里帰りは悋気と共に 9
その日の夜更けーーレイクトン邸に戻ったシンシアは、ドレスを脱いで湯を使った後、ビスケットほんの数枚をお供にお茶を飲んでいた。
夜会帰り特有の高揚感、それにトーマスとの甘い思い出が徐々に落ち着いてくると、シンシアの脳裏には、ふとレンブル夫人の姿が浮かんでくる。
トーマスを誘惑する蠱惑的な顔。昨日の茶会での毅然とした顔。そして今日見せた少し切なげな顔。
彼女の行動はどこか一貫しておらず、真意が掴めない。けれどもシンシアの中では、彼女の行動について一つの仮説が組み立てられつつあった。
「どうしたシンシア? 難しそうな顔をして……」
「あなた! 実は……レンブル夫妻について考えていたのです」
思案にくれていたシンシアは、彼女同様にカップを手にしたトーマスが、いつの間にか2人の寝室に入ってきていたことにも気付いていなかった。
「レンブル夫妻についてかい?」
「はい。私、夫人について少し勘違いをしていたかもしれないのです。」
「勘違い? それは、この家や今日の夜会での夫人の行動についてかい?」
「はい。もしそうなら……ティリアの皆様が来るまでに彼女の抱えている問題を解決したいと思いまして。ーー協力いただけますか?」
「もちろん。何をすれば?」
「私は夫人をお茶に誘います。旦那様にはレンブル様とお茶をしていただきたいのです」
「ほう……お茶を?」
トーマスがそう言って目を細めると、シンシアは一つ頷き、彼女の考えた仮説について話し出す。その全容を聞いたトーマスは
「いかにもシンシアらしい考えだね」
と微笑んで見せたーー
「どうしたの、ブラッドリー夫人? いきなりお茶会だなんて。ティリアの皆様の到着までもう日がないというのに……」
「だからこそですわ。良く考えたら私、夫人とゆっくりお話したことがないな、と。皆様をお招きしての晩餐会や茶会で、私達の仲がギクシャクしていたらよろしくないかと思いまして……」
「ーーま、一理あるわね」
翌日の昼下がり。シンシアは庭を望むテラスにレンブル夫人を呼んだ。最初は訝しげだった夫人もシンシアの言葉には、とりあえず納得をしたようだった。
「ただ、急に思いついたので、ごく簡単なもので申し訳ないのですが……」
そう言ってシンシアが示すテーブルには、一組のティーセットとバターを塗って食べる、レーズン入りのパン。
そして中央の白い花瓶には、庭で摘んだばかりの黄色い薔薇が飾られていた。
「構わないわ。それにこのパンは大好物だもの」
重曹を使って膨らます簡易的なパンは、素朴だがどっしりみっちりした食感が魅力的で、シンシアがリーンで暮らしていた頃のお気に入り。
そんな、地味といえば地味なお茶請けを大好物、と表するレンブル夫人。その表情に、シンシアは自分の考えにまた1つ確信を持った。
夫人に席を勧めたシンシアは、お茶を入れるべくポットを手に取る。
そうして用意していた深いえんじ色の茶缶を取り出すのだが、と同時にそれまで落ち着いていた夫人が、急に眦を釣り上げた。
「あら? また随分な名前のお茶ね。……喧嘩を売ってるの?」
「まさかーー名前の通り『私のお気に入り』なのです。せっかくですし、夫人にも楽しんでいただきたいと……」
ブラッドリーの屋号、四つ葉のクローバーが描かれた缶には『ブラッドリー夫人のお気に入り』と記されている。
それは数ヶ月前にブラッドリーズの品揃えに追加された一品。シンシアの好みを汲んでブレンドされたそれは、トーマスが妻の誕生日のために作らせたという逸話も込みで、今ライセル王国で話題の品だった。
「……じゃあ、考えすぎってこと?」
「おっしゃるとおりですわ」
