第四十六話 邂逅祭・後
まるで時が止まったかのようであった。
全てのものが活動を止め、風だけが音もなく流れていく。
そんな中を、テオフィルだけが歩みを進めた。まるで、まだ生きていることを主張するように……。
「ごふっ……」
腹部を抑え、数歩足を進めたところで血を吐くと、テオフィルは大地にその身を投げ出した。
そして時は動き出し、アリナの叫び声がアサラの夜空に響き渡る。
「いや……いやあぁーっ!」
誰もが満身創痍であったが、アリナは痛みを忘れたかのように体を持ち上げ、テオフィルの下に駆けよるとその身を抱きしめた。
「テオ……テオッ……!」
すでに少年の息はなく、アリナの胸に抱かれながらテオフィルは長い眠りについた。
少年を襲った魚人司祭はすでにロルフに斬り捨てられているが、この場にいる者たちにとっての脅威が全て消え去ったわけではなかった。
悲しみに沈む時間さえ与えられぬ現状をシュトルンが喚起する。
「選べアリナ・シュミット。戦場で悲しみに囚われた者を待つは死のみだ。お前はここでその少年の後を追うのか、それとも……」
真紅の瞳が赤毛の騎士を刺すように睨みつける。
その目からは涙が溢れ、胸に眠る少年の頬に流れ落ちた。
やり切れずにシュトルンがその涙から視線を移した先に、領主館の上階から落ちてきた一冊の本が映り込んできた……。
領主館の三階では、ランドがフリーデマンを前に間合いを測っていた。
アサラ領主は見たところ武器を所持しておらず、左手に魔導書らしき本を持っているだけだが、今の街の事態を引き起こしたのがこの男であるのなら、油断すれば命取りにさえなりかねない。
にじり寄るランドに対し、フリーデマンが突然の訪問を問い質した。
「何者だ貴様は……私が誰だか知っておるのか」
「面会予約を取る暇がなくてね、急いでたんで勘弁してくれよ」
事ここに至ればあらゆる会話が無駄である。
目の前に現れた薄汚い茶褐色髪の男がどこの何者であろうと、ここに来た目的はその手に持った剣がすでに語り終え、やるべきことは互いに十分承知している。
だが、敢えてフリーデマンは語りかけた。
勝利に対する絶対の自信が、その過程を少しでも有意義なものにしようと欲し、すでに満身創痍の非力な人間が、神たる力を手にした身に何を語るか興味を引いたのである。
「間違えている……と言ったか? 私が、神の権化である我が何を間違えたと言うのか」
ランドは口の端を上げ、相手が対話に乗ってきたことに心の中でほくそ笑んだ。
対峙しているのは人外の力を操る未知の相手であり、慎重に敵の様子を観察し、必殺の機会を待つべきだと考えたのである。
ランドは、目の前にいる男が最も気になるであろう言葉を推理し、選択した。
「お前はあの人……ヴェルナーには勝てない」
アサラ領主の眉が動く、ランドは次の言葉を選びつつ相手を洞察した。
フリーデマンは武器を持っていないようだが、その態度には余裕すら感じられる。何か隠し武器があるのか、手にした魔導書を切り札とするには間合いが狭すぎ、呪文を詠唱するには間に合わない。
「あの悪魔はお前が召喚したのか? ヴェルナーを超えるために……?」
ランドは少しずつ足をすり動かし間合いを詰めた。あと僅かで自身の射程距離に入る。
フリーデマンに特別な動きはない。このまま勝負に出るか……。
「お前……昔は騎士団の幹部だったんだってなぁ。ヴェルナーはいつも言ってたぜ、ある程度の強さを身につけたら、そこから先は心の勝負だってよ」
二人の距離がランドの間合いにまで詰め寄ったかと思われたその時、フリーデマンが動いた。
じっと動かず、ランドの語るがままに聞いていたフリーデマンが突然右手を前方に差し出すと、この世の禍々しさを集約したかのような邪気がその手に集まり、そして言葉と共に放たれた。
「何が心だっ! 圧倒的な力、絶対的支配力こそが強さだと、今の世が証明しているではないか! 勝者こそが強者なのだ!」
――ランドは読んでいた、相手の攻撃手段を。
二人の間合い、相手の気配、動作……自らが剣で斬りかかることが明白であるのに、それに対抗し得る手段があるとするならば……。
「近距離無詠唱だろうと思ったぜ!」
どのような魔法かはわからなかったが、他に奥の手があるのでなければ、魔法で攻撃して来ることさえわかっていたならば、交わすことが出来ると、ランドはその一点に賭けた。
ならば後は自らの攻撃が交わされぬほどの速さで、必殺の一撃を叩きつけるのみである。
「思いやるって言うのとは、ちょっと違うとは思うけどさ、相手の考えてることがわかれば、確かに強ぇのかもな……ヴェルナー」
ランドは一切の無駄な動きを省き、フリーデマンに攻撃の軌道を悟られまいとした。
気配を殺し、剣を握り直さず、踏ん張らず……。
あらゆる予備動作を省略して攻撃を開始したとき、すでにランドの剣はフリーデマンの胸部を貫いていた。
フリーデマンの放った邪気は、つい今しがたまでランドがいた場所で黒い炎をたぎらせている。
かつては王国最強の騎士団で部隊長を務めた男であっても、ランドが動いたことにさえ気付かず、自らの胸に熱く込み上げてくる痛みを感じて、はじめて己が刺されたことを知った。
「ガハッ……」
領主の体から剣を引き抜いたランドは、部屋の崩れ落ちた箇所から外に目を向けた。
召喚者がこのアサラ領主だとして、この男の命脈が途絶えることと、外に異様を晒す悪魔が姿を消すこととが同一のことなのかを見届けなければならない。
あの悪魔が消えない限りは、まだ戦いは終わらないのである。




