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再現  作者: 嵯峨野遼
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2:微細なざらつき

 昼休憩の時間が来た。

 真理はバックヤードの奥にある小さな休憩スペースに入り、椅子に腰を下ろす。薄いクッションの硬さが尾骨に伝わる。ロッカーから取り出した保冷袋の中には、コンビニで買ったツナマヨのおにぎりと梅のおにぎり、それと麦茶のペットボトル。

 彼女は黙って包装を剥がし、海苔の裂け目から漏れる油の匂いを無感情に受け入れながら、一口、また一口と咀嚼した。


 手は動いているのに、意識の半分は別の場所にある。ポケットからスマホを取り出す。再び画面を見る。

 香織のLINE通知は、そのままそこにあった。


 懐かしいようで、微かに引っかかりのある名だった。

 大学時代の友人。東京に就職し、現在もそちらで暮らしているはず。

 今現在でも特別に親密というわけではなかったが、決して疎遠でもない。互いの人生に時折ふっと現れる、小舟のような関係。


 真理は画面に触れた。吹き出しが開く。


 > 今、東京に来てるんでしょ? びっくりした!

 > さっき渋谷の交差点で見たよ!

 > 東京に来てるなら、ご飯行こうよ


 ――渋谷?

 その地名に、真理は眉根を寄せた。東京など、ここ数年は足を踏み入れていない。今も、ここは大阪。職場の休憩室で麦茶のペットボトルを手にしている。


 一瞬、空間にひびが入ったような、奇妙な錯覚が胸の奥に走った。

 スマートフォンの画面と、自分のいる場所が、うまく重ならない。

 けれど、思考はすぐに現実へ戻る。


 「他人の空似」――その四字熟語が、まるでプログラムのように自動で頭に浮かんできた。よくある話だ。芸能人に似てる人だって街中に何人もいるのだ。

 真理はすぐに返信を打った。


 > え? 私、大阪だよ

 > 今、職場の休憩中(笑)


 LINEの吹き出しに、自分の言葉が収まるのを見ながら、その末尾につけた(笑)が、妙に浮いているように見えた。けれど、他に付け足す言葉も見当たらなかった。

 すぐに、香織からの返信が来た。


 > 真理本人だったと思ったんけど

 > 髪型も服の感じも同じだよ。歩き方まで同じように見えたよ


 真理は、スマホを持つ手を静かに太ももの上に置いた。

 自分が渋谷を歩いていたという――それは、冗談にしては唐突すぎる。

 どんなに似ていたとしても、「歩き方」が同じ、などと香織が言うほど、その彼女は真理そのものに見えたというのだろう。

 真理は、スマホを見つめながら、思わず口の中で小さく笑った。

 やはり、これは単なる偶然だ。


 真理は、鏡をよく見る方ではない。

 だが、それでも自分の容姿が、他人に「間違われる」ほど際立っているとも思わない。

 むしろ、どこにでもいそうな顔立ち。よく言えば素朴。悪く言えば、特徴がない。

 自分に似た誰かが、渋谷を歩いていても、なんの不思議もない。

 思い込みや錯覚――そういうのは、案外簡単に起こるものだ。


 > えー、他人の空似じゃないかな?