美しく笑う夫人に、シンシアもまた楚々とした笑みを返す。刹那、2人の間を何かが走るが、先に降りたのは夫人の方だった。
「わかったわ。手を止めて悪かったわね。続けて頂戴」
その言葉を聞き、シンシアは再びお茶を淹れ始める。缶を開けると、シンシアの大好きな香りが広がる。
彼女は少しばかり頬を染めつつ、ティースプーンを手に取った。
「この一杯はレンブル夫人のために、この一杯は私のために、もう一杯はポットのために」
「今度はどうしたの?」
スプーンを手に突然歌い始めたシンシアに、今度は疑問符を飛ばすレンブル夫人。
しかしシンシアは構わずお湯をポットに入れ、砂時計をひっくり返したところで、ニコリと微笑んだ。
「お母様譲りの『お茶を美味しく淹れる呪文』です。ーーそして私にとっては誰かと仲良くなるための呪文でもあります』
「……呪文?」
思わず聞き返す夫人。しかしシンシアがあまりに真剣だからか、それを茶化すことも出来ないようだった。
「私と旦那様は結婚した当初、あまり仲が良くなかったのです。あのままだったら、皆さんの言う通り仮面夫婦になってたでしょう……でも、この呪文が私を救ってくれたのです。そして、次はきっと夫人をーー」
「どういうことかしら?」
「夫人はレンブル様に恋をなさってますわよね? それも辛い恋を……だから、レンブル様がいる前で敢えて私の旦那様を誘惑してみせた。レンブル様がそれに嫉妬することを願って……」
これがシンシアの立てた仮説だ。トーマスに聞けば、やはりレンブル夫人がトーマスを誘惑するのは、レンブル氏が一緒にいる時ばかりだったという。
それならば茶会での行動も、夜会での表情も納得がいく。
シンシアの言葉は真正面からレンブル夫人に突きつけられ、夫人は思わずたじろいだようだった。
彼女が固まっているうちに、シンシアはポットを取り上げ、淡い水色のお茶を2つのカップにそそぎ分ける。そうしてその片方を夫人の前にそっと置いた。
「これは誓って偶然なのですが、昨日の夜、ダンスの輪の外にいらっしゃる夫人をお見かけしました。私にはその時の夫人の目が、レンブル様のことを追っていたように思えたのです」
「……」
「本当はレンブル様と踊りたかったのですよね、夫人?」
自分の側にもカップを置いたシンシアは、同時に夫人に王手をかける。夫人は諦めたように大きく息をついた。
「ーーレイクトンの娘に恋を語られるとは……人も変わるものね。リーンにいた頃のあなたはそんな自信満々じゃなかったじゃない」
「絶対に味方になってくれる人がおりますので……」
「ま、羨ましいこと。そうよ、私は夫に恋をしている。初めてお会いしたその日から……だって、あんなに優秀で自信に溢れていて、でも優しいのよ。惚れるなって方が無理じゃない?」
そこまで一息に言うと、自分を落ち着けるようにカップを手にするレンブル夫人。香りを楽しむようにゆっくりとお茶を飲むと、ホッと息を一つ吐いて
「美味しいわ……」
と少しだけ微笑んで見せた。
「実はね……私と夫は白い結婚なの。式をあげた日の夜に言われたのよ。『いつでも別れられるよう、当面は清い関係でいよう』って……」
シンシアは思わず息を呑む。2人の仲が上手くいっていないのは、誰から見ても明らか。けれどもその告白は、シンシアの予想を超えていた。
「仕方のないことよ。夫にはもともと恋人がいたらしいの。でも、私との縁談のせいで別れることになった。きっと彼は私のことを恨んでいるのよ」
「そんなことーー」
「あるわ。けれども最近、その恋人も婚約したそうなの。だから……つい可能性に賭けたくなって……いずれにせよ後継者は必要だしね。で、あんなことを……ごめんなさい」
