15:再会
川沿いの空気は、夕暮れの光を受けて微かに湿り気を帯びていた。
ゆるやかに揺れる水面には、都会の灯が滲みながら映り込み、まるで水の中に別の街が沈んでいるかのようだった。
真理は、その水底の街に引き込まれぬように、一歩ずつ石畳を踏みしめながら歩いた。
目の前に現れたレストランは、どこか現実から切り離されたような静けさを持っていた。
外壁を伝う蔦の影が揺れ、ガラス越しに見える室内の照明が、時間の粒子をゆっくりと落としているようだった。
その灯りの下で人々が静かに語り合う様子は、どこか夢の中にいるように思えた。
「ご予約の……お名前を、お願いいたします」
受付の女性に名前を告げると、白いシャツを着たスタッフが、静かに一礼し、奥へと導いてくれた。
外の喧騒とは一線を画すように、店内は落ち着いた音楽と食器のこすれる音が支配していた。
通されたのは、川沿いに設えられた半個室。ロールカーテンが軽く揺れて開かれると──そこに、彼女がいた。
優香だった。
真理の足が、ふと止まる。
彼女は静かに座っていた。
その背後にある大きな窓からは、川面を撫でる風と、夕映えの光が差し込んでいた。
反射した水の揺らぎが、優香の頬に淡く揺れていた。
肌は透き通るように白く、髪はしっとりと肩に落ちている。
どこか、現実の輪郭が曖昧になるような美しさだった。
──それはまるで、現実に浮かび上がった幻影のようだった。
だが、笑った。優香が、笑った。
あの頃と同じ声で、同じ表情で。
「久しぶり。来てくれてありがとう」
それは紛れもなく、大学時代の優香の声だった。
耳の奥でよみがえる、何気ない日常の記憶。
その声を聞いただけで、真理の胸に積もっていた緊張は、少しずつ溶けていく。
「久しぶり。こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
真理がそう返すと、優香は真理を一瞥して微笑んだ。
その目に、昔と変わらぬぬくもりが宿っていた。
「こっちに来るって……急だったから驚いたよ」
「うん。こっちで仕事の人に会う予定が入ってね。ついでに真理にも会いたくなったの」
その瞬間、脳裏に昼のテレビ映像がよぎる。
あの画面の中で、確かに優香そっくりの誰かが、自分そっくりの誰かと並んで歩いていた。
それは幻影だったのか、それともこの現実こそが、その延長線上にあるのか。
「真理、相変わらず、綺麗ね」
「何言ってるの?優香こそ、大学時代と変わらないままで可愛いね」
やり取りの一つひとつが、記憶の引き出しを開ける鍵のようだった。
語られる大学時代の話、疎遠になった友人たちの近況、些細な出来事。
どの話にも、優香は自然に反応し、時折、真理よりも詳細な記憶を語ってみせた。
それが真理には、不思議なくらい心地よかった。
──それでも、胸のどこかが、微かに騒いでいた。
食事が運ばれ、グラスの中で氷が音を立てる。
料理の香り、フォークとナイフの音、少し先にある川の水音──それらすべてが現実でありながら、どこか作り物のようにも感じられた。
食事の間中、優香の手がフォークを取るたび、グラスが揺れるたび、真理の視線は、無意識に彼女の指先や、喉の動きや、まばたきの間隔に向かっていた。
「やすなは結婚したらしいよ」「え、そうなんだ?早いね」
「翔君はこの間、事故に遭ったって聞いたけど……大したことなかったらしい」
「へえ、みんな、それぞれね……」
会話は穏やかに、終始笑顔を保ちながら続いていく。
「大丈夫。これは優香だ。私の知っている、あの優香に間違いない」
真理はそう自分に言い聞かせながら、ふと胸の奥に沈めていた不安を思い出す。
──今日会う優香が、優香に似た何かだったら、どうしよう。
その思いは、朝からずっと、真理の影のように寄り添っていた。
けれど今、目の前にいる彼女は、そうではなかった。その所作、笑み、会話の空気の間合いまでが、記憶と寸分違わなかった。
真理の不安は霧のように消えていき、会話は穏やかに、終始笑顔を保ちながら続いていく。
食後の食器が片付けられ、二人の前にはほとんど飲みかけのままのワインと、水のグラスだけが残された。夜の川面には街灯の光がゆらぎ、時折、風に乗って水の匂いがテーブルの足元を這うように流れてくる。冷房の風は確かに心地よいはずなのに、真理の首筋にはじんわりと汗が滲んでいた。
真理はグラスを指先でなぞりながら、少しだけ声を落として言った。
「……あのね、優香。この前、テレビで東京の街が映ってたの。ワイドショーの特集だったと思う。その映像に……私そっくりな人と、優香そっくりな人が並んで歩いてるのが、映ってたの。」
言葉の途中から、自分の声が他人の声のように聞こえはじめる。
冷静に話しているつもりなのに、どこか震えていた。
優香はすぐに答えなかった。
真理の目を見つめたまま、まるでその問いの意味を反芻するかのように、何も言わずに座っていた。
長いまつげの影が頬に落ち、その表情を半ば仮面のように覆っている。
ようやく、優香の唇がわずかに動いた。
「……また、その話?」
声は柔らかいのに、どこか棘のような温度を帯びていた。
「この前は香織が、私と真理にそっくりな人を見たって言ってたよね。今度は真理が、自分にそっくりな人と、私にそっくりな人を見たって言うの?」
真理は小さくうなずいた。
自分の返事が、まるで用意されていた台詞のように感じられる。
「うん、そう。たぶん、間違いないと思う。」
優香は眉をひそめ、少しだけ目を伏せた。
そして、微笑みとも溜息ともつかぬ表情でこう言った。
「ただの似た人でしょ? 芸能人だってそっくりな人いるじゃない。広瀬アリスと水野美紀とか。真理、それと同じような話よ。たぶん。」
言葉の軽さが、逆に真理の心に重くのしかかる。
優香は何も知らないのか、それとも、すべてを知っていてそう振る舞っているのか――わからない。
「でもね、偶然すぎると思わない? 私に似た人と、優香に似た人が一緒に歩いてるなんて。しかも、その人の服のセンス、私が好みそうな感じで……何かが、ひっかかるの。」
自分でも迷っているのがわかる。けれど、言わずにはいられなかった。
優香は、手元のグラスを回しながら言った。
「真理は、昔から細かいことにこだわる性格だったもんね。でも、仮に私がその映像に映ってたとして……それって、何か問題ある?」
その問いかけには、少しだけ挑発の香りが混ざっていた。
「いや、問題ってわけじゃないんだけど……。ただ、なんか、しっくりこないの。あまりにも、私そっくりだったから。」
それを聞いた優香は、突然、表情を切り替えた。
まるで会話の流れを断ち切るスイッチが、内部で押されたかのように。
「ねぇ、真理って、この辺に住んでるよね?」
唐突すぎる話題転換に、真理は一瞬言葉を失った。
「……え? ああ、うん。歩いて行くのはちょっと遠いけど、タクシーなら10分くらいだよ。」
優香の視線が、静かに真理の目を射抜く。
「じゃあさ。今から真理の家で、飲み直さない?」
その言葉は、ごく自然な提案のようでいて、どこか異質だった。
いや――異質だったのは、その瞳の奥に、微かに揺れた“何か”かもしれない。
川面に反射する都市の光が、二人の顔を交互に照らし出す。まるで、別の顔がそこに重なって見えるような錯覚に、真理は瞬間、目を逸らした。
そして胸の奥で、さっきまで沈んでいた何かが、ゆっくりと動き出すのを感じた。