第四十七話 邂逅祭・終
アサラ領主フリーデマンとの一騎討ちに決着がついたかに見えたが、負けた当人はまだ自らの敗北を認めてはいなかった。
フリーデマンは、崩れ落ちた部屋の縁までよろめきながらも歩み寄ると、魔導書を持つ手を天に掲げるように突き出し叫んだ。
「まだだ……玄神を宿す者は死さえ退ける……のだ。さぁ……来たれ……来るのだ……」
胸を貫かれ、常人であれば即死の重症であるのに、生への執着か、勝利への執念か、フリーデマンは目鼻口から血を滴り流しつつも、何かに望みを託し呼びかける。
「ごふごふっ……なぜだ、なぜ来ない……?」
血が流れすぎたのか、絶望がもたらしたものなのか、フリーデマンの腕が次第に震えだし、魔導書を持ち続けることもできなくなった。
その手から離れ落ちた魔導書は、崩れた部屋の縁から身を投げるように地上へと消えて行く。
「ふ、ぶぶぶ……ぶじ……の…………」
事切れ床に突っ伏したフリーデマンを見やり、ランドは部屋の残った壁の棚に並ぶ本の山を見回した。
そこには背表紙で魔法関連だとわかる本がいくつも並んでおり、それはフリーデマンの執念の歴史をランドに感じさせた。
「巨人の斤を、手に入れたんだな……」
魔導書が落ちていった先では、テオフィルの下にすがり寄るアリナの姿があった。
「ごめんね……ごめんねテオ……」
物言わぬテオフィルの目を、血と泥に塗れた手で優しく撫でるように閉じると、緋色の髪で表情を隠したアリナは、悲壮な思いを胸に、静かに立ち上がった。
「神は、いつも私たちを助けてくれない……。でも、もし私の声が届くなら……私の願いを聞いてくれるのなら、お願い、この子に安らかな眠りを……」
このときシュトルンは見ていた。領主館の上階から落ちてきた本が、不思議な輝きを発していることを。そしてその輝きに反応するように、アリナの体が微かに青白い光で包まれていたことを。
哀悼に沈むアリナであったが、悲しみに暮れる時間を長くは与えられなかった。
現世での存在を完全に具現化したのか、それともフリーデマンの支配下から解き放たれたのかは定かでないが、悪魔の動きが活発化してきたように見受けられたのである。
アリナは再びその手に剣を取った。
真紅の瞳は怒りに、憎しみに、そして哀しみに燃え盛り、不退転の決意をもって悪魔を睨みつけた。
「さあ、もうあなたも眠りなさい……」
――誰もが予期し得ない出来事が起きた。
瓦礫の上に落ちていた魔導書が突然その輝きを増し、光は波打ち波紋となって広がり、辺り一面を包み込むように半球状の膜を形成した。
同時にアリナの体がその現象に反応したかのように輝きを放ち、全身から蒸気が発したような現象を確認すると、見る間に体中の傷が癒やされていった。
アサラの街の異変は、街南部の丘の上からもよく見えた。
「おいベルパルシエ、あれ見てみろよぉ!」
南の森から魔物に追われ、じりじりと後退させられていたベルパルシエたちは、アサラの街をまるごと包む半球状の光の膜を見て、まるで生き物の形を現しているように思えた。
ルーに促され街を見たベルパルシエが、目を見開き見たままの有り様を伝えた。
「ありゃ……亀だぜ……」
「ま、街が……亀に食べられちゃったの?」
驚きの表情でフレッドがロジェに聞くと、青墨色髪の少年は皆以上に驚いた顔をしていた。
「あ、あれって……亀のようですけど、手脚が長くて……尾が蛇の……」
皆に聞こえるほどの音を鳴らし、生唾を飲み込み出てきた言葉は、フルオルガ王国の紋章にも模されている守護神獣の名前であった。
「…………玄武神」
それは、誰の目にも巨大な光の帷帳のように見え、構造色に揺らぎ煌めく、蛇の尾を持つ亀のようにも見えた。
亀は街よりも巨大に見える者もいれば、見る者によっては手に乗るほど小さくも見えた。
この蛇の尾を持つ亀が、ロウエム大陸北部を占めるフルオルガの守護神獣“玄武”であることは、ある程度の教養を備えた者であれば皆が知っていることである。
そして、アサラの街中心部に居合わせた全ての者たちが見た。
悪魔の面前に、より色濃く顕現した玄武が、一口のもとに巨大な獅子顔の悪魔を呑み込むのを。
玄武は悪魔を半透明の口径に収めると、同時にその体の色彩が薄まり、透けて見えていた悪魔ごとその場から姿を消した。
「き、消えた……! 悪魔を殺ったのか?」
人知を超えた成り行きに、ロルフはただ傍観することしか出来ないでいる。
その傍にシュトルンが歩み寄り、負傷した腹部を抑えながら辺りを見回す。
「見てみろロルフ……」
シュトルンの視線の先を追ったロルフは、体から蒸気を発し、次々と消滅していく魚人司祭たちを目にした。
悪魔と共に玄武も姿を消したかに思えたが、街を覆う構造色の膜は消えてはいなかった。
シュトルンたちの目には新たな玄武の光体が、いくつも大小巨細を違え、薄膜干渉を受けてその身を顕現させていることを確認していた。
やがてアサラの街から魔物たちの姿が全て消え去り、自然と街を覆う光の膜もその輝きを失していった。
光が消えると、アリナも生気が尽きたように気を失い、その身を大地に投げ出した。
奇声、絶叫、悲鳴、怒号……それまで街を支配していた騒音は姿を隠し、代わりに静寂が辺り一帯を支配していった。
「どう思う……ロルフ」
敬愛する上官からの質問に即答を避けたが、ロルフはその意味を解さなかったわけではなかった。
安易な返答がはばかられるほどのことを、この赤毛の騎士が問いかけてきているのである。
「今のは、見紛うこと無く我がフルオルガの国神玄武であった」
シュトルンは、信頼を置く部下が言葉に詰まっていることを承知で、自問するように問い続けた。
「召喚者は……アリナ・シュミットだと思うか……?」




