四話目 入部
「で、入部どうするの?」
桜と武史は一緒に帰路の電車に乗っていた。
「どうもこうも、負けたからには入らないとでしょ」
武史は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
いや、実際将棋は面白い。しかし、負けに残るのは悔しさだけだ。
「それは仕方ないと思うよ」
桜は一歩先に行くと振り向いた
「だって、寺川先輩って昨年度、新人戦優勝、高校選手権個人優勝だもん。今最も普通の高校生で将棋、強い人だよ。」
「…は?」
武史は間の抜けた返事をした。
「高校生で日本一強いってこと?」
「うーん、厳密にいうとそうとも限らないんだけどね。でも高校将棋部の中では最も強いよ。なのになんでうちの高校は将棋部じゃなくて将棋同好会なのかな〜」
桜は不服そうに言った。
「厳密にいうと違うってのはどういうこと?」
「ほら将棋ってプロ制度があるじゃない?それで、そのプロになるためには基本的にはプロの養成所みたいな所の奨励会っていうのに入らないといけないんだよね。そこには県で一番強かった人とかがザラにいるんだけど、奨励会に入っちゃうと高校選手権とかアマチュアの大会に出られないんだよね」
「ん〜なるほど?」
「要するにプロ手前の人たちは高校の大会に出られないから、その人たち抜きの大会で最も強いのが寺川先輩ってわけ。」
最強のアマチュアってわけか。
「じゃあ、さっきの将棋、俺が勝つ確率って万に一つもなかったってわけか…」
なのに、悔しい気持ちは変わらなかった。
「でもかなり善戦した方だと思うよ!初心者なんだよね?」
昨日も桜は初心者かどうか訊いてきたが、随分疑り深い性格なのか。
「将棋のルールは昔骨折して病院に入院していた頃にちょっと覚えたけど、それ以来していなかったよ。」
「それでパックマン戦法で丸井先輩を倒して、四間飛車で寺川先輩とやりあえたのはすごすぎるよ。丸井先輩も初段はありそうだったし。普通初段になるのに1〜3年かかるって言われているんだよ。」
「そうなんだ…」
「一緒に将棋がんばろうね!」
桜はそういうと電車を降りた。
武史は鷹揚に手を振った。
「武史、お前はパックマンを、いやノーマル四間飛車をやめろ」
水曜日。部室を訪問すると、寺川に突然そう言われた。
武史は入部届を持った手をだらんとさせた。
「パックマンはともかく…、四間飛車までやめさせるんですか?」
桜は少し不満気に言った。
「そうだ。パックマン戦法は乱戦になりやすく、それで常勝するのは難しい。格上に一発入れられる可能性はあるがな。それとゴールデンウィークの高校選手権までに2人前、いや3人前でも仕上げるには、やっぱり四間飛車だと厳しいと思う」
寺川は黒板の前に立つと、なにやら書き始めた。
「山田定跡、鷺宮定跡、棒銀、斜め棒銀、45歩早仕掛け、ポンポン桂、地下鉄飛車、へなちょこ急戦、26飛型急戦、右銀急戦、5筋位取り、玉頭位取り、右四間飛車、左美濃、居飛車穴熊、トーチカ、エルモ囲い、ミレニアム囲い、鳥刺し、嬉野流、新嬉野流、筋違い角、飯島流引き角戦法」
「なんですか、これ?」
「四間飛車を指すにあたって覚えないといけない、戦法や囲いの定跡の種類だ。つまり、四間飛車を指すならこいつらと相対さなければならない。」
「こんなに種類があるんですか。」
「そうだ。この種類の対策をあと1ヶ月でこなすのは難しい。よって四間飛車は禁止だ。」
「私も知らない定跡がある…」
桜は黒板に書かれたそれを見て言った。
「じゃあ、なんの戦法を指せばいいんですか?」
武史は折角少し勉強した四間飛車に名残惜しさを感じた。
「数学で培われる能力で最も関係があるのが終盤力だと言われている。だから、いきなり中終盤に持ち込まれる戦法がいいと思う。しかも定跡もほとんどないのが良い。そこで武史には右玉を指してもらいたい。」
「みぎぎょく」
将棋を始めてから、どうも聞き慣れない言葉が多い。
「右玉は玉が薄いが、どの戦法相手でも基本的には組むことができて、終盤力を問われる戦法だ。定跡もほとんどないと言ってもよく、力戦が多い。」
「右玉指すんですか…。フジイタケシなのに…。」
桜はつまんなさげに言った。
武史としても自分で選んだ作戦ではない、押し付けられた作戦に少し抵抗を感じていた。
「そこなんだ。むしろ対戦相手が藤井タケシなんて名前をしていて、右玉指してきたら意外だろう?将棋はメンタルスポーツだ。相手がそれで少しでも動揺してくれたら、それだけでめっけもんだ。」
そんなのありなのか?
