10:白昼夢
天井の隅でくぐもるように響くテレビの音声が、店内の静けさをわずかに掻き乱していた。真理は温かい蕎麦をすすりながら、意識の端でその音を聞いていた。
何の興味もない、いつもの昼下がりのワイドショー。
だがその日、それはまるで深い井戸の底から伸びてきた手のように、静かに彼女を捉えた。
テレビ画面の中は、祇園祭の様子から東京の気温を伝える情報に変わった。
「関東では、観測史上最も高い気温を記録しました――」
画面には、東京の喧騒の中に立つレポーターが映っていた。白いシャツが汗で張り付き、片手には温度計。
「ご覧ください、今、午後一時で39.1度です。体温よりも高いですね」
声だけは明るく、だがその笑みは、溶けかけた仮面のようにどこか歪んで見えた。
画面が切り替わる。
レポーターの周囲を行き交う、群衆。
熱気に晒される無数の顔。
サングラス、マスク、日傘、タオル――誰もが何かに隠れ、守られようとしている。
そのときだった。
ほんの一瞬。
その映像の片隅を、ふたりの女性が横切った。
一人は、真理そのものだった。
細身の輪郭、やや大きめのサングラス、淡いブルーのシャツ。
もう一人は、優香にそっくりだった。
あの艶のある黒髪と、真理だけが知っているあの歩き方。
ふたりは並んで歩き、そして――消えた。
一瞬の閃光のように、何も言わず、画面から消えた。
その刹那、真理は口に含んだ蕎麦を吹き出しそうになり、慌てて咳き込んだ。咽せたつゆが喉を焼き、目頭に涙が滲む。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
画面はまたレポーターに戻り、彼は何事もなかったように気温計を振りながら、「異常な暑さです」と繰り返していた。
異常なのは、気温だけではなかった。
真理の背筋に、冷たい感触が走った。
身体の芯から、ゆっくりと氷のようなものが這い上がってくる。
手のひらの熱は引き、鼓動だけがやけに耳に響いている。
――今のは、偶然じゃない。
香織が言った、東京で自分を見たという証言。
直樹が見た自分らしき人物。
遥の母が覚えた違和感。
それらすべてが、いまこの一瞬に繋がったように思えた。
他人の空似、そんな言葉ではもう処理できない。
見間違いだと笑い飛ばすには、あまりにも“私”は、そこにいた。
真理は、もう蕎麦に箸を伸ばすことができなかった。
出汁の香りは冷め、まるでそれさえもさっきまでいた自分を忘れようとしているようだった。
テレビでは、再び祇園祭の映像が流れ始めていた。
白い装束、ゆっくりと回る鉾。
だが、真理の目には、もはや何も映っていなかった。
脳裏に焼きついたのは、東京の雑踏を歩くもう一人の私の背中――それだけだった。
そして、ふと胸の奥に浮かんだ言葉に、真理は小さく身震いした。
「私は、私のままでいられるのだろうか――」
彼女の昼休みは、そこからゆっくりと、終わっていった。
蕎麦屋を出た真理は、真昼の陽射しを正面から受けながら、まるで足元に鉛を括りつけられたかのように、ゆっくりと歩き出した。空気は熱を孕み、アスファルトの照り返しは景色さえ歪める。だが、それよりも真理の視界を曇らせていたのは、先ほどのテレビ画面に映った何かだった。
ドラッグストアの自動ドアが機械的な音を立てて開いたとき、真理は夢から醒めるような錯覚を覚えた。店内の冷気が肌を刺し、強制的に現実へと引き戻す。無言のままタイムカードを押し、ロッカールームで制服に袖を通す。鏡の前でエプロンの紐を結んだとき、自分の姿がふと、先ほどの“もう一人の自分”と重なって見え、心の奥にひび割れのような不安が走った。
「お願いしますね」とレジの若いバイトに声をかけて、真理は店の奥へと向かう。午後に届いた納品物の段ボールが積み上げられ、開封を待っていた。だが、手に取った帳票の文字はすべて霞んでいた。脳裏には、東京の灼熱の街を歩くふたりの映像が何度も再生されていた。
本当に、あれは他人の空似だったのか?
それとも――優香は、何かを隠している?
スマートフォンを取り出し、震える指先でLINEを開く。そこには、あの日交わしたままのメッセージが冷たく並んでいた。
「香織とは会ってない」と、優香は言った。
けれど、さっきの画面では、たしかに彼女と私――“私のような誰か”が一緒にいた。
あれは、幻だったのか。それとも現実が、静かに形を変えているのか。
その思考を遮るように、スピーカーから店内アナウンスが流れた。
「医薬品売り場でお客様がお待ちです。」
その言葉に反射的に体が動き、真理はスマホをポケットにしまい、医薬品売り場へと向かった。
そこに立っていたのは、東南アジア系と思しき若い男女の二人組だった。
異国の空気をまといながら、彼らは手にしたスマートフォンの画面をこちらに差し出す。
真 理は画面を覗き込む。そこに映し出されていたのは、見慣れないパッケージの薬――赤い十字と、見たこともない言語。
一瞬、その薬のパッケージが、妙に禍々しく見えた。どこかで見た悪夢の断片が、頭の奥から這い上がる。
「ちょっと待ってくださいね」と、笑顔を作る。
スマートフォンで検索をかけると、それは日本では使用されていない成分を含む痛み止めだとわかった。
真理は翻訳アプリを起動し、その情報を簡潔に訳して見せる。
しかし、彼らは首を横に振った。
「似たような薬ならあります」と打ち込み、画面を差し出す。
だが、やはり同じく首を振り、彼らは何も買わぬまま、静かに店を去っていった。
それは、真理にとってはもはや慣れ親しんだ光景だった。
マスク越しに交わされていた声も遠く、検温機が無言で人の体温を測っていたあの頃は、今や遠い記憶の底に沈んでいる。
世界は、まるで疫病の記憶を意図的に消去したかのように、また元の姿に戻ったように見えた。
昼も夜もなく、多言語の波が押し寄せる。
異国の香辛料のような匂いが混じった空気の中で、彼らは薬を求めてやってくる。
その目には、疲労と期待と、わずかな苛立ちが同時に宿っている。
今日の彼らは、諦めも早かった。だが、中にはまるで執念のように詰め寄ってくる者もいて、真理は時折、自分が知らない国の迷宮の中で迷っているような気分になる。
ここが日本であるという確信さえ、揺らぐ瞬間があるのだ。
それでも、彼らがもたらす売り上げの恩恵は明らかだった。
店長もそれをわかっている。
だから、最近では中国人や韓国人の留学生をアルバイトに採用しはじめた。発音の正確さや文化的な理解を期待してのことだろうが、真理からすれば、世界がひとつに混ざりすぎて、境界が失われていくような気がしていた。
「自分」が「ここ」にいて、目の前の商品を並べ、応対し、レジを打っている。
だが、その「自分」が、確かに私であるという保証は、どこにあるのだろう。
一瞬、鏡のようなガラス戸に映った自分と目が合う。
そこに立っていたのは、果たして自分なのか?
あるいは、別の“私”なのか?
真理は無言のまま店の奥へと戻り、積まれた段ボールの山に目を向けた。手元のリストに目を走らせ、ひとつひとつ確認を取る――はずだったが、思考はどこかで逸れていた。箱の側面に記された黒いインクの文字が、まるで別の言語に見える。
ここが、じわじわとどこでもない場所に変わっていく気がした。自分が足を踏みしめる床が、薄く、脆く、下には深く沈む空洞が広がっているような錯覚。それでも、真理は手を動かす。そうすることでしか、自分の輪郭を保つことができなかった。
外の陽射しは、まだ焼けるように強かった。
だが、真理の心には、別種の冷たい影が、じわじわと広がっていた。
こんなにも日常の只中にいるのに、私は今どこにいるのだろう。
誰かが、私の代わりに、この世界を歩いている気がする。
そして、その誰かは、確かに私よりもうまくこの世界に溶け込んでいる。
そんな考えが、背後の蛍光灯の音に紛れて、心の底にひっそりと灯っていた。