一話目 おおきなもりのどうぶつしょうぎ
「将棋部、ですか」
北海道では桜が蕾にもにならない頃、つまり武史が高校に入学した次の日、武史は見知らぬ先輩にお昼休みに呼び出された。
その先輩の格好といったら明らかにやんちゃ者そのもので、右耳にピアスが2個、左耳にピアスが3個、それから、なにか耳を棒のようなものが貫いており、髪は透き通るような金色。
ていうか、校則違反じゃないのそれ、と武史は思った。
「そう、将棋部。君はこないだのうちの入試試験で数学の得点が1位だったんだ。将棋っていうのは数学に似たところがあるからね。君、将棋のセンスあるんだよ」
武史がぽかーんと口を開けている間に何某先輩は矢継ぎ早にセールストークを始めた。
武史としては聞きたいことはそうじゃなくて、なんで僕だけ呼び出されたのかが聞きたいのだが。と思ったが、そういえば今たしかに理由を説明していたな。将棋が数学に似ているとかなんとか。
「ていうか、入試の得点開示って本人しか見れないんじゃないですか。なんで知ってるんですか。」
この先輩、どうも胡散臭すぎる。大体、昼休みにこんなチンピラみたいな格好の人に呼び出されたら、普通カツアゲかなにかだと思うじゃないか。僕だけが知らないだけで、ショウギブという名前のマルチの勧誘だったりするのかもしれない。などと武史は思った。ShowGiveみたいな。
「それは学校のPCにはバックドアが仕込んでおいていて、いつでも俺が見れるようになっているからだ。」
なんだそれは。
あまりに荒唐無稽な話に武史は一笑に付したくもなったが、実際武史の入試数学は完答したんじゃないかってくらい良いところまで行った自覚が本人にもあったので、僕の嘲笑い顔もピタリと止まった。
「将棋、やったことないんで、すみませんが失礼します」
こんな馬鹿馬鹿しい話に付き合っている暇はない。
武史は屋上に呼び出されたきり、お昼ごはんも食べていなかったので、さっさとこの場を退散するに限ると思った。
「いやいや、ちょっとまって。」
そういう何某先輩を後ろにして、武史は屋上の扉を閉めた。
そうして、昼休みに戻った。
「さっきの先輩、大丈夫だったのかよ」
武史が昼休みにいきなり呼び出されたのを見ていた、左隣の机の席のやつが言ってきた。
「うん、なんか部活の勧誘だったみたい」
あるいはマルチの勧誘かもしれないけど。
次の時間は入学したばかりだから、LHRで自己紹介をする運びになった。
例の如く、東、伊藤、宇崎…と続き、武史の番が回ってきた。ちなみにさっきの隣の席のやつは斎藤というらしかった。
「藤井武史です。北中からきました。趣味はこれといってないですが、YouTubeにある数学の問題を解いたりしています。」
武史がこう自己紹介をすると、数学を解いているといったあたりから「えー」とどんびいた女子の声が聞こえた。いいんだ。自分でもちょっと変わった趣味をしている自覚はある。
それから、自分の番を終えると、武史はぼんやりと他人の自己紹介を聞くとはなしに聞いていた。
とそこで、武史の目を完全に惹くものが。
「和田桜です。常田中からです。」
少しウェーブがかったロングの黒髪に、アンニュイさを含んだ奥ゆかしそうな瞳。それから、それを強調する、長い睫毛の美少女がそこにいた。
武史もその美貌に目を奪われたのは例外ではなかった。
武史のそれは、一言で言えば、一目惚れだった。
「趣味は将棋で、将棋部に入るつもりです」
んん?
今なんと?
