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「奥様には大変申し訳ないのですが、旦那様は今日もこちらに来ないつもりだ、とおっしゃられてまして……」


 ライセル王国の首都、ローグス。その一等地に構えるブラッドリー邸。大きなベッドと品の良い調度品でまとめられた若夫婦のための寝室で、今日奥様になったばかりのシンシアは、心底申し訳無さげな執事の言葉に瞳をパチクリとさせた。


「あと、寝室も当分は別にするからと」


 そんなシンシアにさらに執事は言葉を続ける。


 ライセル王国を代表する大店の商家に嫁入りしたのは昨日のこと。

 昨日は教会での結婚式のあと、華やかな祝宴が開かれ、シンシアも夜遅くまで眠ることは出来なかった。広い大広間で開かれた祝宴の招待客リストには、経済界の重鎮から名のしれた貴族まで載っており、シンシアは思わず震えあがる。

 ただ、幸い隣に立つトーマスが話は仕切ってくれ、シンシアは終始その隣でニコニコするだけで乗り切ることが出来た。

 それでもくたびれた彼女は、「今日は一人で寝なさい」という夫の言葉をありがたく受け入れたのだが……実質初夜とも言える今日も来ない、というのはどうしたのだろうか。


「いえ、あなたが謝る必要はないわ、ブラウンさん。それより旦那様はそんなにお忙しいの?」


 昨日から彼女が奥様、と呼ばれることになったこのブラッドリー家は紅茶の輸入と販売で名の知れた商家だ。

 飲む人にちょっとした幸運をーーそんな意味で選ばれた、という四葉のクローバーのエンブレムが特徴のブラッドリーズの紅茶。それらは王族から庶民まで誰もが知る、ライセルの一大ブランドだ。


 そんなブラッドリー商会の舵を取るのがトーマス・ブラッドリー。創業から三代目の彼は、取引に出向いた海外での事故で二代目夫婦が若くして亡くなって以来、この商会を率いて更に大きくしてきたやりてのビジネスマンだ。


 シンシアが少ない交友関係の中で聞いた噂によると、トーマスは三代目として就任して以来とにかく仕事に明け暮れてきて、浮いた話も全く聞かないとのこと。

 故にシンシアも浮気の心配はしていないが、甘いロマンスを想像して嫁いできたわけでもない。だからといって新婚初夜に花嫁をほったらかすほどの忙しさ、というのもどうだろうか。


「えぇっと……いや……そういうわけでもないのですが」


 ブラウンは更に言葉を濁す。その歯切れの悪さに屋敷内に愛人でも囲っているのか? と思ったシンシアだが、いくらなんでもそれはないだろうと思い直す。それなら流石に何らかの噂になっているはずだ。


 仮に仕事でも愛人でも無ければ何だろうか? 自分で言うのもあれだが、トーマスとは嫌われるほども会っていない。結婚前に顔合わせを数回。それも介添え人付きで短い時間だ。


 ブラウンが退室してからしばらく考えを巡らせたシンシア。しかし一向に思い当たる節がない。

 もともと悩むということは苦手な質だ。早々と考えることをやめたシンシアは、ふと良いことを思いついて侍女を呼ぶベルを鳴らす。


 思い立ったら行動あるのみ。ここに母や実家で世話になった使用人達がいたら即座にとめられ、腰に手を当ててのお説教が始まっただろうが、ここはブラッドリー家。

 少々常識外れのシンシアの行動も、彼女との距離をまだ測りかねているこの家の使用人達は、訝しげにしつつ叶えてくれた。






 ブラウンに案内されて広い屋敷の廊下を歩きながら、シンシアはここ最近の怒涛の日々を思い出す。ある日父に書斎に呼び出され、唐突に告げられたのは「結婚相手が決まった」という中流の娘にとっては一世一代のこと。


 普段なら、そんな突然大事なことを決めたりしない父の言葉に驚くと、なんでもシンシアを相手に紹介してくれた人がなかなか目上の方なのだという。


 なかなか目上、と父が言うということはおそらく上流階級。

 そんな人であれば名家とはいえ、田舎の小さな家が逆らうわけにはいかない。あれよこれよと顔合わせをし、言われるがままに結婚の準備をしていると数ヶ月はあっという間に経過した。


