18. 鈴木太陽
事件が起きたのは、午前四時のことだった。
「ねぇ誰なのこの女!最低!バカ!浮気者!!」
ぐっすり夢の中にいた俺は、ヒステリックな女の声で叩き起こされた。
顔面に投げつけられたのは俺のスマホ。涙でぐしゃぐしゃになった風香がこちらを強く睨んでいた。
「……」
「何か言いなさいよ!ねぇ!」
俺の肩をがしがしと何度も叩いてくる。
寝起きで頭が全然回らない。でも、ただ事じゃないことはすぐわかった。
俺、何かしたっけ……?ぼんやりとした思考を徐々に巡らせていき、はっとした。アレだ。
いつもは必ずLINEのトーク履歴を非表示にしておくのに、今日に限ってそのままだった。
「ミキって誰よ!!!」
やっぱり。ビンゴだ。
最悪だ、やってしまった。
「……ごめん」
問い詰められた浮気は、謝ることしかできない。
「……ひぇっ……うわぁぁあんっ!最低っ!最低最低!バカ!大っ嫌い!!」
子供のように泣きじゃくる風香に、俺はもう何も言えない。言い訳することも、慰めることも、抱きしめることもできない。むしろ心のどこかでほっとしているのはどうしてだろう。
なぁ風香、もういっそのこと俺を振ってくれないか。
ミキちゃんとの再会は、ほんの一週間前だった。
キャバクラで働き始めた風香とは生活リズムが違いすぎて、一緒に暮らしている実感がほとんどなかった。
週末、久しぶりに大学時代の友人達と飲みに行ったとき、隣のテーブルにいた美女集団の中にミキちゃんがいた。
彼女は、大学に入りたての頃、まだ恋愛経験の全然なかった俺が一目惚れした子だった。
違う大学に通っている地元の友人が主催した、初めての合コンで彼女と出会った。
長い黒髪はさらさらで華やかに巻かれていた。肩の開いた、ぴちっとしたニットの服。煌びやかなアクセサリーで飾られた顔まわり。全てが輝いて見えた。大人っぽくて、可愛い。笑顔はあどけないのにどこか色気がある、ミキちゃんはそんなとても魅力的な子だった。
付き合いたくて連絡先を交換し、毎日LINEしていた時期もあったが途中で返ってこなくなって終わった。そんなミキちゃんは、相変わらずとても綺麗だった。
俺がミキちゃんと知り合いなのを良いことに、友人達は隣のテーブルに馴れ馴れしく話しかけ、そのまま一緒に二軒目に行くことになった。
ダーツ付きのバーへ行き、俺とミキちゃんはペアを組んだ。どちらかがヒットする度にタイハッチをした。それはそれは楽しかった。
風香と付き合ってから、こんな風に女の子と接することがなかったから新鮮だった。
もちろん、風香の顔がよぎらなかったわけじゃない。俺のことを死ぬほど愛している風香のことだ、発狂してもおかしくないと思った。
でも、ただ楽しくて仕方がなかったのだ。
解散して帰ったあと、俺からLINEを送った。それからしばらく、ずっと連絡を取り合っていた。
風香との息が詰まりそうな日々の中、ミキちゃんとの些細なLINEは俺にとって癒しだった。べつに彼女とどうにかなりたいとかそんな具体的な欲はない。ただの息抜き。
そう自分に言い聞かせつつ、浮かれていた。そして昨日、仕事終わりに自然な流れで会うことになり、居酒屋で飲んだ後ホテルに行った。完全な浮気だった。
あの頃は相手にもしてくれなかったのに、どういうわけかミキちゃんも乗り気だった。それが余計に俺のためらいを無くした。
風香といるときはこまめにトークを通知オフ、そして非表示していたはずだったのに……
やってしまった。
俺達がホテルに行ったことも、トークの内容で全部バレてしまったはずだ。
「最低!最低!もう別れる!!」
叩かれる肩が痛い。と思えば次は足で蹴られる。
「落ち着けって、風香」
「落ち着けるか!誰のせいよ!!浮気者!クズ!!」
かつて俺が恋した、可愛かった風香はどこに行ってしまったんだろう。
あの風香に、もう一度会いたい。でも俺はもうあの頃の気持ちを取り戻すことができそうにない。
目の前で泣き、喚き散らしているこの女の子は化け物だ。
人は見かけによらないんだぞ……。あの日の俺に、そう教えてあげたい。
別れたい。その言葉が頭を中をさっきからずっとぐるぐるしている。そしてきっとこの願いはもうすぐ叶うはず。
心から俺に絶望したであろう風香は、俺と別れるに違いない。
「もう別れる……っ!」
ベッドの上で崩れるように俯き、シーツに涙をぽたぽたとこぼしながら風香は言った。たしかに言った。
内心、ガッツポーズしてしまった。
「え、別れる?」
一応、聞いてみる。
「うん。もう、大っ嫌いだから。太陽くんなんか……太陽くんなんか、大っ嫌いなんだからっ……!!うぅっうっ、うぅ……」
「……そんなこと言うなよ」
一応、言ってみる。あくまで一応だ。
「もう信じられない。無理……」
「風香、ごめん……」
一応、謝ってみる。
いいぞ、この調子だ。
「許さない」
「だよな」
「嘘つき。バカ。最低」
「うん。もうなんとでも言ってくれ」
