6. 上月沙耶
ぐうぐうと呑気に寝ている榊原のそばで、さっと部屋着を着て、自分の家なのに逃げるようにベランダに出た。
まだ薄暗い四月の夜明けは、日中の暖かさが嘘のように冷えている。おかげで頭が冴えてきて、昨日この部屋で起きたことをじわじわと鮮明に思い出した。そして、消えたくなる。
榊原を襲ったのは、わたしだ。
べたべたとひっつき、自分からキスして、ベッドに押し倒した。……あぁ、最悪だ。終わった。
むしゃくしゃしていた。ここ数ヶ月間、誰にも言わずにずっと自分の中で押し込めていた感情が爆発して、酒の勢いであてつけのように榊原と寝たのだ。
こんなことをしてしまうくらいの原動力は、ただ寂しさを紛らわすためか、それとも彼への復讐心か。
ベランダの柵にだらりともたれ、スマホをさわる。
彼からの、たくさんの着信とLINE。今から同期と飲みに行くと送ってから連絡がつかなくなったわたしを心配してくれているのだ。それを見て、素直に嬉しいと思ってしまう。
でも、やっぱりどこか物足りない。
本気で心配してくれているのなら、わたしの家まで来るとかしてくれればいいのに。もっとも、そんなことしてくれるわけないとわかっているからこんなことをしたのだけれど。
今頃すやすやと眠っているのだろう、愛おしいあの寝顔を想像したら腹が立ってくる。
「はぁぁ……」
つくづく自分が嫌になる。わたしって、どうしてこんなに性格悪いんだろう。
……何はともあれ、彼を裏切ってしまった。わたしは榊原と、浮気してしまった。その事実は消えない。
『ごめん。酔っ払って寝てた』
彼にLINEを返した。
さっきポケットに入れたアイコスを取り出し、咥えた。
彼への複雑な思い、榊原とやらかしてしまった罪悪感。いい歳をして、愚かな自分。何もかも煙と一緒に、吐き出す。
そのまましばらくスマホを触っていたけど、彼からの返信はなかった。そりゃそうか、時間が時間だもの。
でも、本当にわたしを心配しているのなら、起きて連絡が返ってくるのを待っていてほしかった。せめて、このLINEの通知音で飛び起きてほしかった。
……呑気に寝やがって。
彼にとって、わたしって何なんだろう。わたしって、要るのかな。
裏切ったのはわたしの方なのに、こうしてますますネガティブな感情に支配されていく。最低な自分。
早くこの闇から抜け出したい。プロポーズされて、幸せになりたい。
もう、何も考えたくない……。
アイコスが切れた。煙のかわりにまた大きなため息を吐いた。
「さむっ」
部屋に戻り、吸い寄せられるように榊原が眠るベッドに潜り込んだ。
無駄に鍛えられた胸板に、そっと頭をのせる。
仰向けに寝ている榊原が、身体をわたしの方に向ける。そして包み込むように抱きしめられた。
一定のリズムでゆっくり刻まれる、榊原の鼓動。
温かくて、落ち着く。
自分の中の弱い感情が全て溶かされていくような心地良さ。
冷えた身体が、榊原の体温によってどんどん暖まっていく。と同時に、これが恋なのかと錯覚してしまう。……そんなわけないのに。
**
再び目を覚ますと、目の前に榊原の顔があって、わたしをじっと見つめていた。
「おはよ」
当たり前のように言われ、当たり前のように同じく返した。
「……腹減った」
「……なんか作ろっか?」
「マジ?」
「うん。簡単なのしか無理だけど」
「全然いい」
まるで長年付き合っている恋人みたいに、わたし達はベッドの中で会話する。
わたしはずっと前から榊原と付き合っている、そんなパラレルワールドにいるみたいだ。
トーストを焼いて、その上に目玉焼きを乗せた。横にケチャップをかけたスクランブルエッグ、そしてベーコンを添えて、コーヒーと共に出してあげると彼は大げさなくらい喜んだ。
「うわっ、最高!こういうのが一番良いんだよなぁ」
「めっちゃ普通じゃん」
「いや、シンプルイズベストよ。いただきます!」
ダイニングテーブル越しにぱくぱくと美味しそうに食べる榊原を眺めていると、心が満たされていくのを感じた。
そしてわたしのこの気持ちこそが、彼氏に対する最高の復讐のように思える。
榊原はびっくりするくらいあっという間に食べ終えると「じゃあ俺帰るわ」と榊原は立ち上がり言った。
「え、帰るの?」
「え、帰ったほうがよくない?」
「……べつに、どっちでも」
わたし、何言ってるんだろう。何寂しいとか、思っちゃってるんだろう。
いつからこんなに弱くなっちゃったんだろう。
「彼氏がやって来て修羅場になる前に帰るわ」
あまりにも平然と言うものだから、なんだか腹が立ってくる。
「あっそう」
「……なんだよ?」
怪訝そうに見てくる榊原の顔が、出会ってから昨日までの榊原と別人みたいに見えた。
わたしの中で、何かが弾ける。何かが、確実に芽生える。
彼氏がプロポーズしてくれないからって浮気する女。酔っ払った勢いで同期と寝る、愚かで情けない女。こんな人間を、誰が愛してくれるだろう。
同期だから若干気まずいけどヤれてラッキー、なんて思ってるのかな、榊原は。
わたしは、こいつに嫌われたくない。
その逞しい腕で、また抱きしめられたい。胸の中で眠りたい。そう願ってしまう。
「なんでもない。ごめんね。気を付けて帰って」
「おう」
玄関まで見送り、その大きな背中はあまりにもあっさりと去って行ってしまった。
一人になったわたしは、思い出したかのように彼氏の凌に電話をかけた。
榊原と浮気したおかげで心に余裕を持てたせいか、いつもより素直に「会いたい」と言えた。