26. 鈴木太陽
耳を疑った。
「え、本当にいいの?」
風香は渋々ながらもしっかりと頷いた。
「うん。なんか、ごめんね。色々迷惑かけちゃって。……そうだよね、太陽くんのためにも、そしてあたしのためにも。別れた方がいいんだよね、あたし達」
「……風香」
「幸せになってよね。じゃないと許さないんだから」
目に涙を浮かべながら微笑んでくる風香に、こっちまで泣けてくる。
やっぱり風香はとても良い女だったし、俺は最低なことをした。
俺が幸せにしてあげられなかった分、絶対に幸せになってほしいと心から願える。
「最後にハグ、してもいいかな?」
彼女の実家の近くにある公園のベンチに俺達は座っている。夜だから人気はない。
濡れた子猫みたいな上目遣いに、頷くしかない。
「あぁ、太陽くん、大好きだったよ」
耳元で囁かれる甘い声に、やっぱり別れないでいようかななんて思ってしまう。
だがあのとんでもないメンヘラ具合や暴れ方、わけのわからないルールを思い出したらやっぱり別れたくなる。
風香のことはたしかに好きだったけど、彼女の重すぎる愛を受け止めきれなかった、ただそれだけの話だ。
もっとも榊原さんからすれば、それは恋でも愛でもなんでもないらしいが。
身体を離すと今度は彼女の顔がぐっと近付いてきて、キスをされた。
優しくて、悲しいキスだった。
やがてあまりにもあっけなく、風香は俺に手を振って帰って行った。
無事に別れることができた。
ほっとしたと同時に、寂しさも少なからず襲ってきた。風香という女は俺にとっていったいなんだったんだろう、と考えた。
出会って、恋をして、一緒に暮らして、崩壊して、別れた。
今思えば強い突風のような、不思議な恋だった。
風香、幸せになれよ。俺は彼女の背中が見えなくなるまで見送り、家に帰った。
**
「よかったな!」
社員食堂で向かい合った榊原さんは、親指をぐっと上げてニカっと笑った。その歯の白さがとても眩しい。
「いやぁもうおかげさまで!助かりました。色々とアドバイスいただいてありがとうございました。これからはちゃんと自分の見る目を養っていきます」
「はははっ、頑張れよ」
風香と別れたことで大きな悩みが一つ消えたからか、俺はとんかつ定食を綺麗に平らげた。
思えばここ最近、こんなにちゃんとがっつりしたものを食べたことがなかった。
「あ、上月さん」
不意に俺達のテーブルの前を過ぎ行くその姿を見つけて、呼んでしまったあとにしまったと後悔した。自分のことで一杯すぎて、この二人の関係をすっかり忘れていた。
だが俺のそんな心配は、大人な二人には不要だったようで。
「おう、上月」
榊原さんは俺に呼び掛けるのと同じようにフランクな笑顔で、彼女に手を挙げた。
それに対して上月さんも、いつもに増して凛々しく微笑み、胸の前で手を揺らした。
「なになに、二人して浮かれた顔して。鈴木が無事に別れられたとか?」
「図星なんですけどっ!」
「マジっ!?」
さすが侮れない。仕事ができる上司というのは勘も鋭いのだろうか。
それから軽く一部始終を話し、上月さんは顔をしかめたり笑ったりしながら俺の話を聞いてくれた。榊原さんも一緒に頷いたり相槌を打ったりして、二人の間には実は何もなかったんじゃないかと錯覚してしまいそうになるくらい自然な雰囲気だった。
また三人で飲みに行きましょうよ!と思わず言いそうになったが、さすがにやめておいた。
俺と風香も、いつかこの二人みたいに綺麗に笑い合える日がくるのだろうか。くると、いいな。
久しぶりにちゃんと声を出して笑った気がした。風香もどこかで楽しく笑っていてほしいと心から願う。
恋愛体質とよく言われる俺だけど、新しい恋は、当分いい。
**
これからは恋は置いておいて、仕事に集中しよう。そう意気込んでいた、帰り道のことだった。
電車の中でスマホをさわっていると、LINEの通知がきた。風香からだった。
せめてくだらない冗談であってほしい、と願わずにはいられない文がそこにあった。
『太陽くん、もう一度話せない?やっぱり寂しいよ、一人じゃ生きていけないよ』
目を疑った。
絶句するとはこのことか。俺はため息すら出ず、ただ何度も読み直し、あのくだりをもう一度しないといけないのかと思うと心の底から絶望した。
自分なりに、結構ドラマチックに別れられたと思っていたのに。心配してくれていた上司にも報告して、さぁ心機一転、頑張ってやっていこうかと気合いを入れたところだったのに。
