ガスマスク
一週間がたった。その間、昼間は太陽光パネルでバッテリーを充電しつつ、単行本を読んで時間を潰し、夜は昼間に溜めた電気でネットサーフィンをする生活という、実に精神衛生上素晴らしい環境において生存した。
映画もアニメも、いくらでも見られたので特に不満はない。ネットにはいつだって痛みの少ない世界があった。そこでは、俺と同じように生き残った引きこもりたちが罵詈雑言を並べ立てているところだ。保存食や水の価値がネットオークションで一挙に3倍に跳ね上がったのを怒っているのだ。
それを尻目にガスマスクを着ける。
皆もとっくに買っていたと思うが、俺のガスマスクはこだわりがあった。軍用ではなく敢えて民間用のガスマスクなのだ。それも日本製。
なぜかというと、日本は原発事故で除染作業を余儀なくされた先進国であり、作業者を守る技術が高まっていたからだった。
ここ数十年、実際に核、放射能下で使われたガスマスクは日本の民生品だけなのではないだろうか。それがどんなに素晴らしいことか分からなかったネットの友人は、二世代前のアメリカ軍用のマスクと期限切れの吸収缶を使って被爆した。
こちらは、使い心地に関して口うるさい日本人向けに開発された最新型で、軍用マスクよりもつけ心地はよく、ゴム特有の悪臭も非常に少ない優れた商品である。日本の厳しいテストを通っていたし、何より実際に使われている。つけてもそれほど息苦しさを感じないこの性能の高さは他の追従を許さない。
外で、劣った性能のマスクをつけたら死ぬ。
マスクから飛び出た突起は二つあり、核放射線の除染作業用に販売されているモデルだ。長い作業でも息苦しくないように対策がとられていた。また、大きくとられた覗き窓にはポリカーボネートが使われていて、転んでも割れることを防いでいる。機動隊の盾にも使われる材質だ。
何で持っているかと言えば、そろそろ戦争が起きるなと思って爆発前に準備していたからだった。ウクライナ、ロシア戦争に民族浄化、無差別爆撃、民間人の虐殺が何の足枷もなく行われている国際社会で、何の用意もしないで、はたして安心できただろうか。恐らくそれは対岸の火事を見て、どう感じるかによって変わる。俺は自分の家にも火が回ると考えるタイプだった。
目下、その用意が足りなかった俺は、途方にくれている。
足りないのはタイベックスーツだった。あの、白い全身を包み込む服。
その用途は体内に放射性物質を取り込まないようにするためのものなので、あれその物に放射線を止める能力はない。
外の汚れた物を部屋の中に入れないようにするために着用する物。
その数が足りず、一着しか持っていなかった。
福島第一原発事故では、スーツが足りなくて、何度も同じ物を着回した結果、破れて被爆した人もいると聞く。
何でもっと買っておかなかったんだ!と自分でも怒りたいのだが、まさか、本当にこうなると思ってもいなかったのだ。心のどこかでは油断もあったのかもしれない。少なくとも、むこう千年間は放射能とお付き合いをしなければならない状況では千円のタイベックスが数万にも、数十万にも価値が跳ね上がる。
問題はそれがどこに売っているかであり、またそれをどれだけの人が知っているかだった。
コロナのとき、マスクはどうなった?
途端に心配になり、買い占めに走る人がいて、転売して荒稼ぎした人がいたでしょう?
あれ、同じ日本人がやっていた。それによって命を落とした人もいただろうに、間接的な殺人をおかした犯人は何のとがめもなく生きている。俺たちはこういう世界で生きている。取り分け、メディアがマスク不足を報道した途端に国民は買いだめを行った。
だから、今すぐ行動に起こさないといけない。
分かるだろうか。今行動しないと手持ちのカードがなくなってしまうのだ。
今朝のニュース番組で、防護服やガスマスクの説明をしやがったせいで、今までろくに対策をしてこなかった素人が買い占めに走ってしまう。ことは急を要する。
さあ、玄関へ。たった一人の同居人に階段の上から見下ろされつつ、今ゆっくりと玄関の扉を開けた。