「盤外戦術じゃないですか」
桜が言うと
「ルールの範囲内だ。」
と寺川はすました顔で言った。
「誠のピアスと金髪も盤外戦術なんだよね」
丸井は秘密を打ち明けるように言った。
高校生No. 1なのにそんな卑怯な手使っていいのか、と武史は思った。
「ルールの範囲内だ」
またしても寺川は言った。
「そして右玉の感覚を掴んでもらうために、部内での対局数を増やしたいと思う。」
確かに武史の対局経験といえば、将棋アプリの十数局と丸井、寺川との2戦のみだ。
「しかし、その前に部員をもう一人増やしたいと思う。」
「あと一人で将棋同好会から将棋部になるんだよね」
「将棋同好会と部じゃ何が違うんですか?」
桜が聞いた。
「部室が正式にもらえるようになる」
「え、ここ部室じゃなかったんですか。」
「ここは吹奏楽部の楽器置き場を勝手に使わせてもらっている。」
なるほど、だから吹奏楽の楽器らしきものが置かれているのか。
「不法占拠じゃないですか」
「それに部費が出るから将棋盤と駒を買うことができる。人数が増えればその分備品も多く必要になる」
「今までは僕と誠だけだったから、盤も駒も1セットでよかったんだけどね」
「それに学校公認となれば、活動の幅も広がる。去年までは俺がいくら賞を取っても何もなかったが、学校のサポートがあれば、それも学校の顔になるからな。」
「それに」
寺川は言い淀んで
「部員は多ければ多いほどよい。」
と言った。
おい、この人、前に雑魚は何匹集まっても雑魚とか言っていなかったか?
「でも将棋部に入る人のあてはあるんですか?」
この間、学年集会で部員勧誘を行っていたが、将棋同好会は寺川の見た目にざわつくだけで、勧誘の逆効果になっていた。
「今更、将棋部に入る人いなさそうですが…」
桜も困ったように言った。
大体部活動見学も終わり、みんなも各々部活動を決め終わっていた。
「いや、それなんだがな、実はあてはある。」
「そうなんだよね。藤井くんと同じクラスに元奨励会員の子がいて、その子を勧誘できないかと思っているんだよね」
「元奨励会員ですか。」
確か昨日桜がプロ養成機関のようなものだと言っていたか。
「でも、奨励会員の人は大会に出られないんじゃなかったでしたっけ?」
武史が言うと
「”現役“ならね。彼は高校に入る前に奨励会を辞めたから一般の大会にも出られるんだ。」
「プロになるのを諦めたってことですか。そういう人多いんですか?」
「僕も奨励会員じゃないから詳しくは分からないけど、奨励会はたしか26歳までにプロになれなかったら、強制的に退会させられることにはなっているはずだけど、それより前に退会するのはなにかしら事情がないと中々ないんじゃないかな」
プロになるのを早々に諦めて、奨励会を辞めた人がうちのクラスにいる。
でも、そんな人が高校将棋部で将棋を指すだろうか。
「もう将棋やめちゃっているんじゃないですか?」
「そこなんだよね」
丸井と寺川は顔を見合わせた。
「武史、悪いんだが、勧誘に付き合ってくれないか。」
「ええ…」
武史は自分には関係ないことだと思っていたので気の遠くなる思いがした
「ところで入部届持ってきたんですが、どうしたらいいんですか」
「まだ将棋部じゃないから、とりあえず預かっておく。元奨の子を勧誘したら、顧問をつけてまとめて提出する」
武史は寺川に入部届を出した。
ああ、これで引き返せないんだな、と武史は思った。
どうせなら数学研究会とかに入りたかった。