11:違和感
閉店の時刻を告げる店内放送が、静かに流れた。
蛍光灯の白い光は、昼間と変わらず明るいはずなのに、どこか色味が褪せて見える。
最後の客が扉の向こうへと消えていき、真理は無言で軽く頭を下げた。音もなく扉が閉まり、街の喧騒が硝子の向こうに隔てられる。
「レジ、締めますねー」と言ったのは、大学生のバイトだった。
まだ若さの残る声が、静まり返った店内に少しだけ浮いて聞こえた。
真理は黙ってうなずき、いつものように業務に取りかかる。手の動きは機械のように正確で、癖になった順序で処理が進んでいく──はずだった。
だが、手が一瞬、迷った。
小銭の計算が合わず、確認用の数字をもう一度見返す。ささいな、けれど確かなミスだった。
「山口さんが間違えるなんて、珍しいですね」
大学生の青年が、意外そうに言った。
「ああ、ごめん……。今日はポイントデーで人が多くて、ちょっと疲れたのかも」
真理は笑って返す。言葉にしてみると、たしかにそれも一因のような気がした。だが、本当は、昼の蕎麦屋で見たあの映像──
東京の焼けつくような街角で、自分と、そして優香によく似た誰かがすれ違っていった、あの瞬間が、今も頭の中で灰色の残像のように漂っていた。
レジ締めは滞りなく終わり、帳簿は閉じられ、光は順々に落とされていく。
真理は制服から私服に着替え、ドラッグストアの自動扉を出た。
夜の大阪、中央区。
昼間とは違う顔を持つ街──喧噪と熱気は残り香のように漂い、信号機の赤がアスファルトをじんわり染めている。
コンビニの白い明かりがまばゆく、スマホの画面を見つめながら歩く人、どこかへ急ぐような足取りの男女、酔いの残る笑い声。
そのすべてが、ただの「日常」として街に溶け込んでいた。
しかし、真理はふいに立ち止まった。
誰かに、見られている──そんな感覚が、唐突に首筋を這い上がってきたのだ。
背後に目があるかのような、妙に湿った視線の気配。
振り返ると、人々は流れるように歩き去っていくばかりで、誰ひとりとして真理に注意を払ってはいない。
それでも、心臓が小さく脈打ち、皮膚の奥がぞわぞわと泡立つ。
気のせい。そうに決まっている。
けれど、歩く足はいつのまにか速まり、真理は逃げるようにマンションのオートロックの前にたどり着いていた。
ピピッという電子音とともにドアが開き、建物の中の、ほんのりと冷たい空気に包まれる。
一息つく間もなく、背後で再びオートロックが解除される音が響いた。
誰かが入ってきたのだ。
反射的に振り向くと、そこには、自分と同じ年頃の男性が、静かに歩いてこちらへ向かっていた。
顔はよく見えない。だが、何かが引っかかる。
彼はエレベーターに向かって真理の背後を通り過ぎようとしていたが、その歩調には、不自然な間のようなものがあった。まるで真理がエレベーターのボタンを押すのを、わずかに待っていたかのように。
廊下に漂う人工的な空気清浄の匂いの中で、エレベーターのボタンを押す真理の指先が、少し震えていた。
エレベーターの扉が開いたと同時に、真理はすばやく乗り込んだ。
その背中を追いかけるように、男も無言でエレベーターに滑り込んでくる。
彼の靴音はなかった。ただ気配だけが重たく、背後に張りついてくる。
(……こんな人、このマンションにいたっけ?)
心の中で問いが浮かぶ。
このマンションに住んで三年。共有スペースで見かける顔は少しずつ覚えるものだ。
だが、この男に見覚えはない。整いすぎた顔。肌の質感がどこか現実離れしている。
そして何より、存在感が薄いのに、目だけが異様に強く印象に残る。
真理は、オートロックを通過してきた事実を思い出し、自分をなだめるように小さく息を吐く。
「住人なんだ、きっと」
だが、エレベーター内で15階のボタンを押すのを、なぜかためらった。
咄嗟に、11階のボタンに指を伸ばす。
男はワンテンポ遅れて、7階のボタンを押した。
沈黙の箱。
誰も話さない。
だが、その沈黙は、冷たく濁った水のように重く広がり、真理の肌をじわじわと包み込む。
(防犯カメラがある。大丈夫……)
胸の奥で何かがゆっくりと蠢く。不安という名の小さな生き物が、肺の奥で丸くなっている。
エレベーターは5階、6階と過ぎ、ついに7階へ到達した。
小さなベル音とともに扉が開く。
男は無言で降りた。
歩き方は静かで滑るよう。だがその背中に、不自然なまでの影がついて見える。
真理は安堵と焦りの入り混じった指先で、「閉」ボタンを連打した。
扉が閉まり始める。その瞬間、ふと真理の目が外に滑った。
──男が、振り返っていた。
照明に照らされた廊下の奥、遠ざかるべき背中がこちらを向いていた。
表情は読めない。だが、瞳だけが、エレベーターの中の真理を正確に捉えていた。
目が合った。
寒気が背骨を這い上がり、髪の毛が一本ずつ逆立つ感覚があった。
扉が閉じた。
真理は反射的に「11」の階で降りた。
そのままエレベーターから飛び出すようにして廊下に出る。
扉の向こう側で、誰かがまだ見ている気がして、決して振り返らなかった。
非常階段の扉を開ける。冷たい鉄の取っ手がじっとりと汗ばんでいる。
上がる。
重たい空気が階段に滞留している。夜とはいえ、日中の熱が壁に残り、じりじりと皮膚を焼く。
真理の呼吸は早くなり、額からは細い汗がこめかみを伝って落ちた。靴音を殺し、壁に体を寄せながら四階分の階段を昇る。
誰にも気づかれずに、誰にも見られずに──ただ、15階へ。
影すら殺すように、足音を吸い込むコンクリート。
けれど、背後に誰かの息遣いがあるような錯覚が、何度も真理を振り返らせそうになる。
ようやく15階の表示が見えた。
真理はゆっくりと、しかし急くように、非常扉のレバーに手をかける。
重たい扉が、静かに開いた。