 もっともシンシアはその事自体は別に憂いていない。

 もともと流行の服飾や、芝居、そして噂話といった地元の知り合いが好む話にあまりついていけず、むしろ実家の商売に興味を示して、やや変わり者扱いされていたシンシアだ。

 もちろん恋人もいなかった。狭い地元を出られる、それも実家のためにもなるということならば、不安こそあれど、彼女は新しい生活に希望を持つことが出来た。


 もっともいきなり夫から寝室を分ける、と宣言されたのには驚いたが、きっと何か意図があるのだろう。その本意を探るべく、シンシアは夫がいる書斎を目指した。






 一方、花婿たるトーマスは月明かりが差す書斎で書類を読んでいた。もっともその書類は急ぎのものではないし、実際文字を追うスピードも遅い。

 正直こんな日にまで仕事をする必要はないのだが、彼とて新婚の花嫁を放置していることに、全く罪悪感がないわけではない。

 彼はその後ろめたさから逃れるように書斎へ入り、仕事に逃げ込んだのだった。


 まあ、この結婚は完全な政略結婚だ。いずれ子供のことは考えないと行けないにせよ、多少の時間はあるだろうし、明らかに世間知らずらしき彼女も今頃ホッとしているだろう。そんなことを思っていると突然ドアがノックされた。


「旦那様? 少しよろしいでしょうか」

「ん? ブラウンか。構わないが」


 執事のブラウンが訪ねてきたらしい。彼は商会のことにかかりきりのトーマスに変わり、屋敷を取り仕切ってくれている。

 きっと屋敷の差配で相談があるのだろうと、入室を許可した彼が机から目を上げると、ドアから入ってきたのは予想外の人物だった。


「お忙しいと聞きましたので来てしまいましたわ、旦那様」


 そう言ってにっこり微笑むのはトーマスが本日結婚した相手、シンシア・レイクトン嬢。

 いや、結婚したのだからシンシア・ブラッドリーと呼ぶべきか。

 とにかく今日は別々に寝るから、とブラウンに伝えに行かせたはずの彼女は落ち着いた色の部屋着を纏い、そしてお茶のセット一式を乗せたカートを押して部屋に入ってきた。


「今日は先に寝ているように、とお伝えしたはずですが? シンシアさん」


 うっかり冷たくなりそうな声音を努めて優しくして告げる。まだ少女とも言える妻を怯えさせるのは流石に彼も不本意だ。


「えぇ、お言葉に甘えて先に休ませていただきますわ。でもその前に、結婚式の日もお仕事をなさっている旦那様を労うのも妻の仕事かと思いまして……使用人の皆様にお願いしたのです。

 あまりたくさん飲まれると眠れなくなりますが……もう少しお仕事をなさるのなら一杯くらい問題ないでしょう?」


 そう言って小首をかしげつつ彼女はポットを掲げる。


「ま、まあ……そうだな。せっかくだし一杯いただこうかな」


 新婚初夜に夫のもとに突撃してくるのも驚きなら、お茶を手ずから淹れる、ということにも驚きだ。

 仕事柄トーマスは試飲のために自分でお茶を淹れることもある。けれども中流階級でも、ある程度の地位の家では、お茶を淹れることも含めて身の回りの細々としたことはすべて使用人の仕事だ。特にフォークより重いものを持たない、などと言われる女性はそうだろう。


 そんな疑問を抱きつつも完全に目の前の新妻の勢いに押されたトーマスは彼女の言葉に頷く。


 トーマスの許可を得て、嬉しそうに


「ありがとうございます!」


 と、言い弾むようにお辞儀をした彼女は、そのまま手慣れた手付きでお茶の準備を始める。


 上品に、しとやかにーーそんな振る舞いが求められる商家の妻らしくはない振る舞いなのかもしれない。

 だが、くるくると動く明るい表情にトーマスは好印象を抱く。トーマスは手元の書類を机の端にやり、彼女の手元を見つめていた。


 ポットの蓋を開け、カートに入ったいくつかの缶を見て少し悩んだか、と思うと、赤褐色の缶の蓋を開ける。ブラッドリーズの商品の中でも特に香りがよく薄めに淹れても楽しめるお茶だ。夜も更けている、ということでその選択なのだろう。


 迷いなくティースプーンを缶に入れるとポットに数杯の茶葉を入れる。


「この一杯は旦那様のために。この一杯は私のために。もう一杯はポットのために」


 スプーンを動かしながら歌うようにつぶやく声にトーマスは思わずくすりと笑い声をこぼす。


 その声で、自分が声を出していたことに気付いたのだろう。シンシアは恥ずかしそうに声を赤らめる。


「えっと……その、お母様にお茶を美味しく淹れるコツだからって教えてもらって以来、こうやって淹れるのが癖になっていてーー」


 あわあわとするシンシアに、トーマスは冷静さを取り戻したのか、元の表情に戻る。


「いや、面白いことをするんだな、と思っただけで」


 トーマスの言葉にますます顔を赤らめたシンシアだが手元に狂いはない。

 用意してもらったばかりらしい湯気の登るケトルから熱湯を注ぎ、蓋をして、砂時計をひっくり返す。

 砂が落ちきったところで、お茶を2つのカップに分ける様も手慣れていて、彼女がお茶を普段から淹れていることがわかった。

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