第一話 ネクタイを絞めた海賊
渡部浩一は、今日一日で自分の人生が根底から覆ったことを、まだ理解しきれていなかった。ほんの数時間前まで、彼は東京の四橋重工でごく普通のサラリーマンだった。営業部に所属し、毎日同じ時間に満員電車に揺られ、定時きっかりに退社し、週末は上司のゴルフに付き合う。そんな、何一つ波風の立たない、決まりきった生活を送っていた。だが、東南アジアへの出張で、すべてが変わった。
浩一が運搬を任されていたのは、四橋重工の最新技術が詰まったディスクだ。それは、まるで彼の人生のように、平凡で、だが厳重に管理された箱の中に収められていた。厳重な警備のもと、海上を輸送中に襲撃されたのだ。轟音と共に、黒いボートが輸送船の横腹にぶつかり、軋む音が響いた。銃声が響き、乗船員たちが次々と倒れていく。そして、黒いボートから乗り込んできたのは、一人の女だった。短く切りそろえられた黒髪に、鋭い目つき。そして、両手に握られたCZ Shadow2 Carryが、鈍い光を放っていた。彼女が口にした言葉は、まるで異国の呪文のように、何を言っているのか理解できなかった。ただ、その銃口が自分に向けられていることだけは、はっきりと理解できた。
「お前ら、何者だ!」
浩一は震える声で叫んだ。女は言葉を返さず、浩一の額に銃口を突きつけた。銃口から放たれる熱気が、浩一の額の汗を蒸発させた。
「おい、ジャップ。お前らの社長は、このディスクを盗むために、俺たちを雇ったんだよ」
女の言葉に、浩一は絶句した。自分の会社の非合法なビジネスに、自分が巻き込まれたのだ。
「そんな、嘘だ!」
浩一の言葉に、女は鼻で笑った。その笑いは、まるで子どものお遊戯を見ているかのようだった。
「嘘だと思うなら、このディスクを盗んで、お前らの社長に渡してやろうか?」
女は浩一に興味を失ったかのように、銃口を額から外し、心臓に突きつけた。
「おい、ジャップ。お前は、もういらないんだよ」
その瞬間、浩一は、自分の人生が終わったことを悟った。だが、浩一の人生は終わらなかった。女は浩一を殴りつけ、気絶させた。彼の意識は、暗闇へと沈んでいった。
浩一が目を覚ますと、そこは船の中だった。錆びた鉄の匂いが鼻を突き、船底からは潮の匂いがする。船は静かに揺れていた。
「目を覚ましたか、ジャップ」
男の声が聞こえた。声の主は、筋骨隆々の黒人だった。身長は2メートル近くあり、頭は坊主。顔にはゴーグルサングラスをかけている。片方の手には、葉巻が握られていた。煙の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「ここは、どこだ?」
浩一は震える声で尋ねた。喉がからからに渇き、声が掠れていた。
「ここは、俺たちの船だ。そして、お前は、俺たちの人質だ」
黒人の男は、葉巻を吹かしながら言った。煙が、浩一の顔にかかる。
「なぜだ? なぜ、俺を人質にするんだ?」
浩一は必死に問いかけた。彼の頭の中は、疑問符でいっぱいだった。
「お前らの社長は、俺たちに、このディスクを渡すように言った。だが、俺たちの報酬は、まだだ」
黒人の男は、浩一の顔に葉巻を近づけた。燃える葉巻の先端が、浩一の目に映る。
「俺たちの報酬を払うまで、お前は、俺たちの人質だ」
浩一は何も言えなかった。その瞬間、浩一は、自分の人生が、もう二度と元に戻らないことを悟った。彼の目の前には、絶望という名の暗い海が広がっていた。
それから数日、浩一はレイス商会の船で過ごした。食事は、缶詰と乾パン。トイレは、バケツ。風呂は、潮風。そんな地獄のような生活を送っていた。浩一は毎日、逃げ出すことだけを考えていた。だが、逃げ出すことはできなかった。なぜなら、船には、あの女がいたからだ。彼女はいつも二丁の銃を持ち、その銃口は、いつも浩一に向けられていた。彼女の冷たい視線が、浩一の心を凍らせる。
浩一は彼女の名前を尋ねた。
「お前の名前は?」
彼女は浩一の言葉に何も答えなかった。ただ、冷たい目で浩一を見つめるだけだった。浩一は彼女のことが怖かった。彼女はまるで、感情を持たない機械のようだった。
ある夜、浩一は彼女に話しかけた。夜風が船を揺らし、潮の匂いが一段と強く感じられた。
「お前は、なぜ、そんなに銃が好きなんだ?」
彼女は浩一の言葉に、初めて口を開いた。彼女の声は、まるで砂利が擦れるような、乾いた声だった。
「銃が好きなわけじゃない。ただ、生きていくために、必要なだけだ」
彼女はそう言って、タバコに火をつけた。火をつけた瞬間の、彼女の横顔は、わずかに、寂しげに見えた。
「俺は、お前たちとは違う。俺は、ただのサラリーマンだ」
浩一は、彼女の言葉に、自分のことを話した。
「サラリーマン? それが、どうしたんだ?」
彼女は浩一の言葉に、興味なさそうに言った。その声には、嘲笑が含まれているようだった。
「俺は、お前たちみたいに、銃を撃つこともできない。人を殺すこともできない」
浩一は絶望した。
「そんなことは、どうでもいい。お前は、お前だ」
彼女はそう言って、タバコを浩一に差し出した。その手は、まるで骨と皮だけのような、細く、硬い手だった。
「お前は、もう、普通のサラリーマンじゃない。お前は、俺たちの仲間だ」
浩一は何も言えなかった。その瞬間、浩一は、自分の人生が、もう二度と元に戻らないことを、改めて悟った。
レイス商会の船は、目的地の港に到着した。夜が明けたばかりの空は、鉛色をしていた。港は、錆びたコンテナが積み重なり、荒涼とした雰囲気が漂っていた。そこは、ポート・ノーウェアという無法の街だった。街は、娼婦・ヤク中・傭兵・殺し屋・マフィアが集う、背徳の都だった。
「ようこそ、ポート・ノーウェアへ」
黒人の男が、浩一に言った。その声は、重く、地面に響くようだった。
「ここが、お前の新しい居場所だ」
浩一は絶望した。彼の目の前には、腐敗した世界が広がっていた。
「俺は、こんなところで、生きていけない」
浩一は必死に訴えた。声が震えていた。
「生きられるさ。お前は、俺たちの仲間だ」
黒人の男は、浩一の肩を叩いた。その手は、まるで鉄のように硬かった。
「お前の新しい名前は、コウだ」
浩一は何も言えなかった。彼の心の中で、何かが崩れ落ちる音がした。その瞬間、浩一は、自分の人生が、もう二度と元に戻らないことを、改めて悟った。