まあ、かくして武史はショウギブ改め、将棋部の門戸を叩くことになったのだった。
ちなみに後で隣の席の斎藤と二人でこそこそと可愛いを共有をした。
「やあやあ、やっぱりきてくれると思った!」
放課後、武史は和田桜と一緒に将棋部を訪れた。
入り口に雑な字で「将棋部」と書かれた張り紙をはった、その教室はヴァイオリンやチェロのような楽器類が隅に置かれており、イメージしていた、畳張りの将棋部とは雰囲気が異なっていた。
向かい合わせの机の上に一つだけ、高さ3センチメートルほどの将棋盤が置かれていた。
「別に来たくて来たわけじゃないです。昼間、誘われたので来ました。」
「和田桜です。棋力は道場初段、ウォーズ二段くらいです。中学でも将棋部やっていました。よろしくお願いします!」
桜は凛とした声でお辞儀90度を決めてきた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。俺は寺川誠、部長をやっている。よろしく」
そう言うと、何某先輩改め、寺川と桜の視線は自然に僕に向けられる。
「藤井武史です。将棋は駒の動かし方が少し、分かるかわからないくらいです。級とか段とかはわからないです。」
「!」
自己紹介をした後、桜はこちらを食い入るようにみた。
「名前、藤井たけし…くんなの?」
「う、うん」
彼女の謎の気迫に押されながら武史は首肯した。というより、LHRの自己紹介で名前言ったと思うんだけどな。
「そこもいいよね、正に将棋を覚えるために産まれてきた名前。ちょっと漢字違うけどさ」
「どういうことですか」
「藤井猛といえば、四間飛車の神様だ。四間飛車っていうのは将棋の戦法の一つだ。」
「藤井猛先生と同じ名前なんてすごい!絶対四間飛車指すべきだよ!」
桜は興奮した様子でなにやらはしゃいでいる。
武史は「はあ、そうですか。」と気の抜けた返事をしていた。
置いてけぼりをくらったようだ。
とそこで、後ろのドアが開いた。
「うわ〜、新入生?」
身長180cmはありそうな、縦にも横にも大きい人が部室に入ってきた。
「僕、丸井。入部してくれるの?よろしくね〜」
柔和な笑顔がとてもチャーミングだ。
「いえ、僕は。」
武史は入部すると決まったわけじゃないぞ。と、不平を漏らそうとすると、寺川が
「いやこいつらはまだ入部試験に合格していない。これから試すところだ」
と、制した。
「入部試験?」
丸井が訝しむ。
「雑魚は何匹集まっても雑魚だからな。これからこの丸井と藤井で対局してもらう。その対局の棋譜の内容次第でうちに入ってもらうかどうか決める」
いやそもそも入るとか一言も言ってないんだけど。
しかし、武史はその場の流れに任せていたら、何やら椅子に座らさせていた。
「駒の動きはわかる?」
丸井先輩は机の上の将棋盤をロッカーにしまった。
「いや、正直、銀と金の動きが怪しいです。」
「そっか、じゃあ大きな森のどうぶつしょうぎで対局しようか。誠、駒落ちはするの?」
「ん〜香車落ちにしようかな。」
寺川は少し悩んでいた。
「あの、出来ればハンデなしでお願いしたいんですけど。」
と武史は言った。
将棋の業界的にあまりに実力差のある二人にはハンデをつけて対局することが多い。そうでないと将棋が一方的になり、学ぶことがないからだ。
しかし、藤井武史の実力は未知数。いきなりハンデ戦というのも失礼か、と寺川は思った。
「じゃあ、やっぱり平手でいこう。」と言った。
どうぶつしょうぎと呼ばれたそれは、9かける9のマスに可愛らしいデザインがあしらわれたシートと、うさぎ、犬などの動物の絵柄が描かれた四角い駒だった。
「あ、これ駒の動きが書かれているんですね。」
武史が手に取った犬の駒には金と同じができることが小さな丸で示されていた。
「そうそう、だから初心者でもとっつきやすいんだよね。」
これなら金と銀、犬と猫の違いも一目でわかりそうだ。
なるほど、香車はまっすぐしか走れないから、猪突猛進の猪か。
「先手後手はどうするんですか。」
「振り駒したいところだけど、どうぶつしょうぎだし、じゃんけんでいいかな」
じゃんけんの結果、武史が負け、先手番は丸井になった。
丸井は、そう言うとシャツを正した。
「じゃあ、はじめようか。よろしくお願いします。」
そう言われると武史は慌てて
「よ、よろしくお願いします。」
と頭を下げた。
丸井の先手。
初手、▲77歩。角道を開ける自然な一手だ。
対する、武史はよくわからないので相手の真似をしようとした。
2手目、△44歩。
「…!」
寺川と桜は顔を見合わせた。
丸井の真似をするのであれば、34歩としなければならない。武史は相手の真似をしようとして、間違えて一つ筋の違うところの歩を前に進めてしまっていたのだ。
そしてこの手は
「パックマン…。」
丸井はぼそりとつぶやいた。
武史は丸井の表情と桜と寺川の様子を見て、何か様子がおかしいことに気づいた。
(しまった…。)
そして、武史は思った。
そう、角道を開けた手に対し、66歩とする手は、相手の角がタダで自分の歩を取ってしまえるのだ。
しかし、丸井は中々次の手を指さなかった。
(何をそんなに考えているのだろう)と武史は思った。
明らかな悪手に対して、取る一手ではないだろうか。それとも力を試すこの入部試験で、いきなり丸井が優勢になってしまっては実力が見られないから見逃そうとしているのか。
そう武史が邪推していると、丸井は意を決したように次の一手を指した。
