第百十六話 マルタの憤怒と、クロエの決意
コウは、クロエと並んで、路地裏を疾走していた。彼の腹部の傷は激しく痛み、右腕も動かすたびに悲鳴を上げた。それでも、彼の足は止まらなかった。ロベルトから託されたメモを胸に、ただホアキンとマルタの元へと急ぐ。クロエは、彼を気遣うように、時折横目で彼の様子を窺う。
「大丈夫?」
彼女の声は、心配を滲ませていた。
「…ああ…」
コウは、辛うじて頷く。しかし、彼の表情には、痛みに耐える苦悶の色が浮かんでいた。
「無理しないで。私が前を走るから」
クロエは、そう言って、彼の前に出る。彼女の背中は、まるで城壁のように大きく見えた。コウは、その背中を追いながら、再び走る。
その頃、マルタとホアキンは、路地裏を走り続けていた。ホアキンは、マルタの腕の中で、恐怖に震えながら泣いていた。
「…お母さん…」
「…大丈夫よ…ホアキン…」
マルタは、そう言って、ホアキンを強く抱きしめる。
その時、彼女たちの背後から、再び銃声が響き渡る。
「…まだ…いる…!」
マルタは、焦りの表情で振り返る。男たちが、彼女たちを追いかけてきているのが分かった。彼らの数は、先ほどよりも多い。
「…くっ…!」
マルタは、舌打ちをする。その時、彼女の目に、近くの建物に続く扉が映った。
「…ホアキン…!あそこよ…!」
マルタは、そう言って、ホアキンを抱きかかえ、その扉へと走り出す。
コウとクロエは、マルタたちの銃声を聞きつけ、彼らのいる場所へと向かっていた。
「…急がないと…!」
コウは、そう言って、痛みを無視して速度を上げる。クロエもまた、彼の後を追うように、さらに加速する。
路地裏の角を曲がった瞬間、彼らの目に、銃撃戦を繰り広げている男たちの姿が映った。男たちは、マルタたちが隠れた扉を狙い、銃弾を浴びせていた。
「…マルタ…!」
コウは、叫び、男たちへと向かって走り出す。
「待って!」
クロエが、コウを制止する。
「…無闇に突っ込んでも…危険よ…」
彼女は、そう言って、周囲の状況を冷静に分析する。男たちの数は、およそ10人。彼らは、建物に身を隠し、マルタたちが隠れた扉を狙っていた。
「…どうする…?」
コウが、クロエに問いかける。
「…私たちが…陽動になるわ…」
クロエは、そう言って、男たちとは別の方向へと走り出す。
「…お前は…マルタの援護を…」
彼女は、そう言って、コウへと合図を送る。
「…分かった…!」
コウは、頷き、クロエとは別の方向へと走り出す。
コウは、男たちから最も離れた場所へと回り込み、建物に身を隠す。そして、彼は、グロック17を構え、男たちの一人を狙撃する。
タタタッ! 銃声が響き渡る。弾丸は、男の肩をかすめ、男はよろめいた。
「…誰だ…!」
男たちは、驚いて振り返る。
その隙を突き、コウは、次の男を狙撃する。彼のグロック17は、もはや彼の体の一部となっていた。彼は、腹部の激痛を無視し、男たちを一人ずつ倒していく。
だが、男たちの数は多い。彼らは、すぐにコウの存在に気づき、彼へと銃口を向ける。
「…くっ…!」
コウは、男たちの銃弾をかわしながら、壁の陰に身を隠す。その時、彼の耳に、クロエの銃声が聞こえてきた。
「…さすがね…」
コウは、そう言って、微笑む。
クロエは、男たちの背後から、彼らに銃弾を浴びせていた。彼女の銃声は、まるでオーケストラのように、正確で美しい。男たちは、コウとクロエの挟撃により、動揺する。
「…くそ…!」
男の一人が、舌打ちをする。
その時、クロエが、男たちへと向かって叫んだ。
「…この女は…私たちの組織の…裏切り者よ…!」
彼女の言葉に、男たちは、驚愕する。
「…何だと…!?」
コウもまた、クロエの言葉に驚きを隠せない。
「…彼女を…殺せ…!」
男の一人が、そう叫び、クロエへと銃口を向ける。
「…嘘だ…」
コウは、そう言って、クロエを信じようとする。
「…コウ…信じて…!」
クロエは、そう言って、男たちを倒していく。
コウは、クロエの言葉を信じ、再び男たちへと向かって銃口を向ける。彼らの連携は、完璧だった。コウとクロエの挟撃により、男たちは次々と倒れていく。
そして、ついに、最後の男が、地面に倒れ込んだ。
「…終わったわ…」
クロエは、そう言って、深呼吸をする。
