老女と少女を庇うように、前に出た。彼の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いている。


「走って!」


浩一は、老女と少女に叫んだ。


彼らは、浩一の言葉に従い、地下鉄の駅へと走り出した。浩一は、男たちに向かって、銃を構えた。彼の心は、激しく揺れ動いた。


「俺は、交渉役だ。交渉役は、銃を撃たない。だが、交渉役は、銃を撃つ」


浩一は、ジェイクの言葉を思い出した。彼は、銃の引き金を引いた。銃声が響き、男たちは、その場に倒れ込んだ。


浩一は、自分の人生が、もう二度と元に戻らないことを、改めて悟った。


「お前は、もう、普通のサラリーマンじゃない。お前は、俺たちの仲間だ」


ジェイクの声が、浩一の耳に、まるで呪文のように響いた。彼の心の中で、何かが崩れ落ちる音がした。

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