第百一話 帰還の代償、忍び寄る影
バンコクの熱気と喧騒から逃れ、コウとメイファンは、ポート・ノーウェアへと舞い戻った。数週間の死闘を終え、彼らの心には、故郷へと帰ってきたような、わずかな安堵感が広がっていた。アジトである廃倉庫の扉を開けると、埃っぽく、湿った空気が二人の体を包み込む。コウは、背中に背負っていたFN SCARをゆっくりと下ろし、壁に立てかけた。彼の顔には、バンコクでの激戦の疲労と、チャンの追跡から逃れた安堵が入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。
「……やっと、帰ってきたな」
コウは、そう呟き、倉庫の隅に置かれた古びた椅子に腰を下ろした。
「フン…、俺は、とっくに帰ってきてるさ。お前は、この街を出た時から、旅人だったんだ」
メイファンは、コウを嘲笑うかのように言った。彼女は、グロック17の弾倉を抜き、弾薬の残量を確認している。彼女の言葉は、コウの心に、深く突き刺さった。彼はもう、普通のサラリーマンではない。裏社会に生きる人間として、この街に戻ってきた。しかし、自分が何者なのか、まだ見つけ出せずにいた。
その時、倉庫の扉が、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、ホアキンだった。彼の顔は、疲れと心配で歪んでいる。
「コウ! メイファン! 無事だったのか!」
ホアキンは、そう叫び、コウたちに駆け寄った。
「ああ。どうにか、な」
コウは、そう言って、ホアキンの顔を見た。ホアキンの顔には、コウたちを心配する気持ちと、彼らが生きて帰ってきたことへの安堵が入り混じっていた。
「よかった…! もう、二度と、こんな危険な真似はしないでくれ!」
ホアキンは、そう言って、コウの肩を叩いた。
「フン…、それは、お前次第だ」
メイファンは、そう言って、ホアキンを睨みつけた。
「…え?」
ホアキンは、メイファンの言葉に、驚きを隠せないようだった。
「俺たちが、この街から離れられなかったのは、お前のせいだ。お前が、俺たちに、新しい仕事を回してきたからだろ」
メイファンは、そう言って、ホアキンに耳打ちした。
「…それは…」
ホアキンは、何も答えることができなかった。
コウは、ホアキンとメイファンのやり取りを見て、わずかに微笑んだ。彼らは、喧嘩ばかりしているが、その根底には、お互いへの信頼があることを知っていた。
その時、ホアキンが着けていた腕時計の文字盤が、突然点滅し始めた。ホアキンは、訝しげにそれを見つめた。
「どうしたんだ、ホアキン?」
コウが尋ねると、ホアキンは、不安そうに顔を歪めた。
「…いや、この時計は、俺が作った、ポート・ノーウェアの情報網に繋がってるんだ。誰かが、俺のシステムに侵入しようとしている」
ホアキンは、そう言って、指先を滑らせて腕時計を操作した。彼の表情は、真剣そのものだった。
「…な…! まさか…!」
コウは、ホアキンの言葉に、驚きを隠せないようだった。
ホアキンは、ポート・ノーウェアの裏社会における、情報屋だった。彼の情報網は、ポート・ノーウェアの隅々にまで張り巡らされており、彼が知ろうと思えば、この街の裏社会の人間が、どこで、何を、しているか、全て知ることができた。彼の情報は、常に、裏社会の人間たちの間で、高値で取引されていた。だからこそ、彼は、この街の裏社会の人間たちから、恐れられ、そして、信頼されていた。しかし、同時に、その情報網は、彼を狙う者たちにとって、喉から手が出るほど欲しいものだった。
その時、ホアキンの腕時計の文字盤が、赤く点滅し、警告音が鳴り響いた。
「…くそっ…! 侵入された…!」
ホアキンは、そう叫び、腕時計を叩き割ろうとした。しかし、その時、ホアキンの背後に、二つの人影が、音もなく、現れた。
「…動くな、ホアキン。動けば、その腕時計も、お前の命も、ない」
冷たい声が、ホアキンの耳元で囁いた。
ホアキンは、驚きのあまり、振り返ることができなかった。彼は、ただ静かに、その場で立ち尽くしていた。
「…何の用だ…!?」
コウは、ホアキンに背後から迫る人影に、気づき、FN SCARを構え、銃口を向けた。
「フン…、お前たちが、コウとメイファンか?」
冷たい声が、コウに尋ねた。
そこに立っていたのは、二人の男だった。彼らは、二人とも、東洋人ではなかった。一人は、金髪の長身の男。もう一人は、黒髪の小柄な男だった。彼らは、二人とも、黒いコートを着ており、その手には、H&K USPが握られている。
「…何者だ…!?」
コウは、身構えた。
「俺は、ハンス。こいつは、フェリックス。お前たちの、新しい遊び相手だ」
ハンスは、そう言って、ニヤリと笑った。
「…何の用だ…!?」
コウは、そう言って、FN SCARを構え、ハンスに銃口を向けた。
「フン…、お前たちを、始末しに来ただけだ」
ハンスは、そう言って、H&K USPを構え、コウに銃口を向けた。
その時、フェリックスが、ホアキンの首筋に、S&W M&Pシールドを突きつけた。
「…ホアキン…!」
コウは、ホアキンを見て、驚きのあまり、言葉を失った。
「…動くな、コウ。動けば、こいつの命は、ない」
フェリックスは、そう言って、ホアキンを人質に取った。
「…くそっ…!」
コウは、歯ぎしりをしながら、銃口を下げた。
「フン…、コウ。お前は、本当に、馬鹿だな。俺たちが、お前を始末しに来たと思っていたのか?」
ハンスは、そう言って、高らかに笑った。
「…どういうことだ…?」
コウは、ハンスに尋ねた。
「俺たちが、本当に欲しいのは、お前たちじゃない。こいつだ。この街の情報網を、俺たちが支配する」
ハンスは、そう言って、ホアキンを指差した。
「…な…! まさか…!」
コウは、ハンスの言葉に、驚きを隠せないようだった。
「そうだ。俺たちは、この街の全てを支配する。そのためには、お前の情報網が必要なんだ」
ハンスは、そう言って、ホアキンを連れ去ろうとした。
「…待て! ホアキンは、俺たちの仲間だ!」
コウは、そう叫び、ハンスに銃口を向けた。しかし、ハンスは、コウの言葉に耳を傾けようとしなかった。
「フン…、コウ。お前は、俺たちのことを、舐めていた」
ハンスは、そう言って、ホアキンを連れ去った。
「…くそっ…! 待て!」
コウは、そう叫び、彼らの後を追おうとした。しかし、メイファンが、コウを制止した。
「コウ! 待て! 今、奴らの後を追えば、俺たちは、罠に嵌まる!」
メイファンは、そう言って、コウを睨みつけた。
コウは、メイファンの言葉に、何も答えることができなかった。彼は、ただ静かに、ホアキンが連れ去られた方向を見つめていた。彼の心は、怒りと絶望で、早鐘を打っていた。




