20.佐久田凌
もう31歳にもなっているのに、高校時代の友人達と男五人でスポッチャではしゃいでしまった。
が、明日からまた仕事なので九時には解散した。そこらへんはもう若くない。
駅から自宅まで歩く帰り道になるまで、沙耶のことをすっかり忘れていた俺は少し子供すぎるだろうか。
思えば、昼前くらいからLINEを返せていない。友達といると楽しくて、つい忘れてしまう。
迷うことなく電話を掛けた。
数コールの後、繋がった。
『……はい』
「おーっす。どうしてた?俺はスポッチャ行ってて、今家まで歩いてるところ」
『……そうなんだ』
あれ、テンション低めか?体調でも悪いのだろうか。
「何してたー?」
『別に何も』
低くて聞き取りづらい、小さな声。これは明らかに機嫌が悪いようだ。
もしかして、俺がLINEを返せていなかったから?でもそんなこと、いい歳した大人が気にするだろうか。
「そかそか。いやぁ、はしゃぎすぎたわ。これは明日絶対筋肉痛だ」
『やば』
「そういやジムも結局入らないことにしたし、本当痩せなきゃやばいな。まぁ今日は良い運動になったわ!二日続けてスポーツ日和だ。ははは」
『……はは』
「……もしかして、元気ない?」
今やっと気付いた風を装って聞いてみる。
沙耶は、気分の浮き沈みが激しい方だ。だが、普段はキャリアウーマンとして一生懸命頑張っている彼女がこうして俺にだけ素直に感情をぶつけてくれるのは、正直嬉しくもある。
『そんなことないけど』
「……そかそか」
しばらく、気まずい沈黙が流れる。
「……なんかあった?」
『何もないけど』
「嘘だ」
『……』
それは何かあることを肯定していた。
「言ってよ」
『……』
「沙耶?」
『……もう、別れたい』
「え?」
予想もしていなかった言葉が返ってきて、俺は思わず歩いている足を止めた。
「え、待って。なんで?」
『もう疲れたの』
「何に?……今から行くわ」
『いい。来なくていい』
全てを諦めたような、力の抜けた弱々しい言い方だった。
俺の中では昨日、普通に仲良く過ごして解散したはずなんだけど……。この短時間の間に何があったんだ?
「なんでだよ」
言いながら、俺はすでに再び駅の方へと戻っていた。
こんなに意味不明な感じで、俺達の五年が終わってたまるか。
「いいから、行くから。今家だよな?待ってて」
『来なくていいってば』
「行くから!」
一方的に電話を切り、俺は沙耶の家へ向かった。
電車に揺られながら、気が気でなかった。
いったい何があったんだろう。今回は気分の沈み方が大きくて、急に別れたくなったのだろうか。それともシンプルに冷めたとか?他に好きな奴ができたとか……と考えたところで、首を振った。
いやいや、ないだろう。沙耶が俺のことを好きじゃなくなるはずはない。根拠はないけど、少なくとも昨日会ったときはいつも通りちゃんと愛情を感じた。
何より沙耶はそんな女じゃない。真面目で、一途で、優しくて、カッコよくて、可愛い。俺達は愛し合っていた。そしてそれはこれからも変わらない……。
一人でごちゃごちゃ悩んだいたらあっという間に沙耶の家の最寄駅に着いた。
呼び鈴を鳴らすと、ゆっくり扉が開かれた。
顔を見た瞬間、驚いた。泣いていたのか目はパンパンに腫れていて、顔全体がひどく浮腫んでいる。髪の毛もボサボサで、いつもの綺麗な沙耶とは別人みたいだ。
本当に、彼女に何があったのだろう。
部屋に入り、玄関扉を閉めた。リビングへ行き、とりあえず二人でソファに座る。
変わり果てた沙耶のその頬に手を当て「どうした?」と優しく聞いてやった。
しばらく黙り込んでいたものの、沙耶はやっと口を開いた。
「……凌は」
「うん」
「……凌は、わたしのこと、何もわかってない」
「……うん?」
「わかろうともしてない。恋人なのに」
「そんなことないよ。俺はちゃんと沙耶のことわかってるつもり」
「つもりでしょ?」
「いったいどうしたんだよ」
きつく俺を睨むその瞳は、いつもの可愛い笑顔とは似ても似つかない。
「もう別れたいの」
「だからなんで」
「辛いの……!」
みるみるうちにその瞳から涙が溢れてきて、沙耶の膝の上にぽつぽつと落ちていく。
俺にはこの涙の意味が自分でもびっくりするほどわからない。俺、なんかしたっけ……?さすがに心当たりがなさすぎる。
「俺、なんかした?全然わかんないんだけど。ちゃんと言ってよ。直すから」
「……」
「言ってくれないとわかんないよ」
答える気がないのか、答えたくないのか、ただ涙を流し続ける沙耶。
こんなの無理だ。意味不明だ。たしかに沙耶の言う通り、俺は彼女のことをまったくわかっていないのかもしれない。でもさすがに今の状況は、俺じゃなくてもわからないのではないだろうか。
「沙耶?」
背中をさすったり、手を握ったり、軽く抱きしめてもダメだった。
むしろ沙耶の泣き方はさらに激しくなるばかりで、俺はどうすることもできない。だからもう何もせず、ただ隣にいることにした。
とりあえず落ち着くまで待つか……。
「今ため息ついたでしょ」
急に嗚咽が止まったかと思えば、責められた。
そうだ、俺は今ため息をついてしまった。無意識だった。
「もう無理。本当、どいつもこいつも……」
最後の方はあまりに小さな声だったので聞こえづらかったが、「どいつもこいつも」って言った……?
「……どういう意味?」
「なんでもない。もういい。別れるから」
「そんなこと言うなって」
「別れる!」
「別れない。ちゃんと話そうよ」
沙耶の両肩をがしっと持ち、こちらに向かせる。じっと顔を見つめると、嫌々ながらも俺を見てくれた。
しばらく見つめ合う俺達。といっても、沙耶はずっと睨んでいるけど。
「沙耶、言って。思ってること、全部」
やがてそのまま三分ほど経ってから、彼女の口がやっと開いた。
「……たい」
「え?なんて?」
「……っこん、したい」
「え?」
「結婚したい」
やっと全てを聞き取れたとき、沙耶は強い瞳で俺をじっと見つめていた。
予想外の答えに、開いた口がふさがらなかった。
「なんて―」
「結婚したい」
こちらが萎縮してしまうくらいの、強い視線。
彼女のその表情は、どこかすっきりとしていた。さっきまで泣いていたのが嘘だったかのように晴々しく、颯爽としていた。まるで何かを切り捨てたかのように。
「ねぇ凌。わたし、結婚したいの」
また言った。
膝に置いたまま固まった俺の手が、沙耶によって掴まれる。
「もう付き合って五年だよ?凌は、結婚したくないの?」
「俺は……」
そういうことか、と全ての辻褄が合った。
だからずっと、なんとなく不機嫌だったんだ。
そうだ、俺は本当は、少し前から気が付いていた。沙耶の機嫌が悪いことに。俺に対して何かしら思っているだろうことに。
でも気が付かないふりをしていた。自分自身をも、騙していた。面倒臭くて、何を言われるのかが怖くて、ずっと目をそらしていた。
そして沙耶の言った「結婚したい」という言葉は、間違いなく俺が恐れていたものだった。
俺には、結婚願望がないから。
「ごめん。……結婚は、できない」
口にした瞬間、全てが崩れた。
俺達は終わった。
沙耶の顔は、絶望というのをこれ以上ないほど表していた。俺を蔑んでいるようにも見えた。
「ごめん」
「……わかった」
俺の手から沙耶の手が離れ、そんなわけないのにこの部屋の酸素が全てなくなったみたいに息苦しくなった。
「理由だけ、聞いてもいい?」
そう呟いた沙耶の顔からもう絶望は消えていて、どこか凛々しかった。
あぁ、沙耶は俺を諦めたのだ。
「……結婚願望が、ないんだ。昔から」
正直に答えた。
「……それは、これからも変わらない?」
その質問がおそらく最後のチャンスだろう。
俺が今できる唯一の償いは、もう誤魔化さないこと。
「……多分。先のことはわからないけど、今のところは、ないと思う」
こんなに苦しいことがあるだろうか。
「そう。わかった。答えてくれてありがとう」
ずっと一緒にいたからわかる。沙耶は今、泣くのを我慢している。
こんな思いをさせるくらいなら、結婚してあげたい。でもどうしてもできない。とくにこれといった理由を聞かれても上手く言えないけど、ただなんとなく、昔から、結婚したくなかったんだ。
別れるか、結婚するか。
「じゃあ結婚しようか」と言えばこれからも沙耶といられる。でもそんな覚悟も勇気も、俺にはなかった。
「沙耶、ごめん」
「ううん。大丈夫」
少しの間があって、彼女は言った。
「今までありがとう」
それは俺達が本当に終わる合図だった。
「ごめん。……沙耶、本当にごめんっ」
俺は狂っているのだろうか。立ち上がり沙耶に頭を下げながら、目から、涙ががどんどん溢れてくる。
「沙耶……っ、沙耶、ごめんっ……本当にごめん……!」
情けない。情けないでしかない。クズだ、俺。
そう思えば思うほど、涙が止まらない。
続いて沙耶も立ち上がり、下げたままの俺の頭に、撫でるように手を置いた。
「謝らないでよ。謝るくらいなら結婚してよ、バカ」
その震えた声に、さらに涙が溢れてくる。
沙耶の言う通りだ。俺はなんてバカなんだろう。
「もう帰って。元気でね」
「……うん」
号泣する俺を支えるように、玄関まで見送られた。
この選択をしたのは俺だ。だが形としては、俺が振られたということになるのだろうか。
まぁそんなことどっちでもいい、俺達はもう終わったのだから。
「じゃあ、元気でね」
涙を浮かべながらも、絶対に流すまいと耐えているような、精一杯の大きな笑顔。それは今まで見たどんな沙耶よりも綺麗だった。
「沙耶も元気でな。……ありがとう」
「うん。じゃあね。気を付けて」
そしてあまりにもあっさりと、扉は閉められた。
ガチャン、という音と共に俺達の五年間は終了した。
俺は泣きながら、電車には乗らず歩いて家まで帰った。長い、長い道だった。
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