そう言って頭を下げる夫人の目は後悔に染まっている。同じ頃、同じ屋敷の下ではもう一人、後悔にうなだれている人物がいた。
「我々の問題のせいで、お二方にまで迷惑をおかけするとはーー本当に面目ない」
「いや。私達のことは構わない。ただそれはそれとして、貴方は少々奥方に無関心がすぎるのではないかい?」
「それは……その、申し訳ない……」
広い庭を望むレイクトン家での客間の一つ。そこでトーマスはティーカップを手に、レンブル氏と向かい合っていた。
仕事の話をすれば、確かに優秀で大人びて見える彼だが、実際は若干二十歳の若者。
どこか危うげに背伸びをしているようにも見えるその姿を、トーマスは昔の自分と重ねていた。
「私と……妻は政略結婚です。妻には好いた人がいたようですが、実家のために私と結婚を……だからせめて、私は妻が望めば、いつでも別れられるようにしよう、と考えたのです」
「いつでも? 昼間から話すことでもないが……まさかあなた達は……」
「そういうことです。このティリアとの商談がまとまればきっと、私はレンブル家の後ろ盾なしでもこの世界で生きていけます。もちろん、レンブル家の皆様のご恩を忘れるつもりはありません。ですが……いまなら……妻もぎりぎり適齢期です」
暗に離縁の可能性を示唆するレンブル氏。しかしその表情には苦しみが滲んでいた。
「それは少々早まっていないかね? そもそも奥方に好い人がいる、というのは事実か?」
「ただ……少し気になったのですが……レンブル様に好きな人がいる、というのは本当なのでしょうか? 私の見た限り、レンブル様は仕事一筋で、女性の影はまるで見えませんでしたが……」
テラスでは涙をにじませるレンブル夫人に、シンシアがそっとハンカチを渡す。彼女が落ち着いたところで、シンシアはふと湧いた疑問を口にしていた。
「夫は隠し事が得意なのです。好きな人がいるのは事実でしょう……なにせその恋人本人に言われましたから……」
「本人……に?」
「なんと言っても妻の恋人だったという男から直接手紙を受け取ったのです。本当の彼女の幸せは自分との未来にある……と。財力こそありませんが、彼女と釣り合う根っからの中上流の人間です」
「待て。恋人だった、なんてことを現在の夫に言う男なんて禄でもないだろう? 夫人はその男のことをなんと?」
一方の客間では、トーマスがレンブル氏の言葉にピクリと固まり、それから彼に険しい表情を向ける。
「そ、それは……」
商売人にとって笑顔は仮面。レンブル氏の余裕を示す武器が外れたのを見て、トーマスは少し声音を和らげた。
「少し……私の過去について話そうか」
「貴方の過去ですか?」
「ああ……私は結婚したての頃、妻を拒絶していた。過去に少々痛い思いをしてなーーいや、自業自得なのだがーーとにかくそれで、シンシアを遠ざけていた。
今思えば、傲慢で馬鹿な男だ」
ブラッドリー夫妻と言えば、ローグスにその名を轟かせるおしどり夫婦。レンブル氏はトーマスの言葉に思わず目を瞬かせた。
「先程、私と旦那様は仮面夫婦になりそうだったと申しましたわよね。その原因は旦那様の過去だったのです。……旦那様は過去に女性関係で辛い想いをされ、それで私を含めて、女性を遠ざけていらっしゃったのですわ」
「貴方を遠ざけてーーにわかには信じ難いわね」
テラスではシンシアもまた、昔語りを始める。おしどり夫婦の秘密の過去に、夫人が驚きを隠せないのもまた同じだ。
「で、私は結婚式の翌日の夜、ティーセットを携えて旦那様の書斎に突撃したのです。ーーそれからは毎晩お茶をお淹れして、いろんなお話をしました。そうしていたら、いつの間にか少しずつ旦那様との距離が近づいて言ったのです。……まあ、旦那様の過去を知った時にはもう一騒ぎありましたけど……」
