第百十二話 イリーナの仲裁
ポート・ノーウェアの地下道、その最深部に位置するコウの隠れ家に、緊張が張り詰めていた。クロエとマルタは、銃口をコウ、メイファン、ホアキンに向けたまま、静止している。その背後には、彼らが想像もしなかった人物、イリーナが立っていた。彼女は、静かに、そして威厳をもって、この場の状況を見つめている。
「イリーナ…?」
マルタが、信じられないといった表情で呟いた。彼女の声には、動揺が隠せない。
「…なぜ、ここに…」
クロエもまた、驚きを隠せないようだった。彼女たちは、イリーナがこの街にいることを知らなかったのだ。
イリーナは、ゆっくりと一歩前に出た。彼女の足音は、静寂に満ちた地下道に、重々しく響く。
「クロエ、マルタ。銃を下ろしなさい」
イリーナが、冷静な声で命令した。しかし、その声には、逆らうことのできない威圧感が含まれていた。
「ですが、イリーナ様…。ホアキンは、裏切り者です」
クロエが、抵抗するように言った。
「私が、そう命じた。いいから銃を下ろしなさい」
イリーナは、再び命令した。
クロエとマルタは、互いに顔を見合わせ、やがて、しぶしぶと銃を下ろした。AA-12とIzhmash Saiga 12の重い音が、床に響く。
「感謝します、イリーナ様…!」
ホアキンが、安堵の表情で言った。
「ホアキン、黙ってなさい」
イリーナは、ホアキンを冷たく一瞥した。
そして、イリーナは、コウに視線を向けた。彼女の目は、まるでコウの心の奥底を見透かすかのように、鋭く光っている。
「コウ。あなたが、ホアキンを守ったようですね」
イリーナが尋ねた。
「ああ。俺は、ホアキンを殺させない。彼を狙うなら、俺を殺してからにしろ」
コウは、毅然とした態度で答えた。
イリーナは、その言葉を聞いて、小さく笑った。
「面白い男だ。あなたの力は、この街で噂になっています。ヴィクターとグリズリーを始末し、この無法の街を掌握したと」
イリーナは、コウを評価するように言った。
「俺は、ただ生き残るためにやっただけだ」
コウは、そう答えた。
「そうでしょう。ですが、あなたは、結果としてこの街の均衡を崩した。そして、私の大切な部下を狙う者たちを、無関係な人々を巻き込みながらも退け続けた。この無法の街において、あなたの力は、非常に魅力的です」
イリーナは、そう言ってコウに手を差し伸べた。
「コウ。私と共に来なさい。私が、あなたを雇いましょう。そして、この街の平和を、共に守るのです」
その言葉に、クロエとマルタは、驚きを隠せないようだった。
「イリーナ様! なぜ…!」
クロエが叫んだ。
「黙りなさい、クロエ。この男は、ホアキンを、そしてあなたたちを、守ろうとした。私は、そういう男が好きなのです」
イリーナは、そう言って、クロエとマルタを制した。
コウは、イリーナの差し伸べた手を、じっと見つめていた。その手は、冷たく、そして力強かった。
「…断る」
コウは、イリーナの手を払いのけ、はっきりと答えた。
「私は、あなたに仕えるつもりはない。俺は、俺のやり方で、ホアキンを守る」
イリーナの顔から、笑みが消えた。彼女の目は、まるで氷のように冷たくなった。
「愚かな男だ。私の提案を断るというのか?」
イリーナが言った。
「ああ。俺は、誰の支配も受けない」
コウは、そう言って、イリーナを睨みつけた。
その瞬間、イリーナの背後に控えていた護衛たちが、一斉に銃を構えた。彼らが持っているのは、H&K MP5だ。
「最後のチャンスです、コウ。私の提案を飲みなさい。さもなければ、この場で、あなたとあなたの仲間を、皆殺しにします」
イリーナが、冷たい声で脅した。
コウは、絶望的な表情で、イリーナの護衛たちと、銃口を向けられているホアキン、そしてメイファンを見た。
「…わかった。あなたの提案を飲もう」
コウは、そう言って、イリーナに屈した。
イリーナは、満足そうに笑った。
「賢明な選択です。ようこそ、私の世界へ、コウ」
イリーナは、そう言って、コウの肩に手を置いた。
クロエとマルタは、その光景を、複雑な表情で見つめていた。
「…こうなることは、分かっていたはずだ」
マルタが、静かに呟いた。
「…ああ。だが、何か、違うような気がする」
クロエが、マルタに同意した。
コウは、イリーナに手を引かれ、地下道を歩いていく。彼の背中は、まるで、運命に逆らえなかった男のように、どこか寂しそうだった。




