第四十一話 持たざる者
完全に息絶えていたはずの魚人司祭は再び二足の尾びれで立ち上がり、斬り裂かれたはずの肉体はそれ以前の状態に戻ったかに見られた。
傷口であった箇所からは蒸気が沸き上がり、いくつもの水疱が湧いては消え、すぐに鱗が生えてきて、何事もなかったかのように再びランド達へ向け歩み始めた。
幸運であったのは、この魔物は陸上での動きに鈍く、見入ってしまっていたランド達にとってでさえ、その脅威とはなり得なかったことであろう。
だがすでに魚人司祭との戦闘を経験していたシュトルンはすぐに意識を切り替え、ランドにも注意を喚起した。
「気を付けろ、奴ら遠距離魔法も使うぞ!」
言うが早いか、魚人司祭が再び言葉でない言葉を呟くと、自らの身体に付着していた血痕が何かに弾かれたように撃ち出され、無色の軌跡を宙に描いてランドの体を撃ちつけた。
ランドは咄嗟の判断で剣を盾に防ごうとしたが、無数の血弾全てを受け止めることは叶わず、いくつかの衝撃をその手足に受けたまらずよろめいた。
「ぃ……てぇっ!」
皮膚を貫通するほどの威力は無かったが、その衝撃は細い旗竿で突かれたような打撲感をランドに与えた。
「どうした、避けられない攻撃ではないぞ。先程私に撃ち込んで来たときの体術を見せてみろ」
まるで師のように物申すシュトルンにランドも負けじと言い返す。
「テメェ知ってたな、先に教えとけよ!」
言い合う二人の下に、酷く傷付いた騎士が魔物の動きを牽制しながら近寄って来た。
「団長! あの巨大な魔物は強力な遠距離攻撃魔法を行使し、北側に配置された分隊は防ぎきれず壊滅致しました! 生き残った者は東西の部隊と合流を図り戦線を維持しております」
厳しい顔になるシュトルンに対し、部下は傷口を抑えながらも報告を続ける。
「さらに未確認ではありますが、北門に向かい避難した民達が引き返して参りまして、その者たちの申すには……」
口ごもる部下にシュトルンは鋭い視線で報告の続きを促した。
その傍らではランドが魚人司祭を瞬く間に斬り倒している。
「その者たちの申すには……北の門が何者かによって閉じられたとのことであります!」
「なんだとっ!」
これにはシュトルンも驚かずにはいられなかった。
そして瞬時に駆けめぐる黒い胸騒ぎ。
馬車二台が通れる幅を有すアサラの街の門は、人ひとりふたりの力で閉じられるような大きさではない。
報告によると、門はかなり速い段階からすでに閉じられていたようであるとのことで、シュトルンはこれを、逃げた群衆の仕業である可能性は薄いと判断した。
――何者かが組織的な動きで門を閉じたのだとすれば……。
「全ての門が閉じられている可能性がある。何者かがどういう理由かこの街の人間を魔物の餌にしようと企んでいるのだ。そいつは魔物の出現を知っていて、事前に計画を立てていた疑いがある……」
それが何者なのか、何処にいるのかは今考えることではない。
今はただ、どう切り抜けるか、どうやって民達を救うのかだけが、『宮廷騎士団』の団長として、そして一人の騎士としての矜持をシュトルンに問いかけていた。
「私は示そう、私が誇り高き意志の継ぎ手であることを。志は問わず、ただ示すのみよ!」
その目に迷いはなく、ランドは思わず魅入っていた。
いつであったか同じような感覚を覚えた記憶がある。あれはそう、クーメの遺跡から移動する馬車内で、国を動かすと語ったマティアスの目を見たときであったか。
この赤い騎士にもあるのだ、己が生きる指針となる標が……。
ランドは急に自らが矮小な存在に感じられ、不安と劣等感が織りなす焦燥に駆られた。
皆、迷わす進んでいく、目的に向かって、志に従って、茶褐色の髪の剣士には無かった……目指すべき目標も、歩み出す理由も……。
だが、それは今考えることではない。
今はただ、どう切り抜けるか、どう生き残るのかを考えよう――そうランドは思った。
そしてメロディを探し、テオフィルを護り、アリナを……。
「アリナを何だ……? まぁアイツは良いか」
自問自答に耽るランドの意識をシュトルンの号令が呼び覚ます。
「総員をこの南側に集めよ! 団を二つに分け、一隊はここで魔物を防ぎ、一隊は民を誘導警護し、南門を開放するのだ!」
魔物を街の中心部に封じきれなかった以上、戦力を分散させていては、前後から挟み撃ちにされる恐れがある。
門が閉ざされたのであれば、それを利用して魔物だけを街の中に封じ込め、後は本国に応援を要請してから対処すべきだ。
シュトルンはそう考え、実行に移した。
命令は間もなく東西に展開していた部隊に伝達されたが、各分隊長はすぐには移動を開始せず、その場に留まり戦線維持に務めた。
「もっと北よりに兵を回せ! 三班は北から逃れてくる民を南に誘導せよ!」
「民の避難が終わり次第我々も後退するぞ! それまで頑張れ!」
この両分隊の動きは直ちにシュトルンの下へと届けられたが、赤毛の騎士団長は伝令に対し一喝をもって応えた。
「……と言うわけでありまして、戦線の縮小は民の移動が終わってからになります!」
「当たり前だ愚か者め! そんなことを報告するために貴重な戦力を割くな!」
普段であれば、シュトルンの指令の多くはロルフが噛み砕いて通達し、下からの報告はロルフの判断でシュトルンまで上げないこともある。
有能な副団長の不在をシュトルンは嘆いた。