「一騒ぎ?」
「大喧嘩とか? ……私が家出したりとか?」
「……貴方、意外と豪胆なのね」
それはどの行動を指してのことか。夫人は少し呆れた風な顔をしつつ、どこか羨ましげにシンシアを見下ろした。
「ーー結婚式翌日のことだ。夜、書斎にこもっていた私のもとに、シンシアがやってきてお茶を淹れてくれた。それから……毎夜のようにお茶会をするようになって、気がつけば彼女の魅力の虜になっていた」
書斎のトーマスもまた、結婚当初のことを話してみせる。彼にとって、当時の自分の行動は充分反省に値するものだったらしく、その口調は少しばかり震えていた。
「だが、私は自分の過去については頑なに黙っていた。ーー結局別の者が、あることないことをシンシアに吹き込む結果になったよ。
懸命な妻はその者の言葉を信じず、自分で私の過去を探ろうとしたが、そんな彼女を私は叱り飛ばした。……愚かだろう?」
「……」
「でも、シンシアは私を捨てなかった。私に冷たく当たられ、私のひどい過去を知ってなお、私と関係を築きたいと言ってくれた。
何度生まれ変わったとしても得難い最愛だ」
「お二方にそんな過去が……」
トーマスの語る2人の馴れ初め。それは今の2人、特に妻を溺愛するトーマスを知るレンブル氏にとっては、衝撃的なことらしかった。
「そんな愚かな私からの助言だ。貴方達はもっと話し合うべきだろう。シンシアのような得難き人がそうそうこの世にいるとは思わない。奥方の心を得たいなら、あなたから動くべきだ。……奥方に想いを寄せているのだろう?」
核心にせまる言葉に、息を呑むレンブル氏。
ぱっと見では、妻と会話をせず冷たい関係を気付いていると思える彼。しかし、これまでの会話で彼が妻に想いを寄せている、ということは明らかだった。
テラスの2人よりもさらに簡素な男2人の茶会には、ちょっとした菓子もない。重たい空気が充満し続けていた部屋で、向かい合う2人が手にするカップはいつの間にか空になっていた。
「ーー私はその一騒動で教訓を得ました。親しき人のことを知りたければ、その人から直接聞くのが一番だと。……たとえどれだけ時間がかかっても、自分の心を知るのは自分だけですわ」
「……つまり、夫と話し合えと」
「なにもいきなり核心に迫る必要はありませんわ。でも、他人の言葉に踊らされて、好きな人と距離をとって……なんだかもったいなくありませんか?」
レンブル夫人は賢い人だ。だからこそ、理詰めのシンシアの意見には納得せざるを得ず、同時に「出来たら苦労はしていない」とばかりに顔を歪めてみせた。
「難しいことは分かります。私もとても勇気が入りました。でも私には背中を押してくれる人がいました。……だから、今度は私の番だと思ったのです。ね、旦那様?」
「うむ。まあ……加えて貴方達が不仲なのは、商談において好ましくないというのもあるが……」
「る、ルース!?」
「いや……その……ここであなたがお茶をしていると聞いて……」
トーマスと共にテラスへ来たのは、他でもないレンブル氏。その姿を見て、シンシアはサッと席を彼に譲る。
もともとそういう算段だったのか、シンシアの昔語りの間に、彼女の側のテーブルは綺麗に片付けられている。
レンブル氏が半ば無理やり席につかされると共に、レイクトン家の使用人達が新しくお茶を淹れ、あっという間にテラスはレンブル夫妻のための場所へ変わった。
「今、すぐにお二方の胸の内を明かす必要はありません……でも、お二人にはきっとゆっくりとお茶をして、話し合う時間が必要なのですわ」
シンシアはそう2人に微笑むと、トーマスに手を取られて、ゆっくりと屋敷の中へと入っていった。




