巨漢
あ、あぶなかった。もう少しで酸欠で死ぬところだった。
足はふらふらと力なく、手をついた壁は、壁紙が熱で剥がれて捲れていた。
我が家では奇跡的に死人は一人も出ず、口の中をほんの少し火傷した程度ですんだ。吹き飛びもしなかった。女は甘い空気を吸いながら泣いている。オルチャンもぐったりしてもう寝るらしい。
それでも唇が火傷する温度でよくぞ生き残ったと誉めたい。勲章ものだ。
階段を上がると、あちこちから生き物の気配がした。
廊下にはグリーンピースほどの糞が散らばっており、相当急いでなにかが逃げ込んできた事が分かった。あとで対処しよう。
二階の粉々になった窓から見た外の景色は絶望的だった。
山が燃え、畑が燃え、アスファルトが燃え、家が燃えていた。
その炎はピンクや黄色の物であり、塗料が燃えているのだろうと思う。
なぜ我が家が全焼しなかったかと言えば、たまたま外壁が白色で、熱線を反射し得たこと、また、近頃はめっきり見かけなくなった、本物の瓦屋根であった事が原因だと思う。
広島の原爆の時、白いシャツを着ていた人が重度の火傷をおったが、シャツを着ていたところだけは火傷しなかったのと同じだ。
また、数千度の炎で土を焼いて作る瓦屋根はその温度に十分に耐えた。
もちろん、爆風で吹き飛ばされたものも多く、屋根は穴だらけの放置住宅のようで全く目も当てられなかった。補修しなければ、もう一発は耐えられないだろう。
それでも、まだましだった。
我が家の近隣の家でひっそりと生きていたらしい住人は、火のついたままの体で外を歩いていた。
何であの状態で歩けるのか分からなかった。体が溶けてスライムみたいになっていた。その皮膚が燃えている。服はとっくになくなって、髪の毛もなく、白い頭蓋が見えているような人だった。
人が燃えるとき、恐らくリンのせいだと思うのだが、青白い炎で燃えるのだった。
それがまるで、人魂のように何個も夜に見えるのだ。
こんなにして敵は何をしたいのだろうか。
敵を恨む気持ちは無いが、酷いことをする。その国の軍人も、民間人も、老婆や子供に至るまで全部消す方法が無いかと思った。
深夜になって温度がやっと下がると、なにか巨大な影が、家の前の道路を歩いているのが見えた。
すごく背が高い。
8メートルはある電柱とほぼ同じ体長で、体は黒く、頭が埋もれてしまうほど筋肉が分厚い。
それが立ち止まった瞬間、俺はすぐに隠れた。
相手は視線を感じ、俺が観察しているのを知ってこちらを見た。
あれからしたら俺は、ちょうど良いスナック感覚だろう。
もし、あのままいってくれるなら問題ない。
されど、その巨漢はこちらを認識し、私有地に足を踏み入れ、熱せられた砂利道を裸足でやって来た。
「やばっ!」
逃げなきゃぁ……逃げなきゃ殺される。
この瞬間に至って、体は全く動かなくなった。
そんなことをしていれば、簡単に食われるだろう。分かっている。だが怖いのだ。頭をあげて、その視界に入ることが。
走り出して追いかけられることが、怖いのだ。
そいつの足元で、土がモゾモゾと動いた。
ちょうど、土竜が土を掘り抜いて道を作っているときみたいに。
そして、その山が巨漢の足にごつんと当たると、
ブュルルルルル!!と音を立ててなにか黒い汁状の、(いやゲル状のといった方が正しいのか)黒い液体が体の中に入っていった。
巨漢は動かない。
もう五分はたった。
瞬間、顔から血を吹いて、受け身をとらずに頭から地面に倒れた。
その死体からは無数の芋虫のような物が這い出てきて、また地面に潜るのである。
上には上がいるらしい。
しかもその虫の塊は、器用に段差を乗り越えてうちの玄関に。そして器用に呼び鈴のボタンを押したのだった。