「大切にするって言ったのに……」
「そうだよな」
とりあえず、その背中をさすってみる。
「風香のこと、全然大切にしてくれなかった。愛してくれなかった……」
「愛してたよ」
「……過去形?」
ベッドに両手をついたまま、風香は顔を上げて俺を見た。ぐしゃぐしゃで、パンパンに腫れてて、とてもあの可愛い風香と同一人物だとは思えない。
わかっている。彼女をこうさせたのは俺だ。彼女の重めな愛を受け止めきれなかった。逃げて、よそ見した。大切にすると、約束したのに。
全て俺が悪い。この罪は、これから真面目に生きてちゃんと償おう。
だから、なぁ風香。俺と別れてくれ……。
「もう本当やだ。別れるぅ……うぅっ……」
「ごめんな」
「もう終わりだよ、あたし達……っ」
「……」
「だって太陽くん、全然風香のこと好きじゃない……」
「……」
「もう、好きじゃないんでしょ」
「……」
「どうして何も言わないの!!!」
突然叫んだかと思えば、シーツについていた両手を上げて俺の顔をぐっと掴んできた。びっくりした。
まるで母親が小さな子供を怒るように、両側から頬を掴まれて顔を近付けてくる。
「ねぇ、太陽くん!!どうして!!!」
だめだ、カオスすぎるって。
「……ごめん」
俺は謝ることしかできない。
「嘘つき……大っ嫌い……っ」
風香はそれから一時間ほど泣き続けた。
俺はその背中を撫でることしかできず、午前五時過ぎ、泣きつかれたのか眠ってしまった風香の隣で俺も眠った。
さらに一時間後、アラームの音によって起こされた。
眠くてたまらなかった。心身ともに疲弊しすぎて、今から仕事に行くのは無理だと思ったので風邪をひいていると嘘をついて休むことにした。
本当クズだ、俺。
上司にLINEしてからすぐに寝て、次に起きたのは昼過ぎだった。おかげでかなりスッキリした。
俺にくっついて眠り込んでいる風香の瞼はまだ腫れていた。
あんなことがあったのに、よくくっついていられるなと不思議に思った。
だがそれも時間の問題だろう、こんなことがあったのだ。彼女もさすがに俺を軽蔑して別れようとするはずだ。
「なんか食べに行こうよ」
起きてきた風香は、やけにけろっとしていた。
「……なに食う?」
「うどんかな、駅前の」
「あぁ、いいね」
言われるがままに俺達はうどんを食べに行き、風香は驚くほど何もなかったかのように普通だった。それが余計に怖かった。
嫌な予感がした。そしてそれは的中した。
食べ終わってから再び家まで帰る道中、風香は手を繋いできた。そして言った。
「太陽くん、これからはもう絶対あたしのこと泣かさないでね。今回は許すから……もう絶対裏切らないで」
一瞬、何を言われているのか理解ができなかった。
「……風香」
「絶対に幸せにするって約束して。で、これからはルールを決める」
「ルール?」
「あたし達が上手くいくためのルール」
「……おぉ」
前よりもっと最悪の展開になってしまったじゃないか。
これはつまり、別れられるどころか、俺はこれから束縛されてしまうということだ。
「風香が全部決める。まとめて書いておくから、ちゃんと守ってよね」
とんでもないことを言っているのに、なぜか照れを隠すかのようにちらっと俺を見て微笑む風香のことがまったくわからない。
翌日はちゃんと仕事に行った。
一日休んだせいでいつも以上にバタバタで、キャパオーバーだった。
昼過ぎ、少しサボろうと思い営業車で近くのスーパーの駐車場に入った。スマホを見ると、風香からLINEが送られていた。それはメモをスクリーンショットしたものだった。
俺は目を剥いた。
『・風香以外の女の子と絶対に連絡をとらない
・風香以外の女の子がいる場には行かない
・週末はできるだけ飲みに行かない
・毎日、ちゃんと愛を伝える
・LINEはできるだけすぐに返す(仕事中は多めに見てあげる)
・毎日風香に携帯を見せる
・当たり前だけど隠し事はしない
・友達と遊ぶ時は、誰がいるのかをちゃんと報告する、写真を送る
・インスタの女の子、全部フォロー外す
・LINEの連絡先、女の子は全部消す(会社の人は一応OK)
・二人でちゃんと貯金する
・絶対に風香を幸せにする、もう泣かせない』
なんなんだこれは。
幼稚で、バカすぎる。
何より、暇すぎないか。
こんなくだらない内容をせっせと箇条書きしている暇があるなら、働けよ。仕事探せ、クソ暇人ニートめ。
最悪だ。俺が犯した過ちは弱みとなり、風香が権力を持ったような状態になってる。許してやるかわりに首輪をつけられるということか。それなら許してくれなくていいから別れてほしんだよ俺は。
でもこの状況で俺から「別れよう」なんて言いにくすぎる。あぁ、どうすればいいんだ。
俺はシートをがっと勢いよく倒し、この地獄のような現実から逃げるように目を瞑った。
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