「…お前…一体…何者だ…?」
コウは、クロエに問いかける。
「…言ったでしょ…私は…あなたの…」
クロエは、そう言って、コウに微笑む。
「…今は…それだけ…」
彼女は、そう言って、コウの肩に手を置く。
「…マルタたちは…?」
コウが、尋ねる。
「…大丈夫…私たちが…時間を稼いだから…」
クロエは、そう言って、コウと共に、マルタたちが隠れた扉へと向かう。
その頃、扉の向こうでは、マルタとホアキンが、恐怖に震えながら身を潜めていた。銃声は、もう聞こえなかった。
「…終わった…?」
マルタは、そう言って、耳を澄ます。
その時、扉がゆっくりと開く音がした。マルタは、ホアキンを抱きしめ、身構える。
だが、扉の向こうに立っていたのは、コウとクロエだった。
「…コウ…!」
マルタは、叫び、コウへと駆け寄る。
「…大丈夫か…?」
コウは、マルタの体を抱きしめ、安堵の表情を浮かべる。
「…うん…」
マルタは、頷き、コウの胸に顔をうずめる。
「…お父さん…!」
ホアキンは、コウに駆け寄り、彼の体に抱きつく。
「…ホアキン…無事で…よかった…」
コウは、ホアキンを抱きしめ、彼の頭を撫でる。
クロエは、その様子を、静かに見つめていた。彼女の瞳には、安堵の色が浮かんでいた。
「…合流地点は…?」
コウが、クロエに問いかける。
「…もうすぐ…来るわ…」
クロエは、そう言って、周囲を警戒する。
その時、彼らの背後から、新たな足音が聞こえてきた。
「…くっ…!」
コウは、舌打ちをする。
「…まだ…いるのか…!」
マルタが、焦りの表情で叫ぶ。
「…安心しろ…」
クロエは、そう言って、前に出る。
「…彼らは…敵じゃない…」
彼女の言葉に、コウとマルタは、驚きの表情を浮かべる。
「…どういうこと…?」
コウが、クロエに問いかける。
「…彼らは…ボリショイが…手配した…」
クロエは、そう言って、新たな足音のする方向を指差す。
彼らの目に映ったのは、イリーナ・ヴォルコワと、彼女の部下たちだった。彼らは、武装しており、警戒しながら、コウたちの元へと向かっていた。
「…遅れたな…」
イリーナは、そう言って、コウたちを値踏みするように見つめる。
「…一体…何があった…?」
コウが、イリーナに問いかける。
「…聞く必要はない…」
イリーナは、そう言って、ロベルトが倒れている場所を顎でしゃくった。
「…彼を…助けろ…」
コウは、イリーナに頼む。
「…勝手にしろ…」
イリーナは、そう言って、冷淡な視線をコウへと向ける。
「…クロエ…」
コウが、クロエに問いかける。
「…彼は…一体…?」
クロエは、コウの問いに、静かに答える。
「…彼は…私たちの…仲間よ…」
彼女の言葉に、コウは、何も答えられなかった。
「…今は…話せない…」
クロエは、そう言って、コウに微笑む。
コウは、クロエの言葉を信じ、彼女と共に、イリーナと合流する。
「…さあ…行くぞ…」
イリーナは、そう言って、冷たい声でコウたちを促す。
彼らは、イリーナの部下たちに守られながら、安全な場所へと向かう。ホアキンは、コウの腕の中で、安堵の表情を浮かべていた。
彼らは、闇の中に消えていく。彼らの心の中には、ただ、安全な場所へ向かうという、希望の光だけがあった。
その後、コウは、ロベルトが意識を失う前に託してくれたメモを広げた。
そこには、暗号めいた文章が記されていた。
「ホアキンは、ホアキンにあらず。彼は、運命の子。星の導きを受けし者。彼を、闇から守れ」
コウは、その文章を読み、頭を抱える。
「…どういうことだ…?」
彼は、メモを握りしめ、眉をひそめる。
その時、彼の耳に、クロエの声が聞こえてきた。
「…あなたは…運命に導かれた…」
コウは、振り返る。クロエは、静かにコウを見つめていた。
「…どういう意味だ…?」
コウは、問いかける。
「…ホアキンは…選ばれし者…」
クロエは、そう言って、コウに微笑む。
「…そして…あなたも…」
彼女の言葉に、コウは、何も答えられなかった。
彼は、ホアキンを抱きしめる。そして、彼は、再び歩き出す。
「…俺は…この子を…守る…」
彼の心の中には、ただ一つの決意しかなかった。
「…例え…どんな運命が…待ち受けていようとも…」
彼の瞳には、強い光が宿っていた。