俺は風香を甘く見すぎていたのかもしれない。
『話すって、何を?』
文字をタップする自分の指がひどく重い。
昨日のあのくだりは何だったのだろうか。
すぐに既読が付き、返信が返ってくる。
『風香、やっぱり別れたくないよ』
もう真っ直ぐ立っていることすら億劫で、俺は満員電車の中で大きくうなだれた。
『もう別れてるよ』
面倒すぎて、最悪すぎて、俺の中の感情が死んでいく。
『やっぱり別れたくない!』
……チーン。
この疲れた身体に、風香の刺激は耐えられない。俺は返す気力も起きず、既読無視することにした。
すると当たり前のように連続送信の嵐が起きた。
『ねぇ太陽くん』
『別れたくないよ』
『太陽くん!』
『おーーーい』
『既読無視?』
『なんで?意味わかんないんだけど』
『見てるんでしょ、なに無視してんだよ』
『ていうか元はお前が浮気したんだろ』
『ちゃんと償えよ』
『最低』
『ちょっと、無視?』
『なんで?ねぇ、太陽くん』
『ふざけんな死ね』
時々紛れ込む、風香から発せられているとは思えないような汚い言葉に気が遠くなる。
お前とか死ねとか、本当に彼女が打っているのだろうか。別の誰かが代わりに打って、その隣で風香があたふたしているんじゃないだろうか。……そんなわけないか。
もう絶対に戻れない。戻れるわけがない。
出会った頃の、可愛い可愛い風香にもう一度会いたい。全部俺が悪いけど、もう愛せないなんて無責任すぎるとわかっているけど。
本当に、無理なものは無理なのだ。
俺が無視を続けていると次は電話が掛かってきた。電車の中なので当然拒否を押した。
『電話でろよ』
『なに拒否してんだよ』
『お前が悪いんだろ』
あああああああ……!!
これでもかというほどのストレスが俺の脳を支配し、今すぐ叫んで何かを殴りたい衝動に駆られる。
電車を降りてから、ずっと鳴り続けている電話に出た。
「……はい」
『おいてめぇ、何無視してんだよ!いい加減にしろよ!死ねよ』
信じられなかった。
ものすごい勢いで捲し立てる、風香とは思えない、低く荒れた声。興奮しているのだろう、その息の風まではっきりと伝わってくる。
「風香、落ち着いて」
俺の声はほとんど声になっていなかった。疲れ過ぎているのと、呆れと恐怖のせいだ。
『落ち着いてられるかよ!お前が浮気したからだろ!』
「本当にごめん。……ごめんなさい」
『無理だからっ』
あぁ、誰か助けて。このままだと俺まで壊れてしまいそうだ。
『なにため息ついてんだよっ!てめぇマジ殺す』
俺が今電話しているのは、いったい誰なんだろう。そういえば、風香は元気にしているのかな。傷付てしまったけど、その分幸せになってほしいな。
罵声を浴びながら、現実逃避をせずにはいられない。
『ちゃんと責任とれよ。じゃないとパパに言うから』
パパ?なぜここでパパがでてくる?
「責任とるって、何?」
とぼとぼと家まで歩きながら、俺は呟くように聞いた。
『決まってんだろ、結婚だよ』
はああああぁ?
『責任とって、結婚してくれたら許す』
「……本気で言ってる?」
『本気に決まってるだろバカ』
風香?
結婚なんてさすがに馬鹿げている。ただでさえ別れたくて仕方がない(もう別れているが)のに、こんな状態で結婚とか地獄すぎるだろ。勘弁してくれよ。
風香の思考回路が当におかしくなっていることは知っていたけど、ここまでだとは思わなかった。もうついていけない。
『今から会いに行く』
「勘弁してくれ」
『は?』
「お願いだから、今日は無理」
もう抱えきれなくて、俺はそのまま電話を切った。
それから何度も何度も掛け直してきたけど、俺は拒否を押し続けた。
家に帰り、晩ごはんを食べ、風呂に入り、ベッドに着く頃までずっと電話は鳴り続けていた。だが絶対に出なかった。
相手にしていられない。俺はそのまま眠りについた。
朝起きると、スマホが壊れているんじゃないかと思うほどの大量の通知がきていた。
夜中の間だけで、着信数は200件を超えていた。一番近い時間だと午前五時半。朝までずっと電話をかけ続けていたと思うと、その狂気に背筋がぞっとした。
俺は今、風香に対して“怖い”と思っている。
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