第三十一話 踏み込み
ある日を境に、幼き日のアリナの生活が一変した。
その始まりは、一台の馬車に乗ってやって来た。
アリナの住む屋敷に馬車から降りた男が通され、アリナの母親に書簡と共に渡された言葉――。
「シュミット様が討ち死になされました。王国の騎士に相応しく勇壮たる御最期であったそうです」
柱の陰に隠れ聞いていた六歳のアリナは言葉の意味が理解できず、しばらくの間は父親が近々帰ってくるのではないかと勘違いしていた。
間違いを正してくれたのは近所の子供たちであった。
「お前の父は不名誉な死に方をしたって父上が仰られていたぞ」
「剣の腕だけで成り上がった平民出は所詮、名誉や忠誠心とは無縁だったってことだな」
アリナの父は騎士号を有していたため、社会通念上では貴族であり姓氏を持つことが許されていたが、国法において騎士は貴族とは認められてはおらず、貴族社会の中でもコネや後ろ盾の無い騎士が貴族集会に呼ばれることは滅多に無く、騎士階級にある者たちは元々貴族たちから蔑まれる存在であった。
ただ、アリナの父親は軍部の中でも高位の階級にあったようで、これまでの貴族たちはシュミット家を下にも置かない付き合いをしてきていた。
それが手のひらを返したように差別的な扱いを受けるようになったのである。
アリナは父が二度と帰らぬことを悟り、ますます剣の腕を磨くことに没頭した。
理不尽ないじめに抗するには魔法ではなく武芸だと、投げつけられる石を交わすには魔法では間に合わないと、幼心にそう考えたのである。
数ヶ月が過ぎた頃、人の寄り付かなくなったシュミット家に一人の訪問者が現れた。
心無い言葉が落書きされた玄関扉を訪問者が何度も叩いたときは、すでに戌の正刻(二十時頃)を回っていた。
召使いも居なくなった屋敷の玄関広間で、訪問者は急かすように女主人に告げた。
「アリーシア様、一刻の猶予もございません。アリナ様をお連れになり、直ちに国外にお逃げ下さいませ」
「今すぐですか?」
「はい。すでに反シュミット派の者達が強行策に出ております。軍部からも敵勢力につく者が出ている由、夜が明ければ関所を越えることは困難になるかと……」
「母様……」
物音に目を覚まし、寝室から姿を消した母親を探してアリナが起き出してきていた。
アリーシアは暗がりの先で不安そうに自分を見つめるアリナに優しく微笑み返すと、訪問者に告げた。
「わかりました。ですがこれ以上貴方にご迷惑をかけるわけには参りません。お立場もございましょう」
「心得てございます。ここよりは屋敷の裏に馬車を呼んでございますゆえ、これに乗り国外までお逃げください」
アリーシアは直ちに行動に移った。取るものも取り敢えず、アリナの手を引き裏門へと急ぐ。アリナは訳もわからないまま、壁に飾り掛けられた愛用の剣を手に取る。
灯りもない屋敷の中、アリナから訪問者の顔は暗くて見えなかったが、割れた窓から差し込む月明かりが、訪問者の赤い髪を照らし出していた。
「……フルオルガの国境を越えたとき、私たちの乗った馬車は追手に見つかり襲撃を受けたわ」
その時母親は自らの命を盾にしてアリナを逃したと言う……。
以来アリナは姓氏を捨て、素性を隠して生きてきた。
「あの声、凄く嫌な感じがしたのを覚えてるわ」
不快な表情で絶命した単眼巨人を見やりながら、アリナはその声の正体について語った。
「キュラントで私を拾ってくれた修道院の院長が言ってたわ。それは死を予告する妖精の声だと……」
その時以来声が聞こえることはなかったが、久しぶりに耳にした声は、やはりアリナに不快感を覚えさせた。
ランドは鞘に剣を納めると、単眼巨人の軀を足蹴に不可解な現状を振り返る。
「単眼巨人と言い、その妖精の声と言い、何か普段と違う事が起きてる……か」
母親の死を想起し気持ちを沈めるアリナの頭に手を添えると、ランドはそのまま緋色の髪を掻き乱した。
「ちょ、ちょっとぉ……!?」
「心配すんなよ、子供の頃とは違うだろ、お前の周りには家族がいるじゃねぇか」
不平を鳴らそうとするアリナを遮るようにランドが言葉を被せた。
同時にランドは自らに対しても問いかける――オレには誰かいるのか……と。
不意に表情を曇らすランドの心中を察してか、アリナが意地の悪い微笑をたたえ言い返す。
「あなたもいるし……ね!」
アリナはランドの胸に拳を当てると、先に山を下り始めた。
ランドはしばらく胸に残る余韻に感じ入った。
頼られたのか――?
今までには無かった不思議な感覚を感じていた。
これまでは自らの空腹感を満たすためだけに剣を振り、他人との付き合いと言えば騙すか利用するのみであった。
それがアサラの街に来てからは変化が生じた。
依頼され、お願いされ、頼られ……自分からも頼み頼り、無償の、対等の関係性を築き始めているように感じていた。
――これが人付き合いと言うものなのか。
「まぁ、オレが損しない分にはこんなのも良いさ……」
少なくとも、貧民街に暮らす者たちを蔑むような奴らと関わり合うよりか、この者たちと明日の糧の心配でもしているほうが数倍マシだと思った。
今はこの胸に残る余韻だけが、自分が生きてる意味を示してくれてるような気がすると……ランドは、緋色の髪をなびかせ全速力で駆け下りて行くアリナの後ろ姿を見ながらそう感じていた。
「あ……おいっ! 報酬は折半だからな!」