新婚夫婦と7つのお茶 1
ライセル王国の首都、ローグスにあって王国を代表する商会が軒を連ねるブラネル通り。そこから歩いて行ける距離の上流の人々の屋敷が連なる一角にブラッドリー邸はある。
初夏からもうすぐ夏に移り変わろうとしているこの季節、どんよりとした曇り空がトレードマークとすら言われているローグスもこの時期だけは晴れ渡り、爽やかな風と小鳥のさえずりが人々に朝を告げる。
そんな夏の明るい日差しを一番集める特等席とも言える主寝室。しかし今日もそこにいるのは、その主の片方だけだった。
カーテンを閉めていても、外へ張り出した窓から降り注ぐ夏の日差しにシンシアは身動ぎする。彼女こそがローグスを代表する紅茶店、ブラッドリー商会の若奥様だ。
本来ならこの寝室は彼女と、そしてその夫のものであるはず。しかし少々性格に難ありな彼女の夫は、結婚初日から「寝室は別」と宣言し、シンシアが律儀に会おうとしなければ、完全な仮面夫婦になっていてもおかしくない状況を作り上げていた。
二人に降り注いだちょっとした事件から彼らの距離は急接近したが、結婚当初のことを後ろめたく思っている彼女の夫、トーマスは「恋人から始めましょう」の言葉どおりに今も寝室を分け続けていた。
そんな訳で今日もこの広い寝室の大きなベッドには彼女一人。
今日は休日。それも昨日はとある商家の奥様に誘われて夫とともに観劇(とはいえそれも立派な社交、若奥様としての仕事の一環だ)に出かけて夜遅くに眠りについた彼女は、普段よりずっと眠たかった。
夫婦のための大きなベッドは、それなりに裕福な家で育ったシンシアも驚くほどのふかふかさ。熟練の使用人がシワひとつなく仕上げたリネンのシーツも、ウールがたっぷり詰まった布団も、彼女の睡魔を後押しする。
「後少しならお寝坊しても良いかしら?」
今日は夫も予定がないという。であればゆっくり二人で朝食を取って、それからどこかへお出かけするか、それとも二人でのんびりするか。
いずれにせよ、まだ朝は早い。もう少しだけこの心地よい睡魔に身を任せたい、と夢現に思いながら彼女はまどろみを噛みしめる。
夫が寝室を分けると言い出したときには、「旦那様がこちらを使うべきでは?」となんとかトーマスに屋敷で一番良い部屋を使ってもらおうとした彼女。だが「私は商会に泊まり込むことも多い。どうせならより多く使う方がこの部屋を使った方が無駄がない」というトーマスに押し切られ、この部屋の主はシンシアで決まった。
とはいえ慣れとは恐ろしいもの。最初はこの大きな寝室に決まりの悪さを感じていた彼女も、すぐに熟睡出来るようになった。
外からは小鳥の声が絶えず聞こえている。そろそろ誰かが起こしに来るかしら? でも今日はもう少しお布団の中にいたいわ。そう半分眠ったまま考えた彼女がまた夢の中に入りそうになった時。ドアを叩く高い木の音がした。
「奥様? 朝ですよ。入ってよろしいですか?」
「ん〜……良いわよ。でももう少しだけねむらせて……」
意識もはっきりしないままそう答える彼女に2つの笑い声が聞こえ、ドアが開く。笑い声が2つ? そのことを疑問に思ったシンシアが目を開くと、そこにはふだんいないはずのない人が立っていた。
「だ、旦那様?!」
寝ぼけ眼が捉えるのは、いつも起こしに来てくれる若い侍女と、上着は着ないまでもシャツとベストを身に着け、髪もセットして、身支度を済ませたらしい夫の姿だ。
普段、一緒に過ごす時のかっちりとした服装とも、夜のお茶会のときのボタンを軽く外したラフな服装とも違うトーマスの姿を見たシンシア。
彼女はふと自身の服装に思い至り慌てて布団を引き上げる。首元までしっかり詰まったとは言え、彼女が身に着けているのは薄い夜着一枚。夫とは言え、まだ寝室を分けている彼の前に出るには、あまりに心もとなかった。
赤くなったり青くなったりしているうちに意識が覚醒してきたシンシア。彼女は目の前でニコニコしているトーマスに疑問をぶつける。
「ど、どうされたのですか? 旦那様? 今日は商会はお休みで、旦那様も一日休日でしたよね」
と、そこでシンシアはあることに思い至る。
「も、もしかして今日何か用事がありましたでしょうか? 私、寝過ごしてしまいましたでしょうか?」
そう言って焦りだすシンシアにトーマス笑いをこらえている様子で、シンシアの側に寄りつつ答える。
「いいや、今日は休みであっているよ。特に用事もないし、久しぶりに商会へも顔を出さない予定だ。たまにはロベル達にも休みをやらないといけないしなーー」
「ですが寝過ごしてはいらっしゃいますよ、奥様」
トーマスの影にいた侍女がこちらも少しだけ笑いながら言う。
その言葉に時計を見たシンシアは目を見開く。普段起きている時間から数時間は立っている。道理で明るいはずだ。「どうしましょう」とでも言いたげなシンシアにトーマスは微笑む。
「さっきも言ったとおり、今日は予定も何もないのだから寝坊しても何の問題はない」
そういうトーマスだが、シンシアとしては用事がないからゆっくり起きよう、とも言えない事情があったのだ。
「ですがせっかく旦那様もお休みなのでしたら、色々したいことがありましたのに……」