3手目、▲同角。
さあ、困ったぞ。と武史は思った。
別に将棋部に入りたいわけではないが、和田桜の手前、何も出来ないまま無様に負けるのはよろしくない。
脳みそをフル回転させろ。
盤面は明らかに武史の不利なように、武史には思えた。
なんで、こんな最序盤で。と思ったが、飲み込んだ。
如何にこの角で歩を取った手が、あまりいい手にならないようにするかが大事。
武史の手は自然と麒麟の駒を取った。それは飛車を表した駒だ。
4手目は果たして△42飛だった。
(ほお…)
と寺川は内心感心した。
武史が苦し紛れに指した、△42飛というのはいわゆるパックマン定跡と呼ばれるものであり、プロの公式戦でも似た形で指されたことのある形なのだ。
飛車が角取りに当たっており、もし角が77などに逃げればそのまま47に飛車が成り込めるので乱戦に持ち込むことができる。
だから、パックマン定跡の次の手は、
5手目、丸井の指手は▲53角成。
これで、武史が▲37飛車成であれば、2歩を手にし、なおかつ王様の前を陣取っている馬の方が若干有利である。
しかし、この手、実は武史も読んでいた。
6手目は△34歩
ここで、先ほど真似をしようとしていた角道を開ける手がようやく指せる。
この手が猪の駒、香車取りをにらんでおり、もし先手の丸井が手をこまねていたら、香得の武史の若干有利になる。
寺川は2手目の△44歩が、わざとだったのかと思案した。
実際には、ただのミスなのだが。それほどまでに、ここまではパックマン定跡の手順そのものなのである。
将棋には所謂正道と邪道がある。
パックマン、鬼殺し、新鬼殺し、角頭歩戦法、嬉野流などはプロでは殆ど指されず、きちんと正解を指されれば、奇襲した側が不利になることが研究によって明らかになっている。
しかし、アマチュアの、それも友達と対局するのがメインのようなライト勢には奇襲が成功する可能性が高く、それだけで勝ち星を拾えるのだ。そのため、たまに友達同士で将棋を指す時のために奇襲戦法だけを勉強する人がいる。
武史もそのパターンだろうか。
と寺川は邪推したが、しかし、それでは金と銀の違いがわからないという発言が少し矛盾している気がする。
まさかそれでさえ奇襲の前フリか…?
それに、今回の定跡がもし香落ちであったら、△34歩で香取りが狙えず形勢はおそらくパックマン側、つまり武史の方が悪くなっただろう。平手を所望したのもまさかその狙いが…?
などと寺川が見当違いをしている間に
▲42馬△同銀▲88銀△95角▲77飛
まで局面は進んでいた。
桜は思った。
(この人、本当に強くなるかもしれない…。)
ここまで丸井の方にもミスがなく定跡通りに進んでいるが、それは丸井がパックマン定跡を知っているからである。
定跡というのは何人もの棋士達が頭を寄せ合い、こうやったら不利になるだとか、優勢だとかを生み出していくものだ。
しかし、偶々かもしれないが、今回の武史はその定跡を自らの手で切り開いていったのだ。
あえて強い言葉で表現するなら、自力で三平方の定理の証明をするようなものなのだ。
(ここからは、あんまり定跡をしらない。乱戦になるぞ)
丸井ははっと呼吸した。
△77角▲同銀△72銀▲88飛△71玉▲86歩△44角▲38玉△24歩▲85歩△33桂馬▲84歩△同歩▲83歩△45桂▲82角△62玉▲91角成△57桂▲82歩△49桂成▲同玉△57飛▲58金△54飛成▲72と△同金▲66桂△55龍▲46銀△85龍▲同飛△同歩▲81馬△79飛▲59歩
ここらへんで武史は自分の形勢が悪いことを自覚した。相手の王様には殆ど手をつけられていない一方で自玉には馬が入られており、手を出せなかった。
このままだと何もいいところがなく負けてしまうぞ、と武史は思った。
△57歩▲54桂△52玉▲57銀△71金▲同馬△同金▲92飛△53玉▲56香△55歩▲同香△同角▲42金△81角▲43金△同玉▲91飛成△74歩▲81龍△同金▲61角△52香▲56銀△73角▲45銀△44歩▲83角成△64角▲82歩△同金▲同馬△同角▲83歩△73角▲62銀△同角▲同桂△58香成▲38玉△45歩▲58歩△59飛▲54角△44玉▲48玉△39飛成▲57玉△48角
丸井は苦しそうな顔で言った。
「負けました。」
結果は武史の大逆転勝ちだった。
「逆転負けか…」
丸井はぼやいた。
「感想戦だけど、今回はどうぶつしょうぎだし、なしでいいかな?」
丸井がしょんぼりとして言ったので、武史はただ頷くことしかできなかった。
武史は途中、完全に負けたものだと思っていたので、試合結果に高揚するでもなく、ただ額の汗を手で拭った。
「パックマン戦法、知っていて指したの?」
丸井が訊いた。
「パックマン…?なんですかそれ」
その返答に桜が
「知らないであそこまでに指しこなし。すごい」
と興奮した様子で言った。
「いや僕は最初、完全に間違えたと思って、指していました」
「それで、入部試験としてはどうなの、誠?」
丸井は一呼吸おくと、寺川に聞いた。
「もうすでに初段以上くらいはありそうだったよ。入部試験は合格でいいよね?」
丸井がそういうと、寺川も頷いた。
「そもそも、藤井と和田が入ってくれれば、あと一人で将棋同好会が将棋部になるんだからこんなチャンス見逃すわけがないだろう。二人とも合格だ」
じゃあ、今の対局、なんの意味があったの?
ていうか、将棋部じゃなくて、将棋同好会だったの?
「でも、僕、将棋部入るなんて言ってませんけどね。」