第十七話 血の盟約の代償
浩一の心臓は、まるで錆びついた時計のように、不規則なリズムを刻んでいた。昨夜の悪夢が、現実の冷たい空気となって彼を包み込む。白いシャツに飛び散った血痕は、洗っても落ちない彼の罪悪感の象徴だった。ジェイクは、そんな浩一の様子を冷たい目で見ていたが、その日の朝、彼は意外な命令を下した。
「スラムへ行く。ただし、今回は仕事じゃない。お前には、あの男の家族に会いに行ってもらう。」
浩一は言葉を失った。あの男、自分が殺した男に家族がいた? 彼は、裏社会の人間であり、交渉の邪魔をする者だと聞かされていた。だが、浩一にとって、彼はただの人間だった。喉が渇き、声が出ない。ジェイクはそんな浩一の内心を見透かすかのように、冷酷に付け加えた。
「これは、お前への試練だ。お前が俺たちの仲間になったことで、お前を狙う奴らが必ず現れる。彼らの目をくらますため、そして、お前の覚悟を固めるために、お前は自ら血の轍を辿らなければならない。」
浩一は、ジェイクの言葉の意図を測りかねた。なぜ、そんな無駄なことを? 彼の疑問に答えるかのように、ジェイクは地図を差し出した。赤い丸で示された場所は、あの殺人が行われた場所からほど近い、さらに荒廃した一角だった。
ポート・ノーウェアの街は、昼間でも薄暗く、空は常に煤けた色をしていた。浩一は、ジェイクとメイ・ファンの後ろを、ただ無言で歩いていた。彼の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いている。前回と同じ場所、同じ空気、そして同じ重みが、彼の心に重くのしかかる。
「あそこだ」
ジェイクが指さした先に、一軒の掘っ立て小屋があった。周囲の廃墟とは異なり、小さな花が植えられ、古びたドアには手作りのリースが飾られている。そこだけが、まるでこの街の闇から切り取られた、別の世界のようだった。
ジェイクは、浩一の背中を押し、耳元で囁いた。
「行け。交渉人として、お前の言葉が試される。」
浩一は、震える手でドアをノックした。しばらくすると、ドアが開き、中から一人の少女が顔を出した。年齢は十歳くらいだろうか。汚れた服を着ていたが、その目は澄んでいて、浩一の心を射抜いた。
「何か、ご用ですか?」
少女の声は、震えていた。浩一は、男の顔が脳裏に蘇る。あの男の最後の絶望に満ちた顔が、この少女の顔と重なる。浩一は、何も言えなかった。彼の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いていた。
「俺は…あの、君のお父さんに、借りがあるんだ。」
浩一は、なんとか言葉を絞り出した。少女は、少し顔を曇らせた。
「お父さんは、もういません。先週、出かけたきり、帰ってこないんです。」
その言葉を聞いた瞬間、浩一の頭の中で、何かが崩れ落ちる音がした。少女は、何も知らない。浩一は、言葉に詰まり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
その時、中から一人の老女が出てきた。彼女は、浩一の顔を見て、何かを察したようだった。彼女の目には、深い悲しみが宿っていた。
「あなたは、あの人たちに雇われたのですね。」
老女の声は、まるで枯れた葉っぱのようだった。浩一は、何も言えなかった。
「お父さんは、この街の闇に手を出してしまいました。それは、私たちのような人間には、決して許されないことでした。」
少女は、老女の言葉を理解できず、ただ戸惑っている。
「あなたが、私たちを助けるために来たのなら、私たちは喜んで、あなたのお手伝いをします。」
老女は、そう言って、浩一に一枚の写真を見せた。そこには、浩一が殺した男と、少女、そして老女が笑顔で写っていた。浩一の心は、激しく揺れ動いた。
「俺は…」
浩一は、言葉を失った。
その時、浩一の背後から、ジェイクの声が聞こえた。
「交渉は成立だ。次は、お前の番だ、コウ。」
ジェイクは、そう言って、浩一に一通の封筒を渡した。封筒の中には、札束が入っていた。
「これを渡し、彼らの家族を、別の街に移住させてやれ。それが、お前の最初の仕事の代償だ。」
ジェイクは、そう言って、浩一の肩を叩いた。その手は、まるで鉄のように硬かった。
浩一は、老女と少女に、札束を差し出した。老女は、一瞬ためらったが、浩一の目を見て、受け取った。
「ありがとう、お兄さん。」
少女は、笑顔で浩一に言った。その笑顔は、浩一の心を深く抉った。
その日の夜、浩一は屋上で一人、ポート・ノーウェアの街を眺めていた。あの少女の笑顔が、頭から離れない。白いシャツに飛び散った血痕が、彼の心を深く抉る。その時、後ろから声がした。
「人を殺すのは、慣れたか?」
振り返ると、そこには、メイ・ファンが立っていた。彼女は、月明かりを浴びて、まるで幻のように見えた。
「まだ、慣れません」
浩一は、正直に答えた。
「当たり前だ。だが、この街じゃ、誰もが何かを殺す。夢や希望、そして、時として命をな。」
彼女の言葉は、冷たく、それでいてどこか優しかった。
「俺は、そんな人間にはなりたくない」
浩一は、メイ・ファンに言った。
「そんなことは、どうでもいい。お前は、もう、ただのサラリーマンじゃない。お前は、俺たちの仲間だ」
メイ・ファンは、そう言って、浩一の肩を叩いた。その手は、まるで鉄のように硬かった。