まさか最初から寝坊してしまうなんて、とシンシアは肩を落とす。
夫と心を通わせて以来、屋敷や商会で顔を合わせる機会は格段に増えたし、朝食もいつも一緒に取ることにしている。
とは言え、大店の当主たるトーマスは常に忙しく、朝はせわしなくなりがちだし、ゆっくりと話す時間もなかなか取れない。
だからこそ今日はゆっくり二人で朝食を取って、それから一緒に過ごしたいと考えていたのに。
そう言うシンシアのいじらしい姿にトーマスは表情を緩める。そしてドアの方に少し視線をやってからシンシアに微笑みかける。
「私もせっかくの休日だし、シンシアと過ごしたいと思っていた。だがシンシアは最近社交続きで疲れているだろうし、休ませたい」
優しく、そして思案げな声。結婚当初はこんな声をかけてもらえるなんて思ってもいなかった。そんなことを思うシンシアの耳に、トーマスの言葉を引き取った侍女の明るい声が入ってくる。
「と、そこで我々使用人一同が、旦那様に目覚めのお茶を淹れることを提案させていただいたのですわ」
「いつも夜、私が書斎で仕事をしているときにはシンシアがお茶を淹れてくれるだろう? だったらたまには私がお茶を淹れて感謝を示さないと、と思ってな」
「旦那様のお茶ですか? それはたしかにとっても楽しみですわ」
ここに来てようやく夫が妻の部屋に朝から突撃してきた理由が分かったシンシアは、にっこりと頬を緩ませる。
国一番の紅茶店の主だけあってトーマスのお茶は美味しい。とはいえ、普段のお茶は使用人達が淹れるから、彼が淹れてくれるお茶は貴重なのだ。
「でしたら着替えなければいけませんわね」
と身を起こそうとするシンシアだが、そんな彼女をトーマスが優しく押し止める。
「その必要はない。ベッドの中で飲めば着替えなくても良いだろう? 休日は妻を起こさぬようこっそりベッドから出て、目覚めのお茶を用意する。それが良き夫の役割だとロベルトに聞いた」
「そ、そうですか? ではお言葉に甘えて」
トーマスに知恵を入れたのは使用人一同だけではないらしい。もっともそれは一緒にベッドを使っている前提なのだが……と苦笑しつつ、シンシアは乱れてしまったシーツを引き上げる。
一方トーマスはお茶の準備を始める。夫婦の寝室には続きの小さなキッチンがある。トーマスがキッチンに入ると「この一杯はシンシアのために……」とお馴染みの歌が少しだけ漏れ聞こえてくる。
トーマスの声音は少し低めでそしていつも落ち着いている。そのせいでやや冷たい印象を持たれることもあるが、彼がこんな風に妻にお茶を淹れている姿を知れば、その印象も変わるかも知れない。
もっとも仕事中のトーマスしか知らない面々にとっては、こんな姿は印象が変わるどころか唖然として立ち尽くすもので、ある程度トーマスを知っている者が見れば大笑いするのだが、それは今の所シンシアの知るところではない。
芳しいお茶とほんのりと爽やかな香りが漂ってくると、湯気を漂わせるカップを手にしたトーマスがニコニコと戻ってきた。すでに身体を起こしていたシンシアは、より強くなった香りを吸い込み笑顔になる。
「さ、熱いから気をつけて」
「えぇ、ありがとう……あなた」
そう少しはにかみつつ、トーマスの瞳を見るシンシア。一方トーマスはというと、頬を赤くして固まっていた。もしまだカップが手にあったらうっかり落としていたかもしれない。幸いカップとソーサはすでにシンシアが両手でしっかり持っている。ただそのトーマスの姿にシンシアは段々と恥ずかしくなってきて頬を染める。
「その……旦那様とのことをエリザベス様にお話して、もっと距離を縮めたいな、なんて話したら呼び方を替えてみたら? なんておっしゃって。エリザベス様は私的な時間には侯爵のことをそう呼んでいらっしゃるそうですわ。お気に召さなければやめますが」
ブラッドリー夫妻の結婚をまとめたボルドー侯爵夫妻はそれぞれに二人を応援していた。
そう言うシンシアに、トーマスは「いや」とやや大仰に首を振る。
「嫌ではない。ただあまりにもシンシアが可愛すぎて、どうしようかと思っている」
「い、いえ……そんな大層な」
もともとつい最近まで仮面夫婦目前だった二人だ。朝、それも早朝とはいえない時間。陽は温かいが、それ以上に二人は顔を真赤に染めて熱くした。
恥ずかしさを紛らわせるためにもシンシアはお茶を一口飲む。すると爽やかな柑橘の香りが一杯に広がり、先程とは違う幸福に頬を染める。
その様子にトーマスもまたようやく平静を取り戻し、シンシアに微笑む。
「ミスブリストルの新作で昨日出来たばかりだそうだ。ベルガモットを使うブレンドは一般的だが、それにグレープフルーツなんかの香りをあわせているらしい。爽やかでこの時期に良いだろう」
「えぇ、素敵ですわ。さ、旦那様も一緒に楽しみましょう」
「あぁ、そうしよう」
そうしてトーマスはキッチンにもう一つのカップを取りに戻り、他愛のないことをおしゃべりしつつ、二人の時間は続く。
やがて、夜のお茶会に加え、休日の朝のお茶も二人を繋ぐ習慣になるのだが、それはまた別のお話。




