黒い雨
夜は暗闇だった。世界から光が消えてしまったみたいに真っ暗だった。きっと人が死ぬとこういう世界に行くのだろう。
真っ暗は怖い。でも、部屋から光が漏れて、周りの人間が集まる方がもっと怖かった。
あと何日、家の中にいるべきだろうか。少なくとも一週間は外に出てはならない。残念ながらこれは冷戦時に実際に配布された民間向けのサバイバルブックに基づく知識で、きっとそれは間違いだらけだ。
今、雨戸の向こう側で黒い雨が降っている。それを思うと頭が真っ白になって、砂のようにサラサラとこぼれ落ちるようだった。
放射性降下物とも呼ぶべきその黒い雨は、焼け焦げた生き物と無機物が混ざり合い、真っ黒なチリとなって降ってきたものだ。爆心地では遺体は残らない。わずかな影が人としてそこにあったことを示している。そしてそれは今、空から降っている。
人だったもの。葬式をどうあげて良いかわからないし、家族でもその遺体を見て、愛した人の面影は浮かばないだろう。
俺は幸運だった。こんな世界でも死なずに済んでいた。
そんな時、外から女の笑い声が聞こえた。
ビクッとする。
声からして、うかれて動画を撮っているらしい。
怖いと思った。何かこちらに危害を加えるのではないか? もし、武器を持っていたらどうする? パーリーピーポーか?
生き残る鉄則は敵よりも先に相手を見つけることだった。サバイバルゲームでも鬼ごっこでも先に敵を見つけることが勝つための第一条件で、次に武器が物を言う。
すぐに必要な物を集めた。
わずかに雨戸を開き、シュタイナー双眼鏡で声の方を伺うと、うかれた女が家の外壁を背にして笑っているのが確認できた。
だが、その顔はすぐにキョトンとした表情に変わる。
女は腰の辺り、ちょうど建物と接していた面をしきりになで回し、絶望に顔を歪めた。
腰の辺りをナイフで切られたように赤黒い染みがじわーっ、と染めていった。まるで、牡丹の花が早送りで咲くようだった。
女はカメラに『帰る』とだけ告げて道を歩いたが、少し歩いて膝立で崩れ落ちた。そして真っ黒な水溜まりに頭から倒れてしまう。
立ち上がろうとした手は、まるで火傷をしたように真っ赤だった。
こっちを見たような気がした。
何もかも諦めてしまったような顔を、墨汁のような雨が滴り落ちていった。
悲鳴もなく、絶叫もなく。
今、気がついたのだ。判断の間違いを。もう遅い。
どこか遠くで救急車のサイレンが聞こえた。それが、二重にも三重にも重なりあって、まるで、世界の終わりを示すかのように鳴り響いていた。
それすら、俺の妄想かもしれない。




