林田
食料を求めて農協に電話をかけると、なんとそれが繋がり、林田と言う男と知り合った。
農協前の三叉路まで歩いていくと、林田は良く日に焼けた肌の顔を防護服から覗かせて待っていた。
「驚いた。本当に生きている人がいた」
「農協がまだ残ってたのも、俺からすれば驚きです」
農協と言うのは農家さんの下ろし先のことで、米や野菜なんかを一度集積して出荷するための施設だった。
関東平野は巨大な畑と田んぼであるので、沢山の農家さんがいた。その一人一人が沢山の野菜を作る。それら莫大な量を集積する拠点は巨大複合商業施設を思わせる、鉄筋コンクリート作りの建物だった。
農協は原爆の影響で屋根が剥がれ、一部が焼け落ちていたがまだまだ現役という見た目である。
「それで、なぜ、ポンチョなんかを?」
俺は着ているものを突っ込まれたことにドキリとした。ポンチョと言う雨具の下には、けむくじゃらの肌があるので、それを見られるのが嫌だった。
なぜ嫌だったのだろう。きっと田舎特有の偏見に満ちた目を向けられるのが嫌だったのだろうと思う。
「どうやって生き残ったのですか?」
俺が話を変えると、彼は自慢するように話し出した。
「農協には野菜用の大きな冷蔵庫があるでしょ? その中に入って助かりました。車で逃げた同僚がどうなったか知りませんが、死んだでしょうなぁ」
「そう、ですか」
「米は山ほど余っています。誰か買いに来るかと思って電話番をしていましたが、結局一人しか来なかった。もしかしたら、もう誰も来ないかもしれませんから、どうぞタダで持っていってください」
そして、林田が言っていたことは真実になった。
ネットで繋がっていた知り合いも一人、また一人と減った。林田が天井の梁にロープを通して首を吊ったのはそれから一週間もたたない寒い日のことだった。
自殺だった。
律儀に折り畳み机の上に、鍵を並べて手紙まで書いていた。そこには一言、ネコチャンへ、先にいきます、とあった。
孤独に耐えかねての事だったのではと思った。
彼は電話口で俺がネコチャン、と呼ばれていることを知ったのだろうと思う。そして他の人と生きてることも知ったのだ。
林田は一人だった。
人の中には、他人と関係を持っていないことに、強いストレスを感じる人種がいると知ってはいたので、あれがそうだったのかな、と思った。悪いことをしてしまった。
俺は、目の前に山とつまれた米を見て呆然と立ち尽くしていた。
一応米農家であるので、軽トラックの荷台につまれた米袋を見たことはあったが、精々、1トンくらいだったと思うが、ここにはその何十倍もあったのだ。
米袋で家が建てられるくらいあった。