 > たまにいるよね、すごく似てる人

 > 私はこの一週間ずっと大阪にいるし、職場も休んでないよ


 送信してから、真理は一瞬画面を見つめたまま、指を止めた。

 なぜわざわざ、「職場も休んでない」とまで書いたのか――そのことに、自分でも少し戸惑った。


 真理はスマホを伏せ、ベンチの背に寄りかかった。

 天井の蛍光灯が無音で光っている。

 店内のざわめきが、壁越しに遠く響いてくる。


 それでもどこか、胸の奥に小さな石つぶてのような違和感が残った。

 それは、まだ明確な「恐れ」に育ってはいない。

 けれど、その種は確かに、土に落ちたような感触があった。

 わたしではない「わたし」が、東京の街を歩いている――そんな馬鹿げた妄想を、完全に否定しきれない自分が、どこかにいた。


 真理は2つ目のおにぎりを手に取った。おにぎりの包装を開ける音が、ひどく大げさに聞こえた。

 誰もいない休憩室の空気が、それだけでふいにざらりとささくれる。

 真理はスマートフォンを伏せ、黙って握り飯を手の中で支えたまま、食べることもせず、じっと見つめていた。


 梅の酸味が印刷された薄いフィルムの下で、ふくれた米粒が無言で固まっている。

 ふだんなら何の感慨もなく口に運ぶものが、今日は妙に重い。

 それを食べるという行為が、なぜか自分自身の所在を試されるような気がした。


 「似てる人なんて、いくらでもいるよ」


 声に出さず、胸の奥でひとつ、呟いた。

 その響きは真理の中で淡く広がり、すぐに消えていった。

 合理的な説明だ。偶然、誰かが真理に似た人を見かけた。それだけのこと。

 髪型、服装、背格好、一致してもおかしくない。


 腕時計の針が、12時58分を差していた。

 真理はようやくおにぎりをかじり、二口目を飲み込んだだけで、ペットボトルの麦茶を煽る。

 まだ、半分以上残っている。けれどそれを片づけ、いつものように制服のエプロンをつけ直す。胸元のネームプレートが、冷たく揺れた。

 ロッカーの鏡には、確かに自分が映っていた。目元のくすみも、きつく結んだ髪も、いつもの輪郭。

 それでもその鏡の中の顔が、どこか演じているように見える一瞬があった。無理に笑ってみせる役者のように、すこし硬い。


 ドアの向こう、店内の喧騒が遠くにある。商品の補充音、レジの機械音、話し声。それらすべてが、どこか水中で聞こえるような感触で迫ってきた。

 ノブに手をかけ、ドアを開けた瞬間、真理はわずかに肩をすくめた。

 なにかが、背後にいる気がしたのだ。

 いや、何かではない。

 誰か。

 誰かが、自分の背中をじっと見ていた――そんな感覚。


 振り返っても、もちろんそこには誰もいない。

 蛍光灯と白い壁、掃除の終わった床だけが、変わらず自分を照らしている。

 だが、その無のなかに、ぬるりと残る気配だけが、後を引いた。


 売場に出る。

 アルコールの匂いと、湿った棚のにおいが混ざる店内の空気が、妙に身体にまとわりついた。

 真理は笑顔をつくる。

 なめらかに、均質に。

 いつも通りに、何事もなかったように。ただし、その笑顔のすぐ裏側では、冷たい霧のような何かが、じっととぐろを巻いていた。



***


 真理はレジに戻り、無言で立った。

 ディスプレイの表示が点滅する。品番、単価、合計額。全てが機械的に流れていく。

 客がひとり、目の前に袋を差し出した。会釈を返し、商品を淡々と詰めてゆく。「ありがとうございました」と声を出す時、顔に浮かべる笑みは、しっかりと形をなしていた。

 崩れかけた足場の上でも、接客用の仮面だけは崩れない。そう、いつも通り。


 心の中でひとつ、小さな石を落とすように思った。

 ——こんな偶然、すぐに忘れてしまえる。

 そういうことにしておこう。そうすれば、この一日も、昨日と変わらず終わるのだ。

 きっと、すべては過ぎていく。誰かの見間違い。光の加減。思い込み。記憶違い。


 その夜、真理はアラームを設定したあと、スマートフォンの通知をすべて消し、充電コードにそっと繋げた。

 ベッドに横たわり、薄く目を閉じかけたとき、不意に気配のようなものを感じて、ゆっくりと起き上がる。

 洗面台の前に立ち、明かりを灯す。

 鏡の中、自分の瞳がこちらを見返している。

 けれどその視線には、どこか奇妙な遅れがあったように感じた。

 ほんの刹那、ほんのわずかに。

 それはまるで、そこに映っているのが自分ではない誰かであるかのような気がした。

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