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再現  作者: 嵯峨野遼
13/27

13:交差点の向こうの自分

 土曜の朝。

 真理は、スマートフォンのアラームが鳴るよりも早く、静かに目を覚ました。カーテン越しに滲む朝の光は、曇天のベールをまとっているようで、どこか頼りない。天気予報では晴れといっていたが、窓の外の空は灰色に沈み、空気には微かに湿気があった。


 ──今日は、優香と会う日だ。


 数年ぶりの再会。

 それも、あの雨の夜以来。

 やりとりはLINEだけで、優香の声を聞いたのも、顔を見たのも、ずっと前のことだった。それでも真理の中には、あの日の感触が消えずに残っていた。

 指先の熱、目をそらせなかった時間、そして言葉にできなかった違和感のようなもの。


 緊張をほどこうと、真理はキッチンでコーヒーを淹れた。ミルの中で豆が砕かれる音が、静けさの中に響く。

 スマートテレビのリモコンに手を伸ばし、YouTubeを開く。リストからボサノヴァのプレイリストを流すと、穏やかなギターと柔らかい女性の歌声が部屋に広がる。

 コーヒーの湯気が立ち上がり、鼻孔をくすぐった。けれど、その香りも、音楽も、胸の奥の不安まではなだめてくれなかった。


 洗面台の前に立つ。

 真理はいつもよりも丁寧にメイクを始める。ベースを作りながら、鏡に映る自分の顔に、どこか他人のような感覚を覚えた。

 目の下の小さな影や、唇の輪郭。

 こんなだったろうか、とふと思う。


 「老けたって思われたくないな……」


 つぶやきながら、ビューラーに力が入る。

 大学時代と同じメイクでは今の空気にそぐわない、と知っている。真理はSNSで話題になっていた最新のメイク術を思い出し、自分の顔立ちに合わせて少しずつ調整した。

 まぶたにのせる色は慎重に、けれど躊躇いなく。

 鏡の奥に浮かび上がる女性は、どこか「戦うための顔」をしていた。


 選んだパンプスは、いつもよりもヒールが高い。立ち仕事には不向きでも、今日は気持ちを奮い立たせるための装備だった。

 玄関のドアを開けると、廊下の空気が少しひんやりとしていて、薄い緊張が真理の背筋をなぞる。


 15階のエレベーターホールに着き、下のボタンを押す。

 「ピンッ」という電子音と共に、表示板の数字が光る。


 13階。

 12。

 11。


 誰かが先に乗って下へ降りている。


(タイミング悪いな……)


 ふとそんなふうに思った自分に、小さな違和感を覚えた。

 タイミングが悪い──ただそれだけのことなのに、心の奥の深いところが微かにざわついた。

 数日前の夜、あのエレベーターで感じた視線。その記憶が、灰色の空と一緒に、静かに胸の奥から浮かび上がってくる。


 真理は思わず、自分の肩越しに後ろを振り返った。

 廊下には誰もいなかった。

 けれど、静かすぎた。

 まるで空間そのものが音を殺しているように、無音の圧力が耳を塞いでいた。

 金属の扉の前に立つ自分が、鏡のように映り込んでいた。

 そこに浮かぶ顔は、自分なのに──どこか他人のように見えた。


(今日、優香と会ったら……私は、ちゃんと私でいられるんだろうか)


 そう思った瞬間、エレベーターが「チン」と鳴り、扉が静かに開いた。

 誰も乗っていないことを確かめ、真理は足早に乗り込む。

 真夏だというのに、その金属の箱の中は空気は思った以上にひんやりとしていた。まるで数日前の夜の出来事を、その金属の壁が記憶しているかのような、沈黙。

 指先で1階のボタンを押すと、扉が閉まり、エレベーターは静かに下降を始めた。ゆるやかな下降。耳にほのかな気圧の変化が伝わってくる。

 機械の動作音すら、今は妙に大きく聞こえる。


(落ち着いて。大丈夫、なにも起こらない)


 自分に言い聞かせるように、真理は深く息を吸い込んだ。

 ボサノヴァの余韻がまだ鼓膜の奥に残っている──そう思いたかった。

 だが、その静寂はあまりにも簡単に破られた。


 7階に差しかかると、エレベーターは突如停止した。

 「チン」と鳴る音は、普段と変わらぬ音量のはずなのに、鼓膜にねっとりとまとわりつくようだった。


 扉がゆっくりと開いた瞬間──


 真理の呼吸が、止まった。

 そこに立っていたのは、数日前の夜、同じエレベーターで共にした、あの男だった。

 白シャツに黒のスラックス。無表情。まるで昨日と寸分違わぬ姿。髪の乱れも、シャツの皺のひとつも──すべてが数日前と同じに見えた。


(……いつから、そこに?)


 真理の脳裏に、冷たい疑念が走る。

 各階のエレベーターホールには、防犯目的で設置されたモニターがある。

 そのモニターには、エレベーター内の映像が映し出されているはずだ。

 彼が7階のホールでそれを見ていたなら、15階から自分が乗ったのを、彼は知っていたということになる。


 「おはようございます」


 男はそう、軽く言った。

 だがその声はつかみどころのない声で、どこか女性的でもあり、真理を不安にさせた。音ではなく、ただ「言葉の形」だけを口にしているような、温度のない発音。

 真理は思わず「……おはようございます」と返すが、その声はかすれていた。


 1階のボタンは、既に押されている。

 逃げ場は、ない。

 エレベーターは、また動き出した。

 機械仕掛けの箱の中、ただ2人きり。

 空気がだんだんと重く、息苦しさを帯びてゆく。


(大丈夫。出勤の時間なんて、みんなだいたい似たようなもの。偶然よ。ただの偶然)


 そう、思おうとした。

 けれど手には自然と力が入り、指先がわずかに震えていた。

 ハンドバッグの取っ手を握る手に、じっとりと汗がにじむ。


 男は隣に立ったまま、何も言わない。

 動かぬ瞳、揺らがぬ表情。

 まるで何かを、ただ見ているだけのように、彼の視線が宙を漂っていた。


 ──その視線が、エレベーターの壁に映った真理の姿に向いていると、気づいたのは、1階に着く直前のことだった。


 エレベーターが「チン」と鳴り、扉が開いた。

 真理は、一歩先に出た。

 足音が、硬く響く。

 背後からついてくる気配が、やけに遅く感じる。


(……このまま、何事もなく、職場まで行けばいい)


 そう念じるように、真理は地上の光の中へと歩み出した。

 けれど、背中に貼りついたあの視線の感触だけは、いまだに皮膚の奥でうごめいていた。


 朝の陽射しは、もうすでに真夏のそれだった。アスファルトから立ち上る微かな熱気が、真理の足元を包み込む。だがその暑さよりも、背中に感じる粘ついた違和感の方がずっと気にかかった。

 真理は後ろを何度も振り返りながら、職場であるドラッグストアへと向かって歩いた。

 土曜日の朝は、平日ほど混雑しておらず、歩道には余裕があった。それでも、何かに追われているような足取りで、真理は心を落ち着かせるために日傘を差した。傘の下はわずかに涼しいが、鼓動はその涼しさを無視して速さを増してゆく。


 長堀橋通りの大きな交差点に差しかかったとき、信号は無情にも点滅を始めた。

 渡るには、もう遅い。真理は足を止め、冷房の効いたビルの陰に身を寄せる。


 そのときだった。


 反対側の歩道──30メートルほど先。

 人の波がまばらな土曜の朝、そのなかで際立って見えたのは、見覚えのある姿だった。


(……私?)


 驚きと恐怖で、真理は瞬時に体を強張らせた。

 似ている──という言葉では片付けられない。

 あの人物は、まるで鏡の中から抜け出してきたように、真理の歩き方、背中のライン、日傘の角度までもが、真理そのものだった。

 彼女は何事もなかったかのように、心斎橋方面へとゆったりと歩いて行く。

 ゆっくり、しかし、確実な足取りで。


「ちょっと……!」


 声が喉元まで出かかるが、言葉にはならない。

 代わりに真理は、彼女の後を追うように歩き出した。

 けれど目の前の信号は青から赤へと変わり、真理を遮るように車の流れが目の前を塞いだ。

 苛立ちがこみ上げる。

 何台もの車が、途切れなく視界を横切る。

 エンジン音が頭に響き、心臓の鼓動と重なり合った。


 信号が青に変わると同時に、真理は駆けるように横断歩道を渡った。

 反対側の歩道に着くや否や、目を凝らして周囲を見回すが、そこにはもう誰もいなかった。

 真理に似たあの女は、まるで溶けるように、笠屋町筋の人並みに消えていた。


 交差点の向こうに残る、ただの朝の風景。

 無数の人々。すれ違う他人の顔。

 だが真理は、心の奥底で確信していた。


 あれは、単なる見間違いではない。

 誰かが──確かに“自分”として、ここを歩いていたのだ。

 そして、彼女は真理の存在に気づいていたような気がした。

 あの背中には、どこか奇妙な余裕があった。

 まるで「わたしが、あなたです」とでも言いたげな、静かな確信が──。


 額に滲む汗を拭いもせず、真理は黙って、職場の方向へと歩き出した。

 足取りは重く、空気がぬるく、まるでこの街そのものが、何か不気味な意志を帯びているようだった。

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