《対馬》〜海における、最後回答〜
明治四十六年初頭。
横須賀造船所は、ひとつの分裂を抱えていた。
それは、《対馬》の設計をめぐる激しい対立だった。
「砲だ! 火力で決めるべきだ!」
「いや、防御なしに火力は成立せん」
「速力を忘れるな。敵に追いつけなければ、全ては紙の上の理想だ」
三つの派閥――薩摩派(速力)、安芸派(防御)、能登派(火力)が、設計会議の場で言い争う日々。
新型主砲、33センチ砲は搭載されることが決定していたが、それをどう生かすか、そこに答えはなかった。
そんな混沌の中、設計主任に任命されたのは、薩摩型の全設計に関わってきた中堅技術士官、村瀬正孝中佐。
温厚で寡黙、派手さのない男だったが、彼の就任と共に、会議の空気はがらりと変わった。
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「――この艦は、誰の娘でもない。三姉妹を超える“答え”である」
村瀬は言った。
「砲だけでは戦えない。装甲だけでも守れない。速力だけでは勝てない。だが、三つを調和させれば、それは“戦術”になる」
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――戦術艦《対馬》
《対馬》の艦体設計は、既存の三艦をベースにしながらも、全体を再構築していた。
•砲塔は《能登》と同じ33センチ砲三基。ただし、旋回速度を向上させるため、軽量改修型を採用。
•装甲帯は《安芸》の傾斜装甲方式を改良し、特に艦首防御を強化。砲戦での突撃力を高める意図だった。
•主機は《薩摩》の高速型タービンと《安芸》の高圧缶を“折衷設計”し、出力と耐久性を両立させた。
そして最大の特徴が、重心制御システム。
高速航行中の砲撃に耐え、命中精度を維持するため、艦内バラスト制御と新型スタビライザーを導入。
これは後の金剛型以降に大きな影響を与える革新技術となった。
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――最初の試練
公試航海の日。
海は荒れていた。波高は三メートルを超え、試験には不向き。
だが、村瀬は出航を命じた。
「この艦は、理想の海ではなく、現実の戦場に立つために生まれたのだ」
《対馬》は荒波を蹴立てて進んだ。
速度は34.9ノット。
砲撃試験では波浪の中でも命中率80%以上を記録。
装甲板の耐圧試験も良好。艦内では負傷者すら出なかった。
帰港した艦を見て、設計局長はぽつりとつぶやいた。
「……これはもう、薩摩型ではないな」
「……ああ。これは、《対馬型》だ」
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――戦術に生きる艦
《対馬》は就役後、艦隊戦術演習の中核艦として配備された。
速度を活かして先陣を切り、砲撃で敵を引きつけ、装甲で被弾をしのぎながら反撃する。
“敵の攻撃を読んで突撃し、次の瞬間には退避と追撃を両立させる”という、奇跡のような艦運用。
その運用教範は後の戦艦教練課程で「対馬教範」として広まり、事実上、《対馬》は日本海軍における戦術設計の母艦となった。
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――四姉妹、そしてその果て
《薩摩》が速力という剣を握り、
《安芸》が防御という盾を構え、
《能登》が火力という意志を叫び、
そして《対馬》は――それらを握りしめて、戦いの中で咲いた知性となった。
薩摩型四姉妹。
その名は、のちに語られる。
「近代戦艦を、思想から造った者たち」として。
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そして――
時代は昭和へ。
金剛型が誕生するその設計会議において、ある設計士官がこう記録に残している。
> 「この艦(※金剛)は、対馬の延長線上にある。
> ようやく、四姉妹の言葉が、戦術として一つになったのだ」