第三話 帰路
ロウエム大陸の空に、月がその支配力を顕示し始めた頃、チルセン駐屯所南門には、複数体の屍が不規則に転がり地に晒されていた。
その中に、まるで自らを不動明王とでも言わしめるかのように、右手に戦鎚を持ち、左手を腰に添え立ちはだかる巨漢の戦士の姿があった。見た目は勇ましいが、その心情はどうやら違うようだ。
「うぅ……アリナ達遅いな。も、もう陽が暮れちゃったぞ。何かあったんだ……何かあったんだ……」
その様子を駐屯所内のテントの影に隠れて見ている人物がいた。視界にかかる若草色の髪の毛から覗く目を細める。
「チッ……フレッドの野郎ぉ、そわそわしやがってよぉ」
「おいルー! やばいぞ、帰ってきやがった」
物見櫓に登っていた金髪の長身戦士が梯子を降りながら伝える。
「最初の騎馬隊だ、二十騎はいるぞ。まだ距離はあるが、陽が落ちきる前には駐屯所に着くぞ」
「やべぇなベルパルシエ。二十騎ともなればこれまでのようにはいかねぇなぁ」
駐屯所の外周を巡回してきた兵や、屯所内から異変を感じて様子を見に来た兵は、いずれも多くて五人ほどだった。
駐屯所の兵士が五人単位で行動することは下見の段階で調べがついており、まず目立つ巨漢のフレッドを囮に敵の注意を引き付け、隙きを突いてベルパルシエとルーが不意打ちで敵の数を減らす……。
そのような作戦でここまでは上手く凌いできたが、相手の数が多くなればこの手は使えない。
「おいベルパルシエ! あれ見ろよ!」
夕闇に包まれ行く空と、不安に駆られる二人の心を、明るく照らし出す炎が駐屯所内に上がるのが見えた。
退散時には幕舎に火をかけ、敵の注意がそちらに向いている間に逃げる。これが今回の作戦の最終段階であり、そのための油をロジェが前もって準備していた事を二人は知っていた。
予感はすぐに確信へと進化を果たした。
あふれる程に食料を詰め込んだ鞄や袋を、ロジェが手綱を引く馬の背や腰に備え、その後ろをアリナが駆けて来た。
「ルーいるわね! ロジェと先行して!」
無事だった二人と一頭の姿を見て安堵したルーは、ロジェの前に躍り出て走り出すと、視線だけ後ろに送り親指を立てて見せた。
一方ベルパルシエは、アリナのすぐ後ろに迫る追っ手の存在に気付いていた。
一気に緊張が高まる。ここまで来て仲間を傷付かせたりはしない。……と大身槍の握りを確かめると、鋭い突きを繰り出した。
長身を活かした深い踏み込みと、全長六尺六寸(約二メートル)にも及ぶ長槍が、目標との距離をまたたく間に無に還す。
並の相手であれば、敢え無くその身に風穴が空いたのであろうが、この茶褐色の髪の追っ手は、並の範疇には入っていなかった。迫る殺気を感じ取ると、身を翻してその驚異をかわした。
「待ってベル! 彼は敵じゃないわ!」
アリナはベルパルシエの前に立ちはだかると、剣に手をかけたランドを背中越しに制す。
ランドは猜疑の視線をアリナの背に送ったが、滑らかに流れ落ちる、絹の織物のような緋色の髪に目を奪われそうになり、自分の心を誤魔化すかのように呟いた。
「言うのが遅いだろ。……この女、あわよくばオレを殺させようと思ってたんじゃねぇのか」
ランドの呟きが聞こえたのかはわからないが、一瞬アリナは魔性とも思える微笑みを焦げ茶色の瞳に投げかけると、寒気を覚えたランドを捨ておいて前方に走り出した。
「行くわよベル、事情は後から話すわ。殿をお願いね。フレッドを援護してあげて」
矢継ぎ早に指示を出す。
「オレじゃなくてあっちの彼奴等を頼むわ」
どさくさに紛れアリナの指示に追加を加えたランドが、顧みもせず親指で指し示した先に、今度は本物の駐屯兵が追いかけて来る姿が見えた。
事態の処理が追いつかず固まったままのベルパルシエは、とりあえず目前の危機に対処しようと、駐屯兵へと向きを変え槍を構え直した――。
チルセン駐屯所からおおよそ二里(約八キロ)ほど南に、アサラと呼ばれる街がある。
アサラ領主フリーデマン・シュトルフトは、父親から家督を相続すると直ちに行動に移った。
大陸の中心部、と言う立地を活かして四方に街道を伸ばし人流を生み、余った土地を貸し出し雇用を生み出した。
土地を借りつけた者の中に流通を生業とする者が現れると、フリーデマンは惜しみなく資金を援助し、流通と交易を二本柱としてアサラは経済的な地位を確立した。
フルオルガ王国最南端の辺境にある農村を、数年で交易の中心地にまで発展させたアサラ領主は、ロウエム大陸歴五〇八年にはクーメ魔法王国侵攻の急先鋒を務め、論功行賞で伯爵号を手に入れると、クーメ魔法王国滅亡後、一転して難民の受け入れ政策に力を入れ、さらに人口を伸ばした――。
戌の刻(二十時頃)になっても街の賑わいは止まず、松明や灯明などの灯りが、不夜城のように煌々と街並みを浮かび上がらせた。
チルセン駐屯所から南下して来たアリナ達が、丘の上からアサラの夜景を眺め見ていたが、その表情は皆暗い。
ランドもその例外ではなかったが、他の者とは多少意味合いが違うように見える。
「だぁあああ……追いついたぜぇ。ど、どうだフレッドォ……オ、オレのほうが早かったぜぇ……」
沈黙の夜気を吹き飛ばし、遅れていたルーがふらつきながら寄って来ると、そのまま倒れ込んだ。
「ふぅう。負けちゃったぁ」
さらに後からフレッドが到着したが、こちらはまだ余裕を感じられる。
「追い付いたわね。それじゃ帰るわよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよぅ。少し休んでから行こうぜぇ……」
息を付かせぬアリナに理不尽さを訴えかけるルーだったが、その肩に手をかけ、ニヤけ顔で諭してきたのは金髪の長身戦士だった。
「俺たちはアジトに着いたらゆっくり休めるだろ。アリナは今夜、明日の打ち合わにも行くんだぜ」
「ゲロゲロ……フレッドォ。おぶって行ってくれぇ」
「……ゲロゲロって何?」
「ランド……さん……でしたよね。街に入ったら最初に闇市に寄って食料を換金しますが、その後の予定は何か決まってるのですか?」
馬の手綱を引いていたロジェは、自分だけでなく、アリナをも圧倒する剣技を披露した男に興味を持ったようだ。
ランドは少し考えるように間をおいて、アリナの後をロジェと並ぶように歩きながら話しだした。
「ランドで良いよ。この後は……別に急いでる訳じゃねぇけど、クーメに行こうと思ってるんだ」
二人の会話に反応し、前を歩くアリナは目を細め耳に意識を集中させる。
「探してる人がいるんだよ。生きてるかは知らんが、目立つ人だから、死んでたら噂が聞こえてきてると思うんだよなぁ」
「彼女か?」
急に興味を示し出したベルパルシエが、二人の後方から会話に割り込んで来た。
「こんな臭い男に惚れる女なんか居ないわよ。どうせ生き別れの両親とかでしょ。今時よく聞く話だわ」
時間の経ったスープのように冷ややかな視線で、アリナがランドの答えを遮った。
「汚れてるのは認めるが臭くはねぇだろ」
「……………………」
誰も肯定の言葉を返して来ないことにランドはやや憮然としつつも、頬を拭う振りをして袖口を臭ってみた……。
アリナの偏見を否定するだけの根拠を得られなかったのか、茶褐色の髪の男はもう片方の偏見を否定することにした。
「親は死んでるよ。オレはクーメの生まれでね。国が堕ちた日、フルオルガ兵は女子供も構わず殺しまくってたよ」
面白い話が聞けるかと期待していたベルパルシエはバツが悪そうに黙り込んだ。代わりに沈黙の到来を阻止したのはアリナだった。
「この街は来る者を拒みはしないけど、笑顔で迎えてくれるわけじゃないわ。アナタが困るのは知ったことじゃないけど、せっかく奪った食料を換金するお金を、一晩で騙し取られるのは癪に障るわね。今夜は泊めてあげるから私たちのアジトに来なさい」
ランドはアリナのことを、見た目に反し性格の悪い女だと思っていたが、親が死んでいるという話を引き出したことに、意外にも気を使ってくれているのかもしれない。
それならば素直に甘えることにしよう。せっかく手にする金を無駄にはしたくない。
ランドは提案に乗ることにした。
アサラの街は大きく円を形取り、四方に門を配し周囲は壁で覆われている。
アリナ達は北側から帰還したが、住処は南側に位置するため、街を縦断しなければならない。
「えー、北から入るのかよぉ。南門から行こうぜぇ」
ルーが不平を漏らすが、時間がもったいないとの理由で却下される。ランドは会話の意味をはかりかねたが、回答は街に入ってすぐに示された。
北門の両側に焚かれた火が、夜勤に励む兵士を赤黒く照らし出していた。盾にはフルオルガ国の亀を模した紋章が見える。
兵士はいるが特に通行を止められることはなく、人間であれば出入りは自由、といった感じが見受けられる。
馬車が二台は並走できそうな幅の門をくぐり街へ入ると、道は綺麗に舗装され、両脇は住居や商店等の建物が押し並び、まるで城下町の体を成していた。
多くの店はすでに営業を終え、店先の灯りを失っているが、夜を主力とする酒場などは未だ喧騒の賑わいを醸し出している。
“不夜城”とはよく言ったもので、店先だけでなく、街全体が昼のように活動しているようだ。道を行き交う人々の数も計りしれない。
アリナ達は丘の上から街を見下ろしていたときと同じ表情で、見向きもせず歩き続けている。
ランドは次第に違和感を覚えていった。道行く人々に対し呼び込みをしている商人を見かけるが、自分たちに声を掛けて来る者は一人もいなかった。
しばらく進むと、酒場のテラス席で飲んでいた男らが、アリナ達に向かって唐突に毒づいた。
「おぉい! 貧民街からゴミが飛んで来たぞ!」
「なんか臭ぇと思ったらこいつらか!」
「ガハハ! 残飯なら裏道を探しな!」
わかりやすい答えを提示され、ランドも合点がいった。
フルオルガ国が覇権を制してから、貧富の差は拡大の一途をたどり、大陸全土で顕著に現れるようになった。
ここアサラも例外でないばかりか、他所よりもなお明瞭に醸し出している。
ここは行商人やお金を落としていく旅人が利用し、地元の富裕層が住む区画で、それとは別に貧困者たちが集まって暮らす区画があり、そして貧富の格差は想像に難くないものであるらしい。
だが持っている銭の量で人権を侵されることを黙って甘受する言われはない。ランドはまず小刀を探した。臭いに対する罵声を吐いた男の鼻を削ぎ落としてやるためだ。
「おいルー、ナイフ貸してくれ」
「やめて、相手にしないで」
緋色の髪で表情を隠したまま、アリナが静かに制す。
「なんだよ。街中じゃ健気な修道女ですってか。悪いがお前に自尊心を預けた覚えはねぇよ」
アリナだけでなく、ルーも押し黙ったまま動こうとしない。訝しみながらもランドは背中の剣に手を伸ばす。
「お願いやめて!……お願いだから」
これまでずっと気丈に気高く、高潔な態度で振る舞っていた魔性の女が、唇を噛み締め、肩を震わせ、緋色の髪の間から覗く瞳からは涙が滲み浮かんで見えた……。
怒りを堪えているようであり、弱々しく泣き出しそうでもあった。ランドにはどちらなのかわからなかった。
そもそも真っ先に剣を抜きそうなこの女がなぜ止める側なのだろう。他の四人の態度からしても、これが初めてのことではなさそうだ。
こいつらなら騒ぎを起こしたからと言って、街を出ても十分やっていけるだろう。それだけの腕を今日見たばかりだ。この街にこだわる理由があるということか……。
この修道服を着た女剣士の一行に気を使ってやる義理も恩もないが、食料を換金させる前に騒ぎを起こすのは確かに得策ではない。
ランドの怒りはアリナの震える拳が握りつぶしたようだった――――。