19.榊原夏樹
目が覚めると上月はいなかった。
代わりに、テーブルに置き手紙があった。小さなメモに、綺麗な文字で俺への別れの言葉が書かれてあった。
それが俺を余計にしらけさせた。
『榊原、少しの間だけど楽しかった。いっぱいごめんね。さようなら。上月』
なんとなく自分に酔っているようでうすら寒い気がした。
だけど何より一番しらけたのは、こんな気持ちになっている自分にだ。
俺はいったいどこまで最低な人間なんだろう。いつから、こんな風に冷淡で偏屈な大人になってしまったんだろう。
大好きだったはずなのに。上月とまともな恋をすることができなかったのは、どうしてなのだろうか。
とりあえずダイニングテーブルの椅子に座り、コーヒーを淹れて飲んだ。一人きりの、ゆっくりできる大切な時間。とてもほっとする。いつの間にこんなに一人が好きになったんだろう。
顎に手を当て、自分なりに考えてみる。どうして好きな女をあんな風にさせてしまったのか。
そして思い出す。俺はずっと昔からこうだったじゃないかと。頭に浮かんだのは、高校生の頃の初恋だった。
入学して早々、朝の通学電車によくいる、違う制服を着たあの子を見つけた。友達と楽しそうに話すその笑顔が眩しくて、初めて一目惚れというものをした。それから毎日同じ車両に乗り合わせ、ドキドキしながらずっと見ていた。まるでアイドルを追いかけるように、俺はその子に恋をした。まだ喋ったことすらないのに。
どんな音楽を聴くのだろう、部活には入っているのか。好きな子はいるのか、それとももうすでに付き合っている彼氏がいるのか。兄弟は?その前に、自分と同い年なんだろうか。
気になって気になって、仕方がなかった。夢にもしょっちゅう出てきた。
友人達とその話をして盛り上がり、勇気を出して声を掛けてこいという話になった。
彼らに見守られ、緊張しながらも俺はその子のそばへ歩み寄った。
「おはよう。俺、毎日同じ電車に乗ってる諸見中の榊原夏樹って言うんだけど……あの、よかったら友達になってほしくて」
ぎこちないけど、自分なりの真っ直ぐな挨拶だった。初めて目と目が合い、心臓が飛び出しそうだった。近くで見るとさらに可愛かった。その子の隣にいた友人らしき子が、興味深そうに俺とその子を交互に見ていた。
彼女は答えた。
「……ぜひ!」
そしてそれからまるで漫画みたいに順調に事が進み、数回のデートをしてから俺達は付き合うことになった。
だが、そして二人は幸せに暮らしましたとさ……とはならなかった。
ずっと憧れていた、アイドルのような存在の女の子と付き合えて、幸せでたまらないはずだった。
しかし、彼女が俺の告白に答えてくれた瞬間に何かが確実に冷めたのを感じてしまった。付き合えた瞬間、俺の中の彼女の価値が明らかに下がった。そう気付いたとき、なぜか俺はとても悲しかった。
「大切にしてねっ」
頬を赤らめて、可愛らしく言う彼女。頷いてはみせたものの、内心かなり複雑だった。
告白が成功したことを、友人達は自分のことのように喜んで盛り上がっていた。俺も、喜んでいるふりをした。そんな表面上とは裏腹、妙に冷静な自分が怖かった。
付き合えた瞬間、好きじゃなくなった。あんなに大好きだったのに。そんなサイコパスみたいなこと誰にも言えなくて、俺はそれから一年間彼女と付き合い続けた。今思えば本当に申し訳ない。
楽しんでいるふり、好きなふりをした。そんな俺に気付いたのかどうかはわからないが、やがて彼女の方から俺を振った。友人達には悲しんでいるように見せたが、実はほっとした。
高校生ながらに、俺はちゃんと気付いたのだ。自分がちゃんと人を愛せないということに。
現在あの子は結婚して、子供が二人いるらしい。幸せに暮らしているらしいことを、最近SNSで偶然知った。
上月のことだって、あんなに好きだった。だからこそ、どうにかなりたくなかったのだ。どうにもなれず、ずっと好きなままでいたかった……。
高校生以来そんな恋愛をずっと繰り返してきたけど今回は、上月にはそんな風にならないかもしれないと思っていたのに。
やっぱりダメだった。
全部自分が悪いのに、急に視界が滲んできた。情けない。
俺はスマホを手に取り、少し前に一度だけ身体の関係を持った適当な女に連絡した。
多分これからもずっとこんな感じで生きていくんだろう。
でも本当は、心の奥底でずっと期待していた。次こそは、本当に誰かを愛せるんじゃないかと。そして上月こそがその相手だと信じていた。けれど怖かったから、踏み出さないでいた。
俺がじっとしていると、上月の方から歩み寄ってきてくれたのに。こんな結末になってしまった。
『ごめん!今日は予定があるんだ〜』
返ってきたLINEのメッセージを見て、なぜかほっとした。今日はジムに行って、その後は家でゆっくりしよう。
俺はいったいどうすればいいんだろう。ずっと、ずっと、自分がわからない。
タバコに火をつけ、深く吸って吐いた。
俺は上月のように狂うほど誰かに依存することもなければ、鈴木のように簡単に人を好きになることもできない。
でも、まだ踠いていてもいいだろうか。次こそは本当に誰かを愛することができるんじゃないかと、期待し続けてもいいだろうか。
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