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再現  作者: 嵯峨野遼
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1:目撃された私

 大阪の夏は、曇っていても暑い。

 重たい雲が空を覆っている朝だった。灰色の空は、どこかで降ることを諦めたように、ただ鈍く光りながら停滞している。アスファルトの道は朝の湿気をはらみ、通り過ぎるバスの排気に混じってむせ返るような熱気を吐いていた。


 中央区の駅近にあるドラッグストア。角地に建つその店は、白と赤の派手な看板を掲げながらも、周囲のビルに呑まれて控えめに見える。通勤中のサラリーマン、旅行客らしき若者、ベビーカーを押した母親。人の波は絶え間なく続き、店の前を流れていく。にもかかわらず、入口のガラス戸は朝の光を跳ね返し、どこか静謐な距離を保っているようだった。


 真理はそのガラス戸を押して、無言で中に入った。

 自動ドアの開閉音が背後で鳴る。湿った風が、ひとの通った痕跡を残すように後ろ髪をなでていった。

 彼女はレジ脇のロッカールームへと向かう。白いシャツに店名のロゴが入ったエプロンを身につけ、無造作にひとつにまとめた髪を鏡で確認すると、タイムカードを差し込んだ。時刻は午前九時五三分。


 「おはようございます」と口にする声は、いつも通りだった。

 言葉そのものに感情は乗っていない。ただ、決まった時間に決まった場所で決まった挨拶をする。それは形式でもあり、儀式でもある。


 「おっはよー、真理ちゃん、蒸し暑いなぁ今日」


 レジ台を拭いていたパートの西村が、振り向きざまに笑う。彼女は年上で、娘のように真理を扱いたがる癖がある。


 「湿度、90パー超えてるかもですね」


 真理はにこりともせず答えた。それでも会話は成立する。西村も、それを不快には思わない。いつものことだった。

 涼しい店内。だが湿度は外よりわずかに低いだけで、冷房の風も、商品の並ぶ棚の間をすり抜けるうちに、どこかで濁ってゆく。雑音のように流れ続ける館内放送。お買い得商品の案内。水虫薬のキャンペーン。どれも彼女の耳にはもう届いていない。


 真理にとって、ここで働くことは「好き」ではない。だが、「嫌い」とも思ったことがなかった。

 むしろ心地よかった。

 決まった手順。決まった位置。きちんと並べられた棚と、バーコードを読み取る音。それらが、毎日を今日に留めてくれる。世界が昨日と地続きであると、静かに保証してくれる。


 無駄口を叩かず、必要以上に他人に踏み込まず、余計な表情を作らないこと。それが彼女の仕事の作法だった。そして、同時にそれは真理という人間を守るための、唯一の壁でもあった。


 「真理さん、あの顧客クレームのやつ、まだ引き継ぎ残ってるから、後で店長から話あるかも」


 もうひとりのアルバイトが、通路越しに声をかけてきた。

 真理は小さく頷いた。それだけで済む。それ以上の説明も、弁明もいらない。


 店の外では信号が変わり、車の列が再び動き始めていた。

 どこか遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。だが、それもドラッグストアの分厚いガラス越しには、薄く、歪んで聞こえる。音はあるのに、感覚には届かない。


 その時ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。

 小さくて乾いた振動だった。にもかかわらず、真理は反射的に立ち止まり、手を止めた。

 たかが通知。それも、いくつもある中のひとつ。

 けれど、その小さな揺れが、この朝のルーティンに、目に見えないノイズのようなものを含ませた。

 ポケットからスマホを取り出す。画面には、LINEのアイコンと、懐かしい名前。

 香織――大学時代の友人。

 ここ数年は、年に一度、誕生日に連絡を取り合う程度の仲だった。最後に香織に会ったのは去年の秋だった。


 それでも、その名が表示された瞬間、真理の胸に、かすかに水を打たれたような感触が走った。

 彼女はスマホの画面を見つめたまま、レジ奥の隅に身を寄せる。

 表示されたメッセージは、こうだった。


 「今、東京に来てるんでしょ? さっき、歩いてるの見たよ。渋谷の交差点!」


 LINEの通知がひとつ、画面の中に留まったまま、真理はスマホを制服のポケットに戻した。通知の続きは、昼休憩で読む。今、それを開いてしまえば、何かが「今日」から剥がれ落ちる気がした。


 朝の来店客は、平日としてはやや多い。

 観光客がちらほらと、外国語の成分表を指さして尋ねてくる。マスク越しの声は不明瞭で、翻訳アプリを通してもなお言葉はぎこちなく、どこか宙に浮いたまま真理の耳に届く。


 レジでバーコードを読み取る音は、一定のリズムを刻みながら、真理の意識を沈めてくれる。

 ピッ、ピッと、音のたびに世界は秩序を取り戻し、棚と数字と在庫表の中に、現実が整列してゆくようだった。言葉はいらない。笑顔もいらない。ただ、商品を袋に詰める。差し出された硬貨を受け取り、レジのドロワを閉じる音が、彼女の世界を閉じる鍵のように鳴る。


 「これ、前に買ったのと違う気がするんやけど」


 声がかかったのは、湿布の棚の前だった。

 高齢の女性。白髪を整え、よれた手提げ袋を片手に立っている。彼女が手にしているのは、ロキソプロフェン配合の貼付薬。最近、リニューアルされたパッケージだ。

 真理は一歩引いて、相手との距離を確かめた。


 「成分はほとんど変わっていないと思いますが、箱のデザインが変わったので、そのせいかもしれません」


 言葉を丁寧に、しかし必要以上に感情を含めずに返す。

 女性は首を傾げ、何度かパッケージを裏返しては、「でもなんか、違う気がするのよ」と小さくこぼした。

 真理は微笑を浮かべず、ただ、「成分表示はこちらにございます」とだけ言い、指先で文字の並びを指した。

 女性が頷き、手提げ袋に品を戻してゆく間、真理の視線は女性の後ろに立つ空気のゆらぎに焦点を合わせていた。

 何かがいる、というわけではない。

 ただ、誰かが「見ている」ような、だがその誰かが、彼女と同じ顔をしているような、説明のできない既視感が、ふと意識の底をかすめることがあった。


 職場の空気は、時間と共に濃くなってゆく。

 客の数は減らないのに、時計の針は遅く、やがて午前と午後の境が曖昧になってくる。外の光は厚い雲に遮られ、照明の蛍光灯だけが白く時間を支えている。


 「真理さーん、シフト票、確認お願いしまーす」


 レジ奥から声がかかる。

 真理は返事をして、用紙の一覧を確認した。名前が並ぶ表の中に、自分の名前を探す。

 だが、一瞬、紙の隅にもうひとつの真理の文字が見えたような気がして、目を凝らす。何もない。見間違いだった。


 自分という存在は、記号として確かにここにある。

 でも、それは誰でもすぐに、すり替えられるものだ。そんな妄想が、最近ふと頭をよぎるようになった。

 店内で流れるBGMが、唐突に一瞬だけ途切れ、そして何事もなかったかのようにまた流れ